**側仕えは知らせに戦慄す(3)
*
弟君が主の部屋を訪問したあの日から、一週間がたっていた。以前より強まった日差しが軒下に濃い影を落とし、初夏の様相を呈している。
この日、珍しく主に午後の時間を空けておくよう指示された。
空けるの何も、主の側にいるのが私の仕事だ。主からの使いがなければ基本的にはお側にいる。それは主も承知しているはずで、改めて指示されたことにわずかに驚いた。
食事の片づけを済ませて主の部屋へと戻ると、主は机に書を広げて待っていた。
その光景に既視感――いや、懐かしさを感じる。
それもそのはずだった。これから主がなさろうとしていることは、私が瀬木のお屋敷に来たばかりの頃によくやっていた「診察」だ。
「あぁ、来たね。さぁ、そこに座って」
主は自身の正面の円座に座るよう指示した。主と向き合って座るのは久しぶりで、少し緊張する。
「失礼いたします」
「ふふっ、もう何しようとしてるかわかるよね。最近、目の調子はどうかな?」
私がこの家に来て間もない頃のことだ。こうして巻物を広げてリョウと二人で、私から視覚について色々と聞き出していた。
主は私の視覚異常を知るために診察をしてくださったのだ。
言葉での説明では要領を得ず、墨と紙まで用意してくださった。初めのころは実物とはかけ離れたへたっぴな絵しか描けなかったが、段々とうまくなり、そのうち、「スイは絵描きでもやっていけるね」とまでおっしゃっていただいた。もちろん私は主のお側を離れるつもりなどなかったが。
墨を水で薄めて濃淡をつける。重なったそれらは濃いものと薄いものと、形だけでなくそう言った違いもあるのだと気づかせてくれたのも主だった。
「はい、おかげさまでこれといった不調もございません」
主の優しさに心を打たれる。ある程度良くなったからと放置せず、今なおこうして気遣ってくれるような人は主をおいて他にない。
それに、気づいたことがある。主は昔を再現して、関係を戻そうとしてくれているのではないかと。
そう思うと嬉しくて仕方なかった。乳兄弟でもなんでもない私はリョウのように無遠慮なほど身近にいることはできないが、それでもまた心を通わせられるようになるのではないかと期待が膨らんだ。
我ながら単純だと思う。関係を壊したのは自分だというのに、主からの歩み寄りで、簡単に自分を許してしまう。
「ある程度、制御できるようになったってことじゃないかな? 感情が昂ぶると今でも『ぶれる』でしょう? 無意識に制御してるんじゃない?」
「そうかもしれません」
「ふふっ、そのせいで、未だリョウには連敗してるもんね、スイは」
「慧泉様、それはおっしゃらないでください」
羞恥に顔を赤くし、困惑を浮かべた。
それは毎年、年始に行われる剣術奉納試合の話だ。私は四年連続、決勝でリョウに負けていた。主がおっしゃるよう、ついリョウを前にすると冷静さを欠いてしまうというのが原因だった。
ぶれた視界にめまいが重なれば、もはやまともな試合ですらなくなる。それはここまで私に負けた者たちをも侮辱するひどい試合だった。ゆえに、もう四年も決勝まで勝ち進んでいるにもかかわらず、私の評判は最悪だ。もう二度と試合に出るなとまで言われる始末である。
私自身何度か出場を辞退しようかと思っていた。けれど、主は決して辞退することを許してくれなかった。
それが何故なのか私は知らない。ひどい試合を奉納することは帝に対しても無礼なことであり、主の名誉を傷つけることでもあるため、私は毎年試合に出たくないと告げているのだが。
「ごめんごめん」
私の反応を予想していたのだろう。主が楽しげに謝罪を口にする。
話題が私の負けた話というのは気に入らないが、こんな気軽なやり取りをしたのも久しぶりだった。リョウが絡む話題のわりには不快にはならなかったもそのおかげだろう。
「ところで、わざとぶれた状態に戻すことはできるのかな? 本当の意味で制御するっていうのはどっちの状態にもできるようになるってことなんじゃないかと思って」
「それは……嫌です。戻らないで済むのならその方がいいんです。病気だってそうでしょう? せっかく治ったのにぶり返すなんて、そんなこと……」
「ごめん、そうだね。ひどいこと言った」
「いえ、慧泉様は悪くありません」
ぴしゃりと言って、主が固くなったのを感じた。これがいけないのかと気づき、言葉を探す。
「主のおっしゃることなら私は気になりません」
けれどやはり何か違う。首を傾げながらさらに言葉を探す。
「ええと、だから……」
すると、主がくすくすと笑い始めた。私は困惑を深める。
「いいよ、無理しなくて」
「ですが」
「嬉しい」
「え?」
「スイが色々と言葉を考えてくれているみたいで、嬉しいよ」
かっと顔が熱くなる。主にはお見通しと言うことか。
「そ、それは、その」
主はしばらくそんな私を見て、楽しげに笑っておられた。
困惑しきりだった私だが、気づけば私の顔にも笑みが浮かんでいた。
「けど、気になるのはあれだよね。ぶれてないときでも、触り損ねることがあるだろう?」
私は大きく目を見開いた。主は気づいていらしたのだ。それほどまでに私のことをよく見てくださっているのだと思い、喜びが込み上げた。
「お気づきでしたか。実はそうなのです。ごく稀にではあるのですが……」
「やっぱりそうだったんだね。うーん、制御できるようになったからといって、まったく同じ光景を見ているわけじゃないのかなぁ」
「え……」
主のつぶやきに冷や水を浴びせられたような気がした。
ようやく主と同じ景色が見れるようになったと思っていたのに、それが違うなんて、そんなのは嫌だと思った。
私は、主が見ている景色を見たいのだ。他の似たような景色では駄目なのだ。
その時、部屋の外から慌ただしい足音が聞こえた。普段、屋敷の廊下を走る者はいない。何か火急の知らせがあったに違いなかった。
足音はだんだんとこの部屋に近づいてくる。私は主の許可を得て、部屋の戸を開けた。
「スイ! 慧泉!」
飛び込んできたのはリョウだった。一体どこから走ってきたのか、苦しそうに肩で息をしている。
「ス……慧泉、大変だ! 山ノ井に水花が浮いた」
私は息をのんだ。
水花、それは香稜ノ戸が開く時に表れる先触れだ。これが事実であるなら、早急に修繕の儀を行わなくてはならない。でなければ洸国はひどい天災に見舞われ、崩壊してしまう。
この時ばかりは普段動じることのない主も驚愕を浮かべ、声を失っていた。
一度は回避されたはずの国の危機。洸国の未来には、暗雲が立ち込めていた。
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