八、側仕えは出会う(1)



 修繕師として必要とされていたこの視覚を、いつまでも視覚異常と呼び続けるわけにはいかないと、主はこれに多主観認知という呼び名をつけた。

 その由来は――話すと長くなるため省略するが、そこには、他者の主観――つまり客観的な視覚をも自身の主観として認識しているのではないかという推論が元となっていた。


 それはさておき、ここ最近、視覚がぶれなくなっていた私には、意図的にそのぶれを出すにはかなりの努力が必要だった。見たいときに重なりが見れなければ、おそらく多主観認知でしか発見できない修繕師たちの出入り口は発見できないだろう。

 というわけで私は視覚を切り替える訓練を始めたのだが、これを自在に操れるようになるまでには、多くの時間を費やすことになってしまった。


 修繕師が戸の向こう側へと持ち込む食料は三十三日分。それが往復の食料になると言われているが、主が香稜ノ戸をくぐってからすでに三十日。

 間に合うか間に合わないかで言うなら、すでに厳しいと言わざるを得ないだろう。ただ、主はきっと私の迎えを希望として、どんな手を使ってでも生き延びてくれていると信じていた。


「リョウ兄、支度をお願いします。出入り口を見つけ次第、そのまま入ります」


 少し前から徐々に保存食の準備を進めてもらっていた。出入り口を見つけてすぐのところで出会えればいいが、下手をすると私自身も揺岩のある最下層まで行かねばならなくなるかもしれない。一応一本道だと聞いてはいるが、もしわかれ道などがあったら再会の難易度はさらに上がってしまう。準備を怠ることはできなかった。


 が、もちろん一番の問題は出入り口を見つけるところだ。視覚を切り替える練習をしている間も、香稜山の麓、大内裏のある南側は一通り見て回った。今日はこれから山道に入り、香稜ノ戸に向かう予定だった。


 多主観認知でしか見つけられない出入り口があるとして、もっとも可能性が高いのは香稜ノ戸付近だ。

 今はもう滝が戻ってしまっているため、扉自体には近づけないが、その近くで、おそらく滝の影響を受けない場所に出入り口があるのではないかと予想されていた。


 そう、意外なことにリョウがずっと協力してくれていたのだ。私が視覚切り替えの訓練をしている間、過去の文献を漁り、出入り口に関する記述がないか調べてくれていたのはリョウだった。

 そして候補地を、香稜山の南麓、香稜ノ戸付近、そして麓から香稜ノ戸に向かうまでの道のり。一般の者が通る山道と、修繕師や神祇官だけが通る裏道。

 このどこかにあるだろうというところまで絞り込んだのだ。


 リョウと連れだって外に出て、それから視覚を切り替えるために一度目を閉じる。


 この切り替えを習得するために、わざと感情を昂ぶらせてみたり、他人との接触を断ってみたり、逆に人混みに紛れてみたりしていたが、結局は無心になるのが一番だった。無心になり、周囲と一体化すると自然と視覚を切り替えることができた。


 私は一度深呼吸をしてから目を開く。すると目に映る周囲の景色は一変していた。


「行きましょう」


 荷物をリョウに任せ、屋敷から麓へ、そしてそのまま香稜山へと入る。

 山道に入るとつい足が急いでしまうが、この辺りに出入り口がある可能性もあった。私は焦る気持ちを抑え、慎重に足を進めた。


「山の中ということはないんだよね……?」

「可能性は低い。なにせ付き人がいなかった時代もあったみたいだからな。十歳かそこらの子どもでも迷わず出入りできる場所にあったと考えるべきだ」


 可能性がまったくないということはまずない。こればかりはしかたなかった。だから私は自分の歩みに影響が出ない範囲で、極力遠くまで目を凝らした。


 それからまもなく、轟々と激しく鳴り響く滝の音が聞こえた。


「来たか……」


 行きは修繕師と神祇官だけが通る裏道を使って登ってきた。

 私たちが儀式に向かうために利用していた山道と、儀式の時、修繕師たちだけが利用する裏道。どちらに出入り口がある可能性が高いかといえば後者だろう、と考えていた。だがこの予想は外れてしまった。

 とはいえ、一番可能性が高いと考えていたのはこの周囲だ。ここを見て回って発見できるならそれでいい。


「この辺りを見て回ります。リョウも付近を確認してください。昔は道だったけれど今は埋もれてしまっているというような場所もあるかもしれません。もしあったらそちらも見るので呼んでください」


 リョウが眉を顰め、返事を躊躇う。

 その理由はわかっていた。屋敷を出たのは早朝だったが、今はもう日が傾き始めている。ここで時間を食うと日暮れまでに屋敷に帰りつけない。


「心配しないでください。ここで一泊します」

「そう……だよな。わかった。なら、俺は先に野営の支度をしてから動く。いいな?」


 出入り口が見つかれば野営の支度は必要ない。だから本当は先に周囲の探索を進めてほしいのだが。


「いいな?」

「……はい」


 念を押すように言われ、私はしぶしぶ頷いた。



 数時間後、私はリョウが熾したたき火の前にいた。辺りはすっかりと暗くなり、空にはこぼれ落ちそうなほど多くの星々が輝いていた。

 そう、夜だ。結局、あのあと出入り口を見つけることはできなかったのだ。

 私は見つけられなかったことが悔しくて唇を噛みしめる。絶対にこの周囲にあると思っていたのに、かなり念入りに見て回ったというのに、ここに出入り口はなかった。


「慧泉様……」

「馬鹿、落ち着け。今はとにかく体を……その目を休ませろ」

「うん……」


 休んでる場合ではないと思う。だが、今日一日酷使してきた目を休ませるべきという考えは同感だった。このまま無理をして出入り口を見逃すのでは意味がないからだ。


 そして目を閉じると、体がふらりと傾ぐ。その体が温かな腕に抱き止められると同時に、私は意識を手放していた。


 翌朝、行きとは別の経路で下山した。だが、やはりその道中にも出入り口は見つけられなかった。


「そんな……」


 他主観認知も自在に扱えるようになり、もう見つけられないはずがないと思っていただけに、ひどく落胆した。


「一旦、屋敷に戻るぞ。俺がもう一度文献を見てやるから、お前はその疲労を何とかしろ。練習だなんだっていってやっぱりほとんど休んでないんだろ」


 リョウはそう言って私を自室に押し込んだ。だが、この状況下で私がじっとしていられるはずがなかった。

 私はリョウの姿が見えなくなるのと同時に屋敷を飛び出した。



 目的地のない私はふらふらと彷徨い、気づくけば香稜神宮の前に来ていた。

私は鳥居の立つ御垣の前で足を止める。


「香稜の神……」


 私は反射的に手を合わせた。そして香稜の神、彩竜神(あやたつのかみ)へとご挨拶申し上げる。

 皇族でもない私はもちろん中に入ることはできないが、ここで主との再会を祈りたくなった。それに香稜ノ戸は香稜山にあり、間違いなくこちらの神の管轄だ。礼儀を重んじれば、神が応えてくれるような気がした。


「おや、あなたは……?」


 ふいに声をかけてきたのは老年の男性だ。この社を管理している者だろう。穏やかな笑みを浮かべて近づいてくる。


「私は瀬木家でお世話になっているもので、飛石スイと申します」

「あぁ、やはり、瀬木家の。どおりでお見かけした記憶があるわけですね。その節は大変お世話になりました」


 男は少しだけ複雑な表情を織り交ぜてそう告げた。

 それに対して本来なら私は、当然の務めを果たしたまでです、と答えなくてはならなかった。けれど、私はそれを口にはできなかった。


「……どうやらお疲れのようだ。こちらでお休みになられませんか」

「え? ですが」

「境内へはお連れできませんが、宮の裏手にある東屋であれば、入っていただいても問題ありませんから」


 なんとなく断れない雰囲気で、私は男性によって裏手へと連れて行かれる。そして東屋で休んでいると、男はお茶を入れて戻ってきた。


「この先の道を行くと香稜ノ戸。神宮のほうへ進むと、すぐに山ノ井がございます」


 最初に男が示した山へと続く道は、昨日、行きの道として利用した山道だ。次に男が手で示したのはそれとは反対側。神宮の敷地のほうだった。


「ふふっ、実は、ここの枝をちょっと寄せると、山ノ井をご覧になれるのですよ」


 何故今そんな話をと戸惑うが、どうやら男は私の気を解そうとしてくれているのだと解釈する。残された時間のあまりの少なさに、私は追い詰められていた。それが顔に出てしまっていたのだろう。


「参詣のためだけに上京された方が御垣の外からのお参りだけで帰られるのは忍びないと思って、こっそり案内してるんです」


 いつものことなのでお気になさらずに、という遠慮がちな男性の姿勢に好感を抱く。私は今だけは時を忘れて、男性の厚意に甘えることにした。


「ありがとうございます。では見せていただいても?」

「どうぞどうぞ」

 男はにこやかに頷いた。


 そして――。

 木々の合間から見える岩場。岩は水に濡れて黒く光り、地面には小さな水がたまっている。

 これが山ノ井かと思い、珍しい物を眺めるようにまじまじと見ていると、不意に視界がちらついた。その異変に引っ掛かりを覚えると同時に、私の視覚が切り替わる。

 それはもう癖のようなものだった。少しでも引っかかるものがあったならすぐに多主観認知へと切り替えられるようずっと訓練していたのだ。そして今、それが大いに役立った。


「あれ、は……!!」


 私は切り替えた目に映った光景に思わず息を飲んだ。山ノ井の手前、そこに先ほどまで見えていなかった半透明の輪郭が見える。


「あ、あ……!」


 あった。出入り口が本当にあった。それは言葉にならず、私はただ信じられない思いでそこを見続けた。

 そして最初の感動の波が過ぎ去って、ようやく男へと視線を向ける。とはいえ落ち着いたわけではない。私はわたわたと必死に口を開く。


「あ、あの、な、中に入れてください!」


 男は驚いた表情で目を瞬かせ、それからふっと柔らかな笑みを浮かべた。


「どうやらあの方のおっしゃったとおりになられたようですね」


 男の落ち着いた様子がじれったくなる。掴みかかりそうになる手を必死にこらえて、急かすように再度口を開く。


「そうではなく、早く――」

「飛石スイ殿、でしたな。どうぞお支度を済まされてから、正面の門戸を叩きなさい」

「何言って」

「見るに、黙って出てこられたのではありませんか? ずいぶんと軽装でいらっしゃいますし。屋敷の者が心配されますよ」


 そんなことを聞いているのではないと、もどかしさで一杯になる。


「じゃなくて、どうして!」

「あぁ、それは――。スイ殿の主様が働きかけくださっていたのでしょうね、今上帝より立ち入りの許可が下りてございます」


 無理だと一蹴されて、強引に押し入る覚悟でいた私には、その言葉は予想だにしていなかった言葉だった。私は内容を理解すると同時に、言葉を失った。

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