**主はこれを見越していたらしい(3)

          *



 書庫といってもそこは非常に狭い部屋だ。入って二、三歩も歩けばすぐ奥へと行きつく。また、三方向が壁になっており、そこに据えつけられた棚に、巻物や折り本、古いものでは竹簡などが所狭しと積み上げられていた。リョウはその中から、箱にまとめられた二十巻にも及ぶ巻物を取り出す。


「ほらよ」

「それは……?」

「見りゃわかる。たぶん慧泉が見せたかったのはこれだ。っつーかこれしかねぇ」


 この巻物を選択したのが、それしか思い当たらないからという理由であることに少々不安を覚える。もし主が見せたかったものがこれでなかったとしたら、主の意思は失われてしまうだろう。


「んだよ。そんな目で見なくても適当に言ってるわけじゃねぇぞ? 慧泉がずっと何かの研究してたのは知ってんだろ? これはその研究の記録だ」

「それならなおさら納得いきません。まさかリョウさんはこの巻物に、慧泉様が修繕師として向かわれた理由が書かれているとでも言うのですか?」

「その可能性は高いと思ってる。修繕の儀の少し前に、有識者を集めての検討会が大内裏であったのは知ってるか? その直後なんだ。修繕師が伊雪から慧泉に変更されたって通達されたのは。だから俺はそれとこれとが無関係だとは思ってねぇ」

「そんな強引な……」


 こじつけだと思う。だが、他にあてがないことも事実だった。時間が惜しくはあるが、今はまずこの巻物に目を通してみるべきだろう。自分に向けられる強い視線に促されるように、私は巻物を開いた。


「――え?」


 開いてすぐ、声が漏れた。思わずリョウへと視線を向ける。リョウは戸惑う私を余所に平然としていた。


「リョウさん、これあってる? 本当にこれを慧泉様が研究なさっていた? だってこれ……」


 どう見ても、ここに書かれているのは私の視覚異常についてだ。こんなごく一部しか該当する者がいない症状を研究するなど正気の沙汰ではない。だから私は別の巻物を渡されたのではないかと疑った。


「あぁ、間違いない。それが慧泉の研究だ。慧泉はずっとお前の視覚について研究してたんだ。内緒にしてたのはお前に気にさせまいとしてだな」

「なんで、そんな……」

「そりゃ当然、お前が困らないようにだろ。原因がわかれば治せるだろうし、わからなくとも対処法くらいは見つけられるかもしれない。そう考えて――そう、お前が来てすぐ、一か月もしないうちに慧泉はこの研究を始めたんだ」


 思わぬところで主に思われたことを知らされ、胸が熱くなる。主は本当に私を想ってくれていたのだ。私は主に取るに足らない存在だと思われていると思っていたことを恥じた。


「リョウさんはこのこと知っていたの?」

「そりゃな。伊雪んとこ移るまでは手伝ってたし」


 だからリョウはこれを私に見せようとしたのだと納得する。同時に期待に膨らんでいた胸が萎んだ。


「でもじゃあやっぱり、慧泉様が私を動かそうとしていたというのは……帰ってくるつもりでいるというのは――リョウさんの勘違いです。ここの鍵を残したのも、単にこれを見せたかっただけだ。慧泉様はおっしゃってました。もう少しで研究の成果が出るって。それでこれを――」

「ったく、つべこべ言わずに読めって」

 リョウは残りの巻物を箱ごと私に押しつけると立ち上がった。


 主が私のためにしてくださった研究だ。この記録を読むことはやぶさかではない。だが、私の中ではすでにあきらめがついていた。

 やはり主が生きて戻ってくるかもしれないなど幻想でしかなかったのだ。


「いいか、全部読めよ? 俺は伊雪んとこに戻る。手伝うことができたら呼べ」

 リョウは少しだけふてくされた様子でそう言うと、部屋を出て行った。


 私は再び巻物へと視線を落とし、主が書かれた手跡を指でなぞる。そしてその文字の一つ一つから主の心を推し量るように、丁寧に読み進めていった。

 私から聞き取った拙い説明。へたくそな絵。恥ずかしい過去の記録も主の手にかかれば立派な研究となる。私は主が本気でこの視覚異常と向き合っていたことを知った。

 さらにそこには、私を使った実験についても書かれていた。思い返せば確かに昔はよく、どう見えるか、触れるか触れないか、そういったことを主に聞かれて試していた。それがこの実験だったのだろう。


 一巻読むごとに、これまでの主の行動と研究とが結びついていく。色々な先生を呼んでいたのもこの研究のためだった。

 最初の頃に多く呼んでいたのは医者や薬師。それは私の症状を伝え、見解を求めたり、治療法の提案をしてもらうためだった。そのあとにやってきた祈祷師は同じような症状で祈祷を依頼したものがいないか聞くためだった。

 そしてそこで、半世紀ほど前に似たような症状で祈祷を依頼した者がいたことがわかったのだという。それを受けて呼ばれたのが歴史学者。主は当時と今との共通点から関係性を見出そうとしていた。


 私は主が高名な先生方をお呼びするのは、ただ教養を高めるためだと思っていた。だが、そうではなかったのだ。


「私は、慧泉様を理解できていなかった」


 その事実を突きつけられて胸が痛む。けれどそれ以上に、先の見えない困難なこの研究に、心血注いでくれた主の想いが嬉しかった。

 そうして読み進めていくうちに、覚えのある名前が目に留まる。


「あ、これはこの前、民俗学の先生をお呼びした時の……」


 気難しいと有名だった先生。私は倒れそのお姿を拝見することもなかったが――。


「あぁ……」

 思わず吐息が漏れた。


 ここまでの話がすべて繋がった。こういうことだったのかと納得する。


 初めは治療のために研究をしていた主。だが、次第にそれは視覚異常が起きた意味を探ることへと変化していた。

 祈祷師の証言だけでなく、主がこれまでに目を通してきた書物の中にも、わずかに似た症状の記録があったらしい。だが、それが書かれていたのは医学書ではなく、そのことに引っ掛かりを覚えた主は、視野を広げて研究することにしたのだという。


 主の目のつけ所は正しかった。かつては私と同じ視覚異常を持つ者が大勢いたのだ。そしてその多くは元服前の子どもか、元服して数年以内の若者だったのだという。さらに彼らは香稜宮内で大切に保護されていたらしい。


「子どもか若者、か……」


 平時にこう言われただけでは気づかなかっただろう。だが、今、この時、この状況下で聞けば、それと結びつけることは難しくなかった。


「修繕師の条件だ」


 修繕師は帝に近い血を持つ二十歳以下の者の中から選ばれる。それはこの視覚異常が必要だったからではないだろうか。

 時代を経る中で、視覚異常が必要であるという情報が失われ、選ばれてきた者たちの年齢や血筋のみが伝えられるようになってしまったてのかもしれない。


「かつては、視覚異常を持つ子どもが修繕師になっていた――」


 さらに、民俗学の先生の話によると、かつては修繕師として旅立った若者たちは、三十三日以内に無事戻ってきていたのだという。これまでは、霊体として戻ってきたのだと捉えられていたが、これらのことを踏まえると、文字通り、無事に戻ってきていた可能性が高かった。


「この視覚異常が、無事に戻るための鍵だった……?」


 主が私を動かそうとした理由。それがこれでわかった。だがその一方で、主の決断には納得いかなかった。


 ――これに気づいたなら、私を行かせてくれればよかったのに。


 確かに、家柄的に私が修繕師に選ばれるのは難しかったかもしれない。だが供としてなら、連れていくことは簡単だったはずだ。側仕えを供にしても誰も疑問さえ覚えなかっただろう。

 おそらくこれも弟君の場合と同じだ。万が一に備えて私を連れていかなかったのだ。そんな配慮などいらないというのに。


 代わりに、主は私にこの仮説の実証を求めていた。

 真実である可能性の高いとはいえ、これは推論でしかない。私は自らの視覚を用いて、これを実証しなくてはならなかった。


「いきなり本番だなんて――慧泉様も無茶をおっしゃいます」


 最後の巻物を床に置いたちょうどその時、突然、周囲が明るくなった。驚いて顔を上げると、入り口の戸が開かれ、光が差し込んでいた。

 そして、その開かれた戸の向こうにはリョウが立っていた。


「リョウさん、これ――」

「飯だ。食え」


 リョウがどんと御膳を置く。だが私はそんなことより早くこのことを伝えたかった。けれどリョウの眼差しは有無を言わせぬもので――また前の食事と同じやりとりになることはわかりきっていたため、あきらめて箸を手に取る。


「ちなみにもう朝だからな?」

「え?」


 はっと外へと目をやり、それが西日ではなく朝日であると気づく。

 記憶は定かではないが、書庫にやってきたのは昼間の明るい時刻であったから、少なくとも半日と一晩は書庫にこもりっぱなしだったことになる。


「病み上がりなんだから食ったら寝ろよ。部屋に布団敷いてやっから」


 私は温かな羹に口をつけながら、まるで見張りのように腰を下ろしたリョウへと目をやる。


 不意にふふふっと笑いが込み上げてきた。

 思い返せば、昔もこんなことがあった。そう、まだ私がこの屋敷にきて間もない頃のことだ。

 危なげな手つきで食事を運ぶリョウ、慣れない手つきで寝床を整える主。かいがいしく世話をしてくれたかと思えば、主は心配そうな顔を、リョウはそっぽを向いて、けれどそばを離れることなくじっと私を見守っていた。

 ここに主はいない。だが、昔に戻ったような気がした。


「リョウ兄」

「んだよ――って、お前……」


 久しぶりにそう呼べば、気づいたリョウが視線を泳がす。私は構わず続けた。


「ありがとう、リョウ兄。絶対に慧泉様を助けましょうね」


 一度閉じた香稜ノ戸は次の変事まで開かない。それでも修繕師たちが無事に戻ってきていたということは、他に出入り口があるということだ。

 ならば私はそれをこちら側から見つければいい。私の持つこの視覚を使えばきっと、香稜ノ戸の代わりとなる出入り口を見つけられるはずだった。


 主の出発前の言葉を聞かなかったがために、随分と時間を無駄にしてしまった。主も不安に思っていることだろう。

 主が食料を節約していたとしてもあと三週間ちょっとしかもたない。合流するための時間を考えれば十日ほどの猶予しかなかった。


 ――慧泉様。今度は私が助けます。必ず、助けてお見せします。


 私はそう固く決意した。

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