第三章 存在の意義を問う
七、主はこれを見越していたらしい(1)
雲一つないよく晴れた朝。私は昇ったばかりの朝日に目を細めながら、主のお部屋を目指す。手には
「失礼いたします」
部屋の入り口に一旦、物を置き、部屋の格子戸を上げて室内に光を入れる。それから
「慧泉様、おはようございます。ご起床の時刻にございます」
お声掛けしたものの返事がない。私は仕方なく几帳をめくる。
「慧泉さ――」
当然、室内を見回しても主の姿はなく、心臓が嫌な音を立てた。私はすぐさま主を探しに部屋を飛び出す。
「慧泉様ー! 慧泉様ー! どちらにいらっしゃいますか?」
そして――。
ふと気づくと、私は主がお気に入りの縁側近くに座り、ぼうっとしていた。
「あれ……?」
いつからこうしていたのだろうか。はっとして主が普段
お部屋に戻られたのだろうか。主が移動されたことに気づけないとは、側仕えとして大失態だ。私は慌てて立ち上がった。
「うわっ」
慌てて柱に手をつき、体を支える。足先に広がるじんとしたしびれ。どうやらずいぶんと長いこと座っていたらしい。
空を見上げれば日の位置は高く、主が昼の軽食をつままれる頃だとわかる。私は主の部屋に向かう前に、
「すみません、慧泉様の軽食をいただきに参りました」
厨に入ってすぐ、使用人たちの目が一斉に集まった。それからさっと顔を背けられる。自分は何かしただろうかと思わず眉を顰めた。
「あの、慧泉様の軽食は」
入り口近くにいた女性の使用人に改めて問えば、女性は痛々しそうな目でこちらを見て、そして目を泳がせる。
「え、えぇと……」
「――おや、スイ様。いらしてたのかい」
厨の裏口から老婆が顔を出す。彼女は厨を任されている者の中でもっとも長く務めている者で、名前をミヤといった。
「ミヤさん。えぇ、慧泉様の軽食をいただこうと思って」
「おやまぁ、何を言ってるんだい? さっきご自分で持っていかれたじゃないか」
「え?」
私は首を傾げる。主に軽食を持っていった記憶はない。だが、確かに、普段であればすぐに差し出される。それがなかったということは、本当にもう持って行ったあとなのかもしれない。
「私が、持っていきました?」
「あぁ、持っていった、持っていった。なぁに寝ぼけてるんだい? そうそう、それよりも、あんたも早く食べちゃいなさい」
「私も? ですが、私の食事の時刻では……」
「今朝は忙しくて食べられないから、昼の軽食の時刻にいただくって言っていたじゃあないか」
「そう、でしたか……?」
納得いかないものの、あっという間に御膳を並べられ、座らせられる。そうして実際に食事を目の前にすれば、くぅっとお腹が鳴った。
「ほら、たぁんと召し上がれ」
「……いただきます」
だが、さほど口にしないうちに箸が止まった。
いくら自分で軽食を持っていったと言われても記憶にない。だからか、もう長いこと主を見ていない気がした。胸の内に不安が膨らむ。
「ご馳走さまでした」
「こら。お残しはいけないとお教えしたはずだよ」
「ですが、主のことが気になるのです。申し訳ありません……」
ミヤおばあさんは大きくため息をついた。だが、もう引き止められはしなかった。
私は申し訳なく思いつつも急いで厨を出て、主の部屋へと向かった。
そしてまた夜が明けて――。
私は空の御帳台を見て、主の部屋を飛び出す。
「慧泉様ー! 慧泉様ー! どちらにいらっしゃいますか?」
主を探す私の声が屋敷中に響いていた。だが、以前であればすぐに居場所を教えてくれた使用人たちも、何故か私を避けて通る。運よく呼び止められても、彼らは言葉を
私は本格的に使用人たちに嫌われてしまったのかもしれない。でも、そんなことどうでもよかった。私には主がいる。主さえいれば、私は他に何もいらなかった。
「慧泉様ー!」
毎日瞑想をしている中庭の見える縁側。時々体を動かすのに使う鍛錬場。実はこっそり手入れをしている裏庭。人目を盗んで子どもにおやつをあげている裏門。
私は心当たりをすべて見て回った。だが――。
「いい加減にしろ、馬鹿」
「リョウさん!」
廊下の角を曲がってすぐの所。苦虫を噛み潰したかのような顔をしたリョウが、私を待ち伏せていた。
私は慌てて足を止め、前につんのめる。普段であれば苦情を言うところだが、今日はそれどころではなかった。
「リョウさん、ちょうどよかった。慧泉様はどちらに?」
「何がどちらに、だ。いい加減、現実を見ろ!!」
きつい口調で怒鳴りつけられ、びくりと肩が跳ねる。
突っかかられたことは数知れず、嫌味を言われるのは日常茶飯事。けれど、リョウはこれまで決して怒鳴らなかった。だがら、目の前のリョウの姿に私は呆然とする。
「現実、ですか……」
「慧泉がどこにいるかは、お前だって知ってるはずだ。忘れたふりをしたって、現実は何も変わんねぇぞ」
「忘れたふりなど――」
ふっとまぶたの裏に浮かんだのは、鈍色の重厚な扉が閉まる光景。体がぞくりと震えた。
――香稜ノ戸
普段は目にすることのない特別な扉。それが開かれるのは揺岩が傷ついた時。そしてそれが閉じるのは修繕師がその扉をくぐったあとのことで――。
「…んなっ!」
私は大きく首を振った。これ以上考えてはいけない。思い出してはいけない。思い出さなければずっと、このまま変わらぬ日々を過ごしていけるのだから。
「慧泉は――」
「嫌だ! 言うな! 聞きたくない!」
慌てて耳を覆うが、すぐにその手がリョウに捕まる。
「聞け! お前はこのまま本当に慧泉を失ってもいいのか?」
「あぁぁぁぁっ!」
私は絶望に打ちひしがれた。必死に忘れようとしていた現実。主が修繕師として旅立ってしまったという事実。それをリョウは容赦なく思い出させる。
「うるさい! 黙れ! 黙れ! 黙れっ!!」
そして私はその場に崩れ落ちた。一度思い出してしまえば、その時の光景がはっきりと甦る。修繕師の衣に身を包んだ主の姿、声、そしてあの場の空気や匂い。
さらには目にすることが叶わなかった最後のぼやけた後ろ姿も。
「思い出したって、慧泉様はもういらっしゃらないのに……」
頭上でリョウが大きくため息をついた。
現実を受け入れる代わりに、胸にぽっかりと開いた穴から、残った心までもが砂となってこぼれ出ていく。心が、体が、氷のように冷えていく。
「お前は慧泉が大切にしてたものまで壊す気か?」
もうリョウの言葉など聞きたくなかった。だが、その言葉には思わず反応してしまう。
「お前のせいで伊雪が傷ついてる」
「伊雪様が……?」
主が大切に大切に可愛がられていた弟君。確かなのは、主が身代わりを申し出てるほど
「あぁ。やっぱり自分が行けばよかったって、今のお前を見るたびに嘆くんだ。ふざけんなよ。そんなことのために慧泉は修繕師に名乗りを上げたんじゃねぇ」
「そうでしたか、それはいけませんね……」
「それはいけませんね、じゃねぇよ! お前が原因だって言ってんだろ!」
何とかしなければという思いがないわけではない。だがそれはひどく現実味のない感覚で、とてもそのために何かしようという気力は湧かなかった。
私は途方に暮れて、怒り狂うリョウを見つめた。直後、そのリョウの顔が醜いほどにくしゃりと歪む。それは今にも泣き出してしまいそうな表情だった。
「あぁ、もう、じゃなくて……ただ、俺は原因をなくしてぇんだよ。だから、頼むから、お前のその不毛な行動をやめてくれ」
何故そんな切実そうな声を出すのか、私にはさっぱりわからなかった。それでもリョウが提示した方法はぼんやりとした私の中で、天啓のように輝く。
私とて主が大切にしてきた弟君の心を
「原因を……。それは…理解が及ばず、申し訳ありませんでした」
するとようやくリョウの表情が緩んだ。
「よかった。ならいい。今日からはちゃんとし――」
「では、すぐに武焔様にお話をして、飛石の家に戻らせていただきます」
「ちげぇよ!」
間髪を入れずにリョウが叫んだ。
主がいないのであれば、もうこの家に固執する必要はなかった。私がいて主の大切なものや場所を守っていけるならまだしも、障害になるならむしろ邪魔だ。私が家を出れば、伊雪様が私を目にすることもなくなり、きっと嘆くこともなくなるだろう。
瀬木家を出ると決めると、急速に周囲への興味が薄れていった。裏切り者と憎んでいたはずのリョウのことさえどうでもよくなる。
「くそっ、来たばっかの頃みたいになりやがって」
ぐっと強く腕を引っ張られた。見ればリョウが私の腕を掴んでいて、強引に立ち上がらせている。そしてリョウはそのまま歩き出した。
リョウに連れていかれた先、そこで戸の隙間から見せられたのは、目を真っ赤に腫らした弟君の姿だった。
その姿は確かに私の心を揺さぶった。このまま、弟君を放ったまま去る訳にはいかないという想いを私に抱かせる。
そして私は―― 一層身を粉にして働くようになった。
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