**主と側仕えはこうして出会った(3)

          *



 その日、私が父と本家のご当主によって連れて行かれたのは大きな屋敷――瀬木家だった。

 瀬木家の前当主、慮源りょげん様が、私の噂を聞きつけて招いてくれたのだと知ったのは後のことだが、そんな縁で私は初めて瀬木家のお屋敷にお邪魔した。

 使用人に案内され、とある部屋の前まで行くと、最初に大人だけの話があると言われ、私は一人、庭の見える廊下――縁側というべきだろうか、そこに取り残された。


 良く晴れた日だった。使用人たちの行き交う縁側のど真ん中に突っ立っていた私は邪魔にされ、あれよあれよという間にえんへと押し出されていた。

 けれど、それは私にとってはいつものことで、まったく気にしていなかった。むしろ濡れ縁に押し出されたことによって庭の美しさに目が向いたのだから、悪いことではないとさえ思った。――その後のことさえなかったのなら。



 見知らぬ環境に連れて来られたことで、頭かどこかが刺激されたのだろうか。珍しく自発的に、庭に降りてみようかという考えが浮かぶ。飛石の家では余計なことをするな、部屋から出るなと常々言われていたため、一人で庭に降りたこともなかった。

 どこから降りられるだろうかと周囲を見回し、まもなく沓脱石くつぬぎいしを見つける。だが、それは子どもの足の長さからするとやや遠い場所にあった。


 濡れ縁のぎりぎりまで行けば届くだろうか。


 そう思い立つなり私は躊躇うことなく歩き出した。そして、もう一歩と足を踏み出した瞬間、足裏から感覚が消えた。踵に痛みを感じ、体が宙に投げ出される。

 あっという間に沓脱石が眼前に迫った。そして、ガツン、という鈍い音とともに光が弾ける。

 衝撃で意識が飛んだのは一瞬で、すぐに額に焼けるような熱さとずきずきとした痛みが生じた。さらに、生ぬるい液体が顔面を伝う。

 それが目に入りそうになって手でこすり、その手を見て私は衝撃を受けた。


「あ、あ、あ……」


 手にべっとりと着いた真っ赤な血。額から流れ出る血は留まるところを知らず、次から次へと滴り落ちた。

 私は恐怖と焦りで頭が真っ白になった。けれど、血は止まらず、痛みはひどくなるばかり。怪我には慣れている私も、この時ばかりはぼんやりしたままではいられなかった。狼狽し、どうすることもできず叫び出しそうになる。


 そんな時、屋敷の使用人がそこを通りかかった。


「きゃあぁぁぁ!」


 私の血を見た使用人が悲鳴を上げる。私はびくりとしてその女性を見上げた。血が目に入り、染みる。私は慌てて目を擦り、拭った。

 その間にも悲鳴を聞いた人々が集まる。バタバタと廊下を蹴る音、庭の砂利を踏む音。真っ先に駆け付けたのは、屋敷の警護を任されている者か。


「お、お前、何てことを!」


 衝撃から立ち直った使用人が何かに気づいたらしく、驚愕から怒りへと顔つきを変えた。

 その使用人の視線の先を見れば、沓脱石とその付近が血で汚れてしまっている。頭を打った時のものと、その後に滴り落ちたものだ。それらの一部は染み込み、石を赤黒く染めていた。

 血はケガレだ。高位の家になればなるほど忌み嫌う。


「どうし――まぁ、ひどい怪我」


 後からやってきた使用人が私に近づこうとする。だが、それをまた別の人が止めた。


「待て。今日の客って、飛石家だろう。この子どもは――」

「例の愚図ぐずか!」


 その途端、一斉に使用人たちが息をのんだ。何事かと窺うようだった視線が、嫌悪や侮蔑ぶべつ、怯えの色を帯び始める。


「何てこと! 危うく触ってしまうところだったじゃないの!」

「あ、あんた、その呪われた目でこっち見んじゃないよ」

「怪我なんてさせて大丈夫かよ。物の怪憑きなんだろ!?」


 私の悪い噂は瀬木家にまで広まっていた。だが、それが逆に私を冷静にした。

 気づけば私は八人もの使用人や警護の者に囲われていた。けれども彼らは一定の距離を保ち、それ以上は近づこうとしなかった。


 もし私が普通の子どもだったなら、私はがたがたと震えてしまっていただろう。自分より一回りも二回りも大きい大人たちに囲まれて、恐ろしくないわけがない。

 だが、私は普通の子どもではなかった。私が真っ先にしたのは視線を伏せること。目を合わせようとすれば、また焦点が合っていないことを気味悪がられるとわかっていたから。


「どうすんだよ、これ」

「早くケガレを祓わなきゃ」

「まずはこの子どもを放り出すところからじゃねえか」

「だが、親父さんが来てんだ。放り出すわけにもいかんだろ」

「いや、きっと親父さんだって理解してくださるさ。こんなことをしでかしたんだ、このままにしてなど――」


 集まってきた人々が何やら口々に言い始めた。

 私はそれらの言葉を聞くともなしに聞きながら、くらくらする頭を支える。ぞくりと寒気がして、不意に死という言葉が浮かんだ。

 その時だった。


「何してる、お前たち!」


 まだ声変わりも済んでいない少年の一喝。大人たちはぴたりと黙った。


「目の前に怪我をした子どもがいるんだ。手当てが先だろう!」

「ですが、この者は――」

「手当ての準備を! 早く!」

「はいっ」


 彼らが動き出すのを確認して、少年は私のかたわらに膝をついた。


「わが家の者たちが申し訳なかった。大丈夫――ではなさそうだな」


 少年は私の怪我を確認すると、この場に残っていた警護の者に「医者を」と命じる。

 そして私を支えるように肩に腕を回し、もう一方の手で自らの手巾を傷口に押し当てた。私は慌てて少年を押し返そうとするが、多くの血を失ったためにそれだけの力は出なかった。


「だ、駄目」

「ケガレのことなら気にするな。出仕しゅっしもまだだし、この程度のケガレなど気にするほどのものじゃない」


 もっとも忌み嫌われるのが死のケガレ。怪我をした程度では、帝のおわす大内裏だいだいりに出仕する者でもなければ問題にはならない。だが、流血するほどの大量の血となると話はまた別だった。ただ、私はそんなことすらわからない子どもだった。

 この時はただほっとして、体の力を抜いた。私を支える少年の腕はとても温かかった。


「おいっ」


 少年が少し焦った様子で私を覗き込む。私はその澄んだ瞳を見た瞬間、とりこになった。

 そして奇跡が起こる。

 私は目を見張った。突然、見ている景色が鮮明になり、私の視覚から重なりが消えた。常に何重にも見えていたそれがなくなり、すべてがただ一つの世界になった。

 無意識のうちに手を伸ばしていた。少年の頬の輪郭に、触れられるか否かという際どい位置に手を伸ばし、そして、触れた。


「あ……」


 触れた――その瞬間、言葉にできないほどの歓喜が沸き起こる。

 見えているものと、触れることができる場所は違う。それがこれまでの私の常識だった。そしてずっとそのせいで罵られてきた。だから、見たままの場所に感触があること、そして一度で確かに触れられることに私は驚愕していた。

 思わずその頬をなで、何度も感触を確かめる。そしてまもなく、相手が大きく目を見開いていることに気づき、はっと我に返った。


「あ! ご、ごめんなさい!」

「いや、構わない、けど……やっぱり、他もどこか悪いのか?」


 私はぶんぶんと勢いよく首を振った。いや、実際にはさほどの勢いでもなかっただろう。だが、そのせいで、また激痛とめまいに襲われる。


「はぅ」

「ばかっ」


 目を回した私を少年が焦った様子で支える。言葉とは裏腹な気遣わしげな眼差しに胸がトクリと鳴った。

 この時にはもう視覚は元に戻ってしまっていたが、高揚感は先ほどのままだった。少年から与えられる温かな思いを受けて、自分が生まれ変わったような感覚に襲われる。


「気をつけろ。まだ血が止まってないんだから」


 それからまもなく、使用人たちが包帯やら何やら、色々と持って戻ってきた。少年はまず濡らした手巾で血で汚れてしまった患部を拭い、そして綿布をあてがうと、きつく包帯を巻いた。


「しばらくここをこう押さえていて。もう少ししたら医者が来るからそれまでの辛抱だ」


 少年の言葉は右から左へと抜けていった。私の頭の中はすでに別のことで一杯で、体は強張り、手には汗を握っていた。普段より早い鼓動に、自分がいつもと違う状態であることを自覚する。


 ――お前もいずれは主家に出向き、お仕えすることになるのだから。


 それはずっと昔に父が私に言った言葉だった。父の言う主家が瀬木家であることを私は知っている。私はいつか、この家に仕えることになるのだ。ならば、いずれなどとは言わずに今からお仕えするのでもいいのではないかと思った。

 私の心はすでに決まっていた。私は今すぐにでも、この少年を主としてお仕えしたかった。


「ぼ、僕の主になってくださいませんか?」


 仕える側が主を選ぶなどあってはならないことだった。だが、この時の私はまだ子どもで、そして、他人との関わりも極度に少なく、自分が無知であることすら知らなかった。だから言えた。言ってしまえた。

 この場で刀で切り捨てられてもおかしくない言動だった。それほどの無礼であり、非常識だった。


 少年は驚いた顔で私を見た。だが、それ以上に周囲の人たちが唖然としていた。これまで向けられていたものとは別の感情が向けられ、彼らは氷像のように動かなくなった。

 そんな張りつめた空気を破ったのは、直後、頭上から降ってきた声だった。


「はっはっはっ」


 それは野太い笑い声だった。見上げれば父と、藍賀家のご当主と、見知らぬ老人がいた。


「お祖父様」


 目の前の少年がそう口にして、それでこの老人が瀬木家の前の当主だと知る。豪傑という言葉がぴったりなご老体だった。


「申し訳ございません、慮源様、慧泉様。子どものたわごとですのでどうかお見逃しを」

「いや、構わん」


 ご老体は、私が踏み外した濡れ縁を降り、座り込んでいる私のすぐ近くにしゃがんだ。

 ぐっと相手の顔が近くなる。自分よりも遥かに大きく、父よりも濃いはっきりとした顔立ちに、私は目を見張った。


「ほう。私を怖がらぬか。――坊主。名を名乗れ」

 私は小さく首を傾げる。


 そもそも私は名前というものの存在を認識していなかった。人と会話することなどほとんどない生活をしてきたことによる弊害だ。意味がまったくわからないというわけではなかったが、この問いの答えはこの時の私は持っていなかった。


「わからないか? なら、ちょうどいい。お前に新しい名前をやろう。お前の名前は――」

「――スイ。スイがいいです、お爺様」


 ご老体の言葉を遮り、少年が進言する。ご老体は苦笑し、それから少年の頭をポンと叩いた。


「だ、そうだ。覚えろ。お前の名前はスイだ。飛石スイ」

「――スイ」

「そうだ。呼ばれたら返事をしろ。名前を聞かれたらそう答えろ。いいな」

 私は呆然としながら頷く。


 たぶん気圧されていたのだと思う。このご老体は帝――今は代替わりしているので先帝となるが、その右腕とも称されたお方だ。向かい合うだけでも相応の胆力が必要だった。


「これは我が愚息の慧泉だ。スイ、お前は慧泉が気に入ったのか?」

「はい」


 これには迷わなかった。目の端で父が頭を抱えているのが見えたがそれには構わず、私はご老体から少年へと視線を戻す。

 私はまっすぐに少年を見つめ、その澄んだ瞳を見上げた。


「どうする、慧泉?」

「お許しをいただけますのなら、この者を私の側仕えの一人に」


 この時、少年――主が何を思っていたのかはわからない。けれど私は、主が受け入れてくれたことがただただ嬉しかった。


「よかろう」


 ご老体はあっさりと承諾すると、私の頭をぐしゃぐしゃにかき回した。応急処置は済ませたとはいえ、ずいぶんと血を失ってしまっていた私はふらついてしまう。


「お祖父様!」


 焦った主の声が響く。だが、ご老体は泰然たいぜんとなさっていた。


「ん? 何だ、よわっちいな。まずは体を鍛えよ」


 そして、がははと笑いながら立ち去るご老体。その背中はとても大きかった。



 こうして私は慧泉様の側仕えになった。

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