**主はこれを見越していたらしい(2)

          *



 目を開けると、そこには見慣れた天井があった。そして知らぬ間に布団で寝ている自分に驚く。何度か目をしばたかせ身じろぐと、まもなく声がかかった。


「いい加減、気も済んだだろ。目は覚めたかよ」

「リョウ兄……? あれ、どうして……」


 声のほうに顔を向けると、リョウが立膝にひじをついて半眼で見ていた。


「倒れたんだよ。お前、ろくに寝もしねえで働き通しだったろ」

「そんなことは……」


 ないはずだ。主はきちんと休まないことをひどく嫌う。だから誰よりもしっかりと休んでいた。夜は早々と自室へと下がり――。


「布団、使った形跡がなかったけどな」

「あれ……?」


 そうだっただろうか、と私は首を傾げた。思い返そうにもここ数日の記憶がない。


「で?」

「え?」


 リョウが当然のように言葉を促す。だが、私にはリョウが何を言わせたいのかさっぱりわからなかった。


「だから、体調とか、気分とかだよ」

「あぁ……」


 言われて意識を向ければ、体がとても軽いことに気づく。頭もすっきりし、冴え冴えとしていた。


「大丈夫です」

「お前なぁ……」


 簡潔に答えれば、リョウが不満げな顔をする。


「くそっ。まぁいいけど。とりあえず、数日はゆっくり休んでろよ」


 その言葉に、私は思わず顔をしかめた。

 おかしい。これではまるでリョウに心配されているかのようだ。

 じっと探るようにリョウを見つめていると、リョウがばつの悪そうな顔で視線を外した。


「別に俺は、お前を追い詰めたかったわけじゃなかったんだ。ただお前なら、扉をぶち壊してでも追いかけていくと思ってたから……」


 あぁ、と納得する。リョウは弟君の側仕えという立場上、主のために動くことはできない。そして動けるはずの私が動かなかったから、苛立っていたのだ。リョウは主の側仕えを止めたと言えども乳兄弟であることには変わりない。さぞもどかしく思っていたことだろう。


「これ」


 リョウが懐からすっと何かを取り出し置いた。私にはそれが懐紙に包まれた何かであることしかわからない。


「慧泉のやつが、自分がいなくなったあと、お前が倒れたら渡せって」


 私はその言葉に眉を跳ね上げる。主が裏切り者のリョウに物を預けていただけでも気に食わないが、それ以上に引っかかることがあった。


「自分がいなくなったあと、ですか。やはりリョウさんは慧泉様が修繕師になったことを知っていたんですね」


 自然と言い方に毒が混じる。冷静にと自分に言い聞かせるが、正直、心中穏やかではない。


「あぁ。それはその、悪かった。けど――」

「謝罪は不要です。それよりもそちらを早く見せてください」

「待て。お前ぜってぇ勘違いしてる」


 私が手を伸ばすと、リョウがさっと回収し、私から預かりものを引き離す。


「何するんですか」

「いいから聞けって。俺が知ってたのは、別に俺がお前を差し置いて慧泉から聞かされてたとか、そんなんじゃなくてだな」

「えぇ、わかって――」

「いや、わかってない。俺の場合は伊雪が関係してたからで――あぁ、もう。だいたいお前らは、相思相愛のくせに自信がなさすぎんだよ」

「は?」


 私は何を言われたのかわからず眉を顰めた。そして遅れてふざけるなと思った。リョウにだけはそれを言われたくなかった。


「……それはリョウさんのことでしょう? リョウさんこそ、慧泉様とあんなにも固いきずなで結ばれていたのに、側仕えをやめてしまうなんて」

「その認識がまずおかしい。だから慧泉が不安になんだよ。気づいてないのは、お前だけだぞ。俺と慧泉の関係はそんなんじゃない」

「嘘だ」

「嘘じゃない」


 一瞬、リョウにからかわれているのかと思った。だが、こちらを見るリョウの眼差しは真剣で、ふざけている様子は見られない。

 だが、本気であるならなおたちが悪かった。主の想いを一体なんだと思っているというのか。


「俺はお前が来るまで慧泉とろくに口なんてきいたことなかったんだ。お前が来たから慧泉と話すようになって、慧泉がお前のために、できることをしてやりたいって望んだから一緒に行動するようになった。お前がいなきゃ成立たねぇ関係だ。俺と慧泉の間に絆があるって言うんなら、それはお前のことだ。お前の存在が絆だった」


 だからなんだと思った。主のいないこの場では好き勝手言えてしまう。それを真実だと鵜呑みにすることなどできなかった。

 私はずっと、二人の仲の良さや、信頼し合う姿を見てきた。私はそんな二人にくっついて歩く、ただのおまけでしかなかったというのに、その言葉を信じることができるはずなどなかった。

 当事者は気づきにくいというが、まさにその通りだと思った。リョウは自分がどれほど主に信頼されていたのかわかっていない。


「とにかく自信を持て。俺が慧泉の側を離れたのは、慧泉にお前がいたからだ。慧泉とお前との間には確かな信頼関係があった。だから、俺は大丈夫だと判断して離れたんだ」

「大丈夫ではなかったでしょう?」


 はいはいと流すように言えば、リョウはわざとらしくため息をついたあと、何気ないふうを装って聞き返す。


「そうか? でも慧泉は俺を側に戻せとは一度も言わなかっただろ?」

「――え?」


 予想もしなかった言葉に、ガツンと頭を殴られたかのような衝撃を受けた。


「何言って……」


 リョウの言わんとすることはわかっていた。主は継嗣けいしに指名されてこそないが長男だ。その主が本気で望んだのなら、藍賀家としてもリョウを主の側仕えに戻さざる得なかったわけで、それがなかったということはつまり、私から見えないところでも、主による働きかけがなかったということを意味していた。


 だが、これを認めては前提が覆ってしまう。主に求められていたのにリョウが裏切った。だから私はリョウを憎む――という、この理論が成り立たなくなってしまう。

 それはこれまでの自分の在り方を否定するもので、到底受け入れられなかった。


「い、言い出せなかっただけだ! あの時、慧泉様は確かに傷つかれてた」


 私はやけになって叫んだ。何でもいいからリョウの言葉を否定する材料がほしかった。


「そうだな。けど、それはいつのことだ? お前だって気づいてんだろ? 慧泉様が傷ついたのは、俺が側を離れるって言った時だったか? 違うだろ?」

「それはっ」

 私は言葉に詰まった。


 リョウの言うとおりだった。主の態度が変わったのは、リョウが側を離れると言った時ではない。それは――私が失言をした時のことだった。


 リョウが主の側仕えをやめて弟君の側仕えになると言った時、主はほとんど反応をお示しにならなかった。その代わりのように、リョウに対する不平を言い続ける私を主は静かにたしなめた。

 私はそれを主の強がりだと思った。内心ではひどく傷ついていて、自分の心を守るために強がっているのだと思っていた。だから私は主の心を守らねばと思い、動くことにしたのだ。その手段が、自身の忠誠を示すことだった。


「ご安心ください、慧泉様。私は決して慧泉様を裏切りません。私が最後まで……死出の供として最後まで慧泉様につき従います」


 だがその直後、主の顔色が変わった。すぐに顔を伏せられてしまったため確信はないが、この瞬間、主が傷ついた顔をしていたような気がした。


 私は間違えたのだ。死出の供として冥府への同行者となれるのは、深い絆のある主従のみ。私ごときが名乗りを上げていいものではなかった。

 きっと主は死出の供としてリョウを考えていたのだろう。それを意識させるようなことを言ってしまったのがいけなかった――のだと、ずっとそう思っていた。

 だから主が傷ついたのはリョウのせいだとし、リョウを裏切り者としてずっと憎んできたのだが――。


「リョウさんがやめると言った時ではなかったと認めればいいですか?」


 私はこの話を早く終わらせたくて、投げやりに言う。


「いつだったかって俺は聞いたんだけどな」

「それなら……私が分不相応な望みを口にした時です。これでいいですか?」

「よくない。慧泉が傷ついたのは、お前が慧泉と一緒に死ぬって言った時だ」

「だからそれが分不相応な――」

「違う。慧泉はそれを分不相応って思って傷ついたんじゃねぇよ。自分が守りたいと思っている相手に、一緒に死ぬって言われたからだ。お前は俺たちより三つ下だ。一緒に死なれてたまるかよ」


 私は思わず顔をうつむける。信じられない。だが主の性格を思えば否定もしがたかった。


「それを踏まえて、だ。慧泉はそんなお前を一人、残して行けるようなやつか?」


 それでも主は供にじぃを選んだ。それが事実だ。


「慧泉は帰ってくることをあきらめてねぇよ。あいつは絶対にお前を一人にしない」


 確かに主は、物事を簡単にあきらめるようなお方ではない。だが、それがわかっていても信じられなかった。修繕師に志願することすら話してくれなかった主。そんな主が私を一人にしてしまう程度のことを……気にするはずなかった。


「……慧泉様は何もおっしゃらなかった」


 帰ってくるつもりなら何か一言あってしかるべきだった。だがそれもなかった。ということは、帰ってくるつもりがないか帰って来れないと思っていたということだ。


「あー、それはあれだ。慧泉の意趣返しだ」

「意趣返し? 慧泉様はそんなことなさいません」


 一体何を言っているのかと信じられない思いでリョウを見る。本気でそんなことを言っているのなら、藍賀家のご当主に告げ口をして根性を叩き直してもらわねばならない。


「いやいやいや。あいつ、ああ見えて結構大人げねぇぞ」

「リョウさん! 慧泉様を侮辱ぶじょくなさるおつもりですか!?」

「侮辱って、どんだけあいつに夢見てんだよ」

「夢など見ておりません。事実、慧泉様はどんな理想をも超えていかれる素晴らしいお方です」


 私と初めて会ったときから主は立派だった。主の素晴らしさを語れと言われたら、それこそ三日三晩語り続けられるだろう。


「……お前、ホント慧泉のこと崇拝してるよな」

 リョウがげんなりとした様子で言った。


 崇拝して何が悪い、と思う。主は崇拝するに値する偉大なお方だ。


「そりゃそうか。自分で気づけんならこうもこじれてねぇよな」

「何の話ですか?」


 主の偉大さを否定されたような気がして、私はむっとしながら聞き返した。


「慧泉が意趣返しなんてことをした理由が、お前のその態度にあるって話。前に俺が、慧泉はお前に持ち上げられたり、距離を取られたりすんのを望んじゃいないって言ったの覚えてるか? 持ち上げられりゃ、お前の理想を壊すのが恐くて、お前を頼れなくなるし、家族だって言ってんのに、他人みたく距離を取られりゃ傷つく。そんなんでどうして平気でいられる?」


 以前、リョウに突っかかられた時のことを思い出す。確かにあの時のリョウは、どうして主の頼みをきかないのかと怒っていた。

 それが主を不安にさせていることに対しての言葉であるというのなら、そのお叱りは甘んじて受けよう。だが――。


「それでも、慧泉様が素晴らしいお方であることには変わりありません」


 リョウは私に憐むような視線を向けながら、深々と息を吐いた。


「……なぁ、慧泉のやつ、縁側で目をつむってること多いだろ? あれ、何してると思う?」


 突然の話題転換に私は戸惑う。だが聞かれている内容自体は難しくなかった。私は悩むこともなく即座に答える。


「日課にしている瞑想でしょう? それが何か?」

「ハズレ。あれはそんな高尚なもんじゃねぇ。ただの居眠りだ。あいつ、昔から『日向ぼっこ』が好きだったからな」

「は? 何言ってるんです? 慧泉様が居眠りなどなさるわけないでしょう」

「ほらまたそれだ。そんなこと言われたら、慧泉だって居眠りしてたなんて言えるわけねぇだろ。お前はそうやってずっと慧泉の口を塞いできたんだ」


 ぐうの音も出なかった。先ほどリョウが言った「理想を壊すのが恐くて」という意味がようやくわかった。私が主を慕っていると見せれば見せるほど、主は私が押しつけた理想を否定することができなくなったのだろう。


 その事実は私の心を打ちのめした。リョウが主の側仕えをやめてから七年。私は誰よりも長い時間を主と共にしていたはずだった。それなのに――。


「主は私が悲しむとわかっていて、あえて帰ってくるつもりがあることを告げなかったのですね」

「あー、まぁ、そうなるな」

「では、本当に帰ってくると……?」

「あぁ。意趣返しなんてしたものの、結局、どんなお前でも可愛い弟であることには変わりないってことはあいつが一番理解してる。あいつは一度守ると決めた弟たちを悲しませるようなことはしねぇよ」


 何の保証もないリョウの言葉。けれどその言葉で私の胸がじわりと温かくなる。そしてほっと息を吐くのも束の間、リョウの言葉に引っ掛かりを覚えた。


「弟……?」

「弟だろ? スイだって家族なんだから」

 リョウはあっさりと肯定した。


 ――私は、弟たちが大切なんだ。


 不意に主の言葉が思い出される。途端に涙がこみ上げた。

 もしリョウの言葉が真実であるなら、あのときの主の言葉が向けられた先には私もいたことになる。


「慧泉様は、伊雪様のために身代わりになったのではなかったのですか?」

「万が一に備えてって意味じゃ、否定はしない。けど、それが一番の理由じゃあない。その理由だけじゃ、今上帝も修繕師の変更をお認めにはならねぇだろうからな」

「では、一番の理由というのは?」

「さてな。それがここにあるんじゃねぇの?」


 リョウが再び先ほどの主からの預かりものを出す。


「伊雪を救えても慧泉がいなくなったら、お前を救ったことにはならない。あいつはそう考えたはずだ。それでも自分が行ったってのは、多分、お前を動かすことも考慮してたんだと思う」

「修繕師が伊雪様でなく慧泉様なら、私が助けに向かうと? ならどうして教えてくれなかったんです? 先に言っておいてくださらなければ動けません」

「言おうとしてただろ。最後、お前があいつに嫌いって言った時」


 私は目を見開いた。

 嘘だ、と思った。だが確かに主は何か言いかけていた。


「でもって、言えない可能性も十二分に想定してたんだろうな。だからこれを用意した」


 リョウとて主から直接聞いたわけではないはずだ。にもかかわらずその言葉には説得力があった。


 私は再び目の前に置かれたそれを、穴が開きそうなほど凝視する。

 ここに、あの時聞けなかった主の意思が残されている。そう思うだけで心臓がばくばくと大きな音を立てた。


「慧泉様は本当に……」


 本当にここに戻ってくるつもりだということだろうか。

 そんなことできるはずないとあきらめきっていた心が、どんどんと期待に傾いていく。


 ――また、慧泉様と一緒に過ごせる?


 期待と不安との間で揺れる私の眼差しを、リョウがしっかりと受け止める。


「よし。いいぞ、開けてみろ」


 主からの預かり物だというそれを震える手で受け取る。そして恐る恐るその懐紙を開いた。


「書庫の鍵?」

 私は戸惑いの声を上げる。


 手紙になっているかと思われた懐紙には何も書かれておらず、ただ中に、鍵が一つだけ包まれていた。


「あぁ、なるほど。それでか」

「リョウさん……?」


 一人納得して頷くリョウに、私は説明を促す。リョウはにやりと笑うと、膝をぱんと叩いて立ち上がった。


「見ればわかる。――が、長丁場になるだろうからな。その前に飯だ」

「え、食事? いや、今はそんなこと言ってる場合じゃ……」

「駄目だ。お前、ここ数日ろくに飯も食ってないんだぞ。慧泉がそんなこと許すと思うか?」

「……いえ」

「わかったら待ってろ。持ってきてやっから」


 私は恨みがましくリョウを見た。

 主の名前を出すのは――卑怯だ。

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