四、主の弟君は優秀で大人びている(1)



 目を開けると天井が見えた。間もなくここが主より与えられた自室であると思い出す。少し横になるだけのつもりが、しっかりと眠ってしまったらしい。だが、おかげで気持ち悪さは完全に消えていた。

 半身を起こし、部屋をぐるりと見回して、視界のぶれもまた治まっていると確認すると、思わず安堵の息が出た。


 以前、医者に治せないと匙を投げられた視覚異常だったが、私が主に仕えるようになってから、徐々に症状は治まっていった。

 最初の二年ほどは、治ったり再発したりの繰り返しだったが、三年目になると再発することもほとんどなくなり、今では先ほどのようなこと――リョウと言い合いになるようなことでもなければ、視覚異常は起こらなくなっていた。

 人と共にいる時間が増えたことで、他の人と同じようにものを見たいと願うようになり、それが良かったのではないかと言われている。

 だとしたら、すべては主のおかげだ。主が私のようなものでも大切に思ってくれる、お優しいお方だったからこそ、私は主と同じ景色を見たいと願うようになったのだ。


 そして主のことへと意識が向いた瞬間、たちまち目が覚めた。いつにない勢いで布団を片づけ、身だしなみを整え、そしてそのまま部屋を飛び出した。


 主の目の届く所に自分がいない。たったそれだけのことが、私にはひどく重大で、耐え難い焦燥感に駆られた。

 はっきりとした時刻はわからないが、もうお招きした先生もお帰りになられた後だろう。先生がお帰りになるまでには、お側に戻ろうと心に決めていたのだが過ぎてしまった。主にそう伝えていたわけではないが、約束をたがえてしまったかのような申し訳なさに襲われる。

 私は焦りに急かされるがままに、だが、走らないように気をつけながら、主の部屋へと足を急がせた。


 廊下を二つほど曲がってすぐのところ、後二歩も進めば主の部屋の入り口だというところで、ぴたりと足が止まった。

 部屋の中から声がしていた。まだ先生はおられたのかと思った矢先、今度ははっきりと会話が耳に届く。


「そっか、また」

伊雪いせつが気にするようなことじゃない」

「それをリョウに言われてもね」


 会話の合間合間でくすくすと小さな笑い声が上がる。その楽しげな様子に、私の心は一気に冷たくなった。


 部屋を訪れていたのは、主の弟君である伊雪様とその側仕えのリョウだった。

 いつだってリョウは私の留守を見計みはからってやってくる。私がいては空気が険悪になるばかりだからだ。今日も私がいないからこそ、弟君を連れてきたのだろう。先ほど主が私に部屋で休むように言ったのをリョウも聞いていた。だからだ。


 とはいえ、そんなリョウの都合など私の知ったことではない。何食わぬ顔をして、主のお側に戻ればいいだけだということはわかっている。だが、部屋から漏れ聞こえる楽しげな会話が私を怖気おじけづかせた。

 私は一旦自室へ戻ろうときびすを返す。リョウたちが帰ったころに出直そうと思ったのだが、その瞬間、空気がわずかに張りつめた。室内の会話は続いているが、その中からリョウの声だけが消えている。


 どうやら気づかれてしまったらしい。側仕えとして、弟君の警護役もになっているリョウは気配に敏感だ。戻ろうと体の向きを変えた時に生じた音か何かを察知したのだろう。

 私は自室に戻るのを諦め、戸の前に膝をつく。


「慧泉様、スイです」

「あ、いいよ、入って」


 主らしい親しみのこもった返事がある。私は静かに戸を開けて入室した。

 リョウは入り口のすぐ横、二人とは少し離れた位置に座っていた。先程までの様子から察するに、私の気配を感じるまでは二人の側にいたのだろうと思う。


「戻りが遅くなってしまい申し訳ございません」


 弟君に目礼をしたのち、主に対して深く頭を下げる。

 私が主のお側を離れる時は他の使用人たちに後をたくしているが、彼らには彼らの仕事があり、ずっとお側にいられるわけではなかった。でなくとも勝手の違いというものがある。主に不自由させてしまうことには変わりなかった。

 だが、主はそれを一切咎めないどころか、何もなかったから大丈夫だよ、と私をおもんばかるお言葉をくださった。


「それより、体調はどう?」

「はい、おかげさまでもう何ともありません」


 主の変わらぬ優しさを受け、ひそかに歓喜していると、水を差すかのような強い視線が向けられるのを感じる。それを認識した途端、瞬く間に心が冷めた。視線のぬしは間違いなくリョウだ。

 そんな無粋な視線に苛立つがすぐに平静をよそおい、本来の仕事をまっとうすべく主にお伺いを立てる。


「慧泉様、お茶をお持ちいたしましょうか?」


 リョウたちがいつからいたかはわからないが、お茶もお茶菓子も出ていない。客ではないが、兄弟で顔を合わせる機会が多くないことを考えると、ゆっくりとくつろげるよう場を整えるべきだろうと思った。


「そうだね、じゃあ――」

「いや、もう戻る。稽古の時間だ」


 主の言葉をさえぎってリョウが答えた。途端に血が上る。主の言葉を遮るなど言語道断だった。思わずリョウを睨みつけ、すぐに私とリョウの間で困惑している弟君の姿が目に入る。


「あ……。も、申し訳ございません」

「僕は構いません。でも、できれば二人には仲良くしてほしいと思ってます」


 ひかえめに、けれどしっかりと自分の意見を口になさる姿は、さすが主の弟君といったところか。

 弟君は主とはまた違った知性を感じさせる少年で、まだ十三歳という若さにもかかわらず、大人びたしっかり者だった。これで武芸にもひいでているのだから、周囲からの期待は絶えない。親族はもちろん女房や他の使用人たちからの評判も非常に高かった。

 だが、だからこそ心安くいられないという部分もあるのだが、それはあくまでも私の心の問題で、決して弟君のせいではない。


「お心遣い感謝いたします」


 肯定を避け、弟君の気遣いに対してのみ感謝を述べる。すると何故か、弟君は苦笑した。


「うーん、これは強敵。兄上、頑張ってくださいね。では、また参ります」

「うん。伊雪も怪我に気をつけて頑張るんだよ」

「はい。兄上もお達者で」


 私にはわからない言葉を残し、弟君はリョウと連れ立って部屋を出る。私もすぐさま立ち上がった。


「お見送りをしてまいります」

「ほどほどにね」


 私の稚拙な考えなどお見通しといった様子で主は頷いた。私はそんな主の眼差しから逃れるように、このけがれた心を見られないように、そそくさと二人の後を追った。


「リョウさん」


 主の部屋から少し離れた所で私はリョウを呼び止めた。リョウは面倒そうに足を止め、弟君に少し離れたところで待っているように声をかける。弟君は私を見るとまたしても苦笑し、頷いた。

 私は弟君が十分に離れたのを確認してから、小声でリョウを追及する。


「どうして主の部屋にいらっしゃったのですか。以前にもお話したはずです。伊雪様がいらっしゃるのは構いません。主も喜ばれますから。ですが、リョウさんはご遠慮下さいと、そうお伝えしましたよね?」

「あー、そうだな」

「リョウさん、以前、あなたが主にしたこと、お忘れではありませんよね?」

「覚えてる、覚えてる」

「リョウさん! ちゃんと聞いてください。あなたは――」


 リョウは耳をほじくり返しながら適当な返事をするだけだった。その面倒だと言わんばかりの態度に苛立たされ、ついむきになって言い募る。これが筆頭家臣、藍賀家の直系男児なのだから笑わせる。


「本当にわかってるのですか? もう二度と主に関わらな――」

「わーった、わーった。もういいだろ? 伊雪をこれ以上待たせるわけにはいかねぇからな」


 こういった時だけまともな側仕えのようなことを言うのだからたちが悪い。リョウが理解したとはとても思えないが、弟君の名前を出されてしまっては引き下がるしかなかった。


「お引き止めしまして申し訳ございません。お気をつけてお戻りください」


 リョウではなく弟君そう謝罪して二人を見送る。そして二人が廊下の角を曲がるところまで見届け、そっと息を吐いた。



 弟君は文武両道の将来有望なお方だ。

 それゆえに、主にとって好ましくない噂が流れることもある。


 ――ご当主は、次期当主として弟君をお考えらしい。


 その噂の根拠とされたのが、何を隠そうリョウの存在だった。

 主の乳兄弟であるリョウが弟君の側仕えになったことで、この噂はもっともらしく広まった。

 弟君と主につけられた側仕えは、かたや筆頭家臣、かたや分家の出。はたから見た時、どちらが重んじられているように見えるかなど、火を見るよりも明らかだった。


 この噂はあっという間に一族全体に広まった。

 現当主である武焔ぶえん様が次期当主を指名していないのは事実だったが、それは早くから役目を決めて自由な学びの時間を減らす必要はない、という武焔様の先進的な考えによるものだった。ただ、周りの人々はそう受け取らなかった。


 通常、家を継ぐのは長男だ。特に男兄弟のいる家では、弟が生まれた段階で指名するなり、意思表明をするなりして後顧こうこの憂いを消しておくのが一般的だった。ただし、長男が病弱であったり、明らかに頭の足りない者だったりした場合はこの限りではない。

 これらのことはどの家でも常識だった。それもあって、跡継ぎを指名しないという武焔様の決断は、主に何か問題があるのかもしれないという受け取られ方をしてしまった。


 噂はあくまでも噂であって事実ではない。だが、その噂のせいで陰口を叩く者や不躾ぶしつけな視線を向けてくるやからが後を絶たないのも事実だった。屋敷の者こそ噂が事実でないことを知っているが、屋敷を訪れる客や親族たちは違った。彼らは主を軽んじ、粗雑に扱い、主の心を傷つけた。

 屋敷の者たちの中でさえ、比較的温厚でゆったりとした主より、活発な弟君のほうがふさわしいのではと考える者が少なからず存在しているのだ。噂の払拭ふっしょくには時間がかかりそうだった。


 リョウの軽率な行動が、今、主を苦しめている。それを思えば、リョウと仲良くするなどとてもできなかった。


「スイ。また目がわってるよ」


 主の声ではっと我に返る。

 弟君のお見送りをして、主にお茶をお出ししたところまではよかった。だが、その後がいけない。主の側にいながらよそ事に意識を飛ばすなど、側仕えにあるまじき行為だった。


「いえ……。伊雪様が立派にお育ちになったと感慨深く思っておりました」


 それも嘘ではない。何せ私がこの屋敷にやってきた時、弟君はまだ二歳だったのだ。特に私は、弟君がちょうど物心がついたころに亡くしてしまった乳兄弟を、泣きながら屋敷中を探し回るという痛々しい姿も見てきている。それだけに、今の明るいお姿を目にできることが感慨深くあるのだ。


「そうだね」


 主は目を細めて頷いた。

 主はことのほか弟君を溺愛なさっていて、外出のたびに弟君へのお土産を買って帰ってくる。また、弟君の鍛錬の様子や学習の様子をこっそりと覗くのも日課だ。

 だが、きちんと顔を合わせてお会いできるのは週に二、三度。まだ学ぶことの多い弟君には自由な時間がほとんどなく、兄弟で共に過ごせる時間は非常に少なかった。


 弟君のことは私も大切に思っている。飛石ひいしの家では兄弟などいていないようなものであったから、不遜ふそんだと承知しつつも、初めてできた弟のように思い大切にしていた。

 主だけでなく弟君のことも含めて、瀬木のお屋敷は私にとって至上の場所だった。


 そんな私の不満はただ一つ。

 リョウの存在だ。


 リョウは裏切り者だった。私が敬愛する主を傷つけた、最も憎き存在。

 私はあの日からずっと思い続けている。

 リョウなんか、この屋敷からいなくなってしまえばいいのに、と。

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