六、主とヤツは隠し事をする(1)
ここ数年、変事と呼べるほどの変事もなく、また帝も善政を敷いていたため、突然のその知らせに誰もが驚愕した。
水花が浮くのは、国が荒れた時だと言われている。一説によれば、
それが事実かどうかはともかく、史書を
だが、今、そのような国の乱れがあるとの話は聞かない。
至らぬ身ながらも、主のために常に世情には注意を払っている。もしそういった事実があったのなら、私の耳に全く入っていないということはないはずだった。
リョウ曰く朝廷では、前回の修繕が不十分だったのではないかとか、前回の修繕からかなりの年数が経過しているため、寿命のようなものだったのではないかという憶測が飛び交っているらしい。そうとでも考えなければ、誰も納得できなかったのだろう。
だが問題はそんなことではない。今、本当に向き合うべきは、
それから間もなくしてリョウは帰って行った。主と私の二人だけが取り残された室内には重い沈黙が落ちる。
私がそっと主を窺い見れば、主は思い詰めた様子で手元に視線を落としていた。
「その……
「おそらくは。これで
水花はあくまでも先触れだ。香稜ノ戸が開いたことを確認して初めて修繕師の派遣が決定される。
正直なところ、間違いであって欲しいと思う。だが、建国からこのかた、水花が浮いて香稜ノ戸が開いていなかったということは一度もないという。とてもではないが吉報は期待できなかった。
とはいえ、国民の間ではさほど危機感はない。
修繕師を香稜ノ戸の向こうに送り込めば、水花は浮かなくなるし、再び水花が浮く前に国の乱れを正せば、国は崩壊の危機を免れることができる。
もちろん、揺岩が傷ついているにもかかわらず修繕師を送らなければ、揺岩は割れ、国は崩壊してしまうと言われているが、修繕師が派遣されないという事態を国民の誰一人として想定していなかった。
修繕師を送り込めば一応の危機が去るのだと考えれば、別段、暗くなるような事態ではないと思うだろう。だが、それはあくまでも一国民に限ってのことだ。貴族の、それも帝に近しい家々にとってはそんな単純な話ではなかった。この修繕師を送り込むための儀式、
香稜ノ戸の向こうに送り込まれた修繕師は、二度とこちらへは帰ってこられない。
国を救う英雄と言えば聞こえはいいが、いわゆる生贄だった。国の平穏と引き換えに短い生涯を閉ざす。しかも選ばれるのは、例外を除き十代の男子で、帝に近い血を引く者の中からと決められている。
二度と帰って来られないとわかっていて、誰が望んで修繕師になるだろうか。どこの親が、まだ幼いとも言えるその年齢の子を差し出したいと思うだろうか。
今回の唯一の救いは、まず二十二歳である主が選ばれることはないということだ。立候補した場合はどうなるかわからないが、少なくとも現在、条件に合う男子がいないわけではないため、黙っていれば選ばれることはまずなかった。
――が、問題は主ではない。
主の弟君、
他家にも三人ほど候補者はいるが、家格が最も高いのは瀬木家で、帝の特別なご意向でも挟まれない限り、他の候補者になる可能性は低い。
当然、賢くあられる主はそのことに気づいているだろう。だからこそ、こうも沈んでいる。
けれど、私は主にかけるべき言葉を持っていなかった。主でなくてよかったと安堵している私が何かを言ったところで、慰めどころか嫌味にしかならない。
主はことのほか歳の離れた弟君を愛されている。もし弟君が修繕師となられたら、主はきっと長く落ち込まれるだろう。それこそ、リョウが主の側を離れてしまった時とは比べものにならないほどに。
揺岩が傷つくことは滅多にない。それこそ百年に一度あるかないかだ。けれど実は私の物心がついてから、一度、香稜ノ戸が開くのではないかと騒ぎになったことがあった。今から八年前。ちょうど先帝が崩御された頃のことだ。
その時、修繕師として名前が挙がっていたのは、当時十四歳だった主だった。
結局、あの時は香稜ノ戸が開くことはなく、主が修繕師として送り込まれることはなかったが、今回は事情が違う。噂ではなく実際に水花が浮いているのだ。もはや香稜ノ戸は開いたも同然であり、修繕師に選ばれれば逃れるすべはない。
「スイは、もし……伊雪が修繕師に任じられたらどうする?」
かすかに震える主の声。私は息を飲んだ。
修繕師の選出は神祇官が行うが、そこに口を挟めるのは帝だけ。私はもちろん、主であっても異を唱えることはできない。
つまり、選ばれたら最後、誰にもどうにもできないのだ。
私が答えられずに困惑を浮かべていると、主はごめんと言って、言葉を取り下げた。主に気を遣わせたくはなかったのだが、他にどういった反応ができたかも、私にはわからなかった。
そっと静かに立ち上がり、お茶を入れ直す。
それから主の正面へと回り膝をついた。この状況であと自分にできることは一つだけ。私にはこれしか思いつけなかった。
「慧泉様。しばしお側を離れる許可をいただけますでしょうか?」
「いいけど、一体何をするつもりだい?」
「大内裏に行ってまいります。神祇官がお戻りになられたら、すぐご報告に上がれるように」
「スイ……。ありがとう。でも大丈夫だよ。父上の側の者がすぐに連絡をくれるはずだから」
「ですが」
主は静かに首を振った。
ただ待つだけというのは辛いものだ。少しでも何かできることがあるのなら、して差し上げたかった。
「スイ」
「はい。何でしょう」
「少し、一人にしてもらってもいいかな」
「……畏まりました」
こんな状態の主を一人などしたくなかった。だが、それが主の望みであるなら、私は叶えるしかない。
一瞬、リョウを呼んでこようかと思った。きっとリョウなら上手く主を慰められるだろう。だが、私は実行しなかった。おそらく心細く感じられているのは弟君も同じだろうから、引き離すわけにはいかないのだと。
それが自分の行動を正当化するための言い訳であることに、気づいていないわけではなかった。主に対する小さな裏切り。自分の感情には
私は部屋を出たその足で使用人たちの元に向かい、その手伝いをして気を紛らわせる。こんな醜い感情など水と一緒に流せてしまえばいいのに、と思いながら食器を洗った。
翌日、屋敷の中には慌ただしい空気が満ちていた。正式な報告はなかったが、やはり弟君が選ばれたのだろう。
その夜、私たち使用人にも儀式が一週間後に行われることが伝えられ、本来の職分を越えて互いに助け合うよう申し伝えられた。
そんな中、どうやら主に遠ざけられているらしいことに、私はすぐに気づいた。
弟君が修繕師に選ばれてしまったのだから無理もない。主にならずに良かったという安堵が漏れてしまっている私の顔など見たくはないだろう。
だから私は無理に主の側に控えるということはせず、他の使用人たちの手伝いをしながら、都度、主の御用を伺いにいくようにしていた。
その主もご当主様の手伝いをしているのか、お忙しいらしく、私以上に屋敷の中を動き回り、朝廷との道を行ったり来たりとしていた。
主が朝廷に向かわれる際は、私も同行していたが、私は帝のおわす深部へは立ち入れない。私は仕方なく、控えの間でじっと主の御用が終わるのを待つようにしていた。
そして帰ってくると、またすぐさま仕事が振られる。
忙しいのは旅支度を整える者たちと、三十三日分の保存食を用意しなくてはならない
女性たちが厨にかかりきりになっているということは、他の普段行われていた仕事も滞っているということだ。私は時間の許す限り、屋敷の手入れや人の取次ぎ、物の手配などを請け負った。
そんな慌ただしい日々の中で、何かおかしいと思ったのは、果たしていつだっただろうか。
私は気づくべき唯一の機会を、気のせいだと決めつけて見逃してしまった。のちに、それを大きく後悔することになる。
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