**主の弟君は優秀で大人びている(2)

          *



 リョウが主を裏切ったのは、およそ七年前。私が十二歳、主とリョウが十五歳の時のこと。先帝が逝去された翌年で、湧煌帝ゆうこうていが即位なされて間もないころのことだった。



 湧煌帝が無事に即位なされたのを見届けた主は、この時ようやく肩の荷が下りたとばかりに大きく安堵なされた。

 主は、主の意思とは無関係に、周囲から次期帝として祭り上げようとされていたのだ。主の母君が先帝の正妻の娘であったことから、側室の血を引く湧煌帝よりも正当な血筋であると主張する者が後を断たなかったためだ。

 それは湧煌帝の取り巻きから漏れてしまった者たちが、権力を得たいがために起こした行動でしかなかったが、下手すれば主自身が処刑される可能性もある大変危険な出来事でもあった。


 元々、主と湧煌帝とは従弟同士で、歳も帝が四つ上なだけという近さもあって、自主的に文を交わす程度には仲も良かったという。だが、そんな二人の仲を彼らは引き裂いた。

 私が側仕えになるころには、二人は文を交わすことさえできない関係へと変貌しており、主は今にも壊れるのではないかというほど追いつめられていた。残念ながら幼かった私はそんな主に気づけていなかったのだが、ある日突然、豹変した主のことは覚えている。


 主はその日、突然狂われた。いや、狂ったかのように振る舞い、愚者を演じられた。その振る舞いは主の狙い通り、主を支持する者たちを失望させ、距離を置かせた。


 それから四年。主は悪評と引き換えに、次期帝にと推す者を完全に引き離すことに成功した。そんな主の努力の甲斐もあって、湧煌帝は何の障害もなくすんなりと即位することが叶ったのだ。



 そして明くる朝。これまでの気苦労から解放されたためだろう。主は珍しく熱を出して寝込まれた。年が明けたばかりの寒い季節であり、悪化させてはいけないと、私もリョウも甲斐甲斐しく世話を焼く。


「スイ。水がぬるくなるようなら取り換えなさい。それから、汗は体を冷やすからこまめに拭うように」


 めったにないことだからか、リョウの指導にも熱が入る。私は主のことが心配で頭が一杯だったが、だからこそ、リョウの言葉を聞き逃さないように必死に耳を傾けた。

 主は顔を真っ赤にして、苦しそうな呼吸を繰り返していた。まなじりからこぼれ落ちた涙を見て、代わってあげたい衝動に駆られる。


「慧泉様……」


 思わずつぶやくと、主がうっすらと目を開けた。そして、気怠そうに布団から片手を出す。私はとっさにその手を握った。主の手はとても熱かった。


「大丈夫です。すぐに良くなりますからね」


 私は主を必死に励ました。主は安心したようにまぶたを閉じると、再び眠りに落ちた。

 背後から小さくため息が聞こえる。あっと振り返ると、リョウは諦めたような表情で首を振った。そして、ぬるくなった水を換えに部屋を出て行く。


 この日、私は一日中、主の手を握って側にいた。



 それから一週間。主の風邪は完治していた。

 私は庭を散策なさるという主の支度を手伝う。衣を広げ、腕を通し、肩にかけ、襟を立て、形を整えながら、解けぬようにしっかりと帯を結ぶ。

 リョウはそんな私をじっと見ていた。いつになく強い視線に晒され、そわそわする。何か間違えているだろうか。それとも、手際が悪いとでも思われているのだろうか。普段色々と口を挟むリョウが黙っていることも私の緊張を高めている一因だった。


「大丈夫そうだな」


 リョウの口から出た言葉は、私の予想とはまったく違っていた。私はほっと肩の力を抜く。だがリョウの言葉はそれで終わりではなかった。

 リョウは私と主の正面へとまわると、おもむろに膝をついた。


「慧泉、スイ、聞いてくれ。俺――伊雪につくことにした」


 突然の申し出に頭が真っ白になった。

 ずっと悩んでいたんだ、とリョウは言った。それからなんだかんだと言葉を並べるが、私の耳には届かない。


「つくことにしたって」

「慧泉の側仕えをやめて、伊雪の側仕えになる」

「そんなっ」


 何故、どうして、と疑問ばかりが浮かび上がる。

 これまでずっと三人で上手くやってきた。主とリョウが不仲だったところなど見たことはないし、私の教育では確かに手間をかけてしまったとは思うが、今はある程度はできるようになっていて、この先、迷惑をかける割合は減っていくというところだった。それなのにどうして今、主の側仕えをやめるなどと言い出すのだろうか。


「ご当主様には」

「もう話は済んでる。許可もいただいた。本当は先週からのお約束だったんだが、慧泉が風邪ひいてたからな。明日から、伊雪のところに移る」


 リョウのそれは決定事項を告げるだけのものだった。私はそっと主を窺う。だが、主の表情を見た瞬間、かっと頭に血が上った。

 主の目は悲しげに伏せられていた。


「リョウ兄……!」

「伊雪のやつ、一人きりなんだぜ。いや、じいはいるけど、じいだっていつまでも側にいられるわけじゃねぇし、そのままにしとけねぇだろ。藍賀から人を呼ぶって話も出てたけど無理なんだ。誰をよこしても生理的に受けつけないみてぇで、長く一緒にいると吐いちまう」


 弟君は乳兄弟を亡くしてから、じい――藍賀家の前当主が側についていた。だが、じいはすでにかなりの高齢であったため、以前から代わりとなる者を探すという話になっていた。

 乳兄弟が亡くなってからすでに二年。どういう状況になっているのか気にならないわけではなかったのだが、話はいつの間にかリョウに巡って来ていたらしい。だが、リョウはそんな話がある素振りなど一切見せなかった。話が来ていること自体、教えてくれなかった。


 平然と話を続けるリョウに憎しみが沸いた。知っていたら止めた。知っていたら、主にこんな顔など絶対にさせなかったというのに。


「その例外が、使用人の中だとじいと俺だった。なら俺がつくしかねぇだろ。幸い、慧泉にはスイが――」


 パシンと小気味良い音が室内に響いた。

 気づけば私はリョウの頬を叩いていた。手の平にじんとした痛みが広がる。目に熱が集まり、涙が込み上げる。混乱する頭の中では、激しい怒りが渦巻いていた。


 主の側にもっとも相応しいのはリョウだ。リョウしかいない。それなのにどうしてリョウは平然と主を悲しませることができるのだろう。どうして平気で代わりがいるなどという残酷なことを言えてしまうのだろう。

 悔しかった。主の想いは明らかなのに、それがリョウに届いていないことが可哀相で、そしてそんな主の姿に、私では代わりになれないと現実を突きつけられて、辛かった。


「認めません。そんなこと、私は絶対に認めませんから! リョウ兄の馬鹿! 裏切り者!」


 終始、主は無言だった。そんな主を一瞥いちべつし、リョウは部屋を出て行く。


 それからしばらくして、主が私にいくつか自分のお考えを話された。だが、それは私の神経を逆なでするものでしかなく、血が上っていた私はとうとう失言をしてしまった。


 側仕えとして決して言ってはならない言葉だった。

 主はとても傷ついた目をしていた。


「出てって、スイ。もう……一人になりたい」


 それなりの年月仕えているにもかかわらず、一向に分をわきまえるということを覚えない私に、主は愛想を尽かしてしまったのかもしれない。

 少なくともこの時、私に対する主の信頼が、完全に失われてしまったことは確かだった。



 リョウの裏切りと私の失言。

 この日から私たちの関係はがらりと変わった。リョウと顔を合わせることは滅多になくなり、主と私との会話も一気に減った。突然開いた距離。だが、これが主と側仕えの正しい距離なのだと知った気がした。これまでが特別だったのだと思えば、次第にそれも気にならなくなる――はずだった。


 今も表面上は何の問題もない主従として上手くやっている。だが、私の心の片隅にはずっと大きな後悔と寂しさが居座っていた。

 主と私の歯車はおそらく今も噛み合わないまま。そのことに気づきつつも、今の平穏を壊したくなくて、私は気づかぬふりをし続けているのだ。

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