**側仕えは主に傾倒する(2)
*
主と別れ、庭に面した廊下を進んでいると、突然、横から暴言が飛んでくる。
「馬鹿者が」
こんなことを言ってくる人物は限られていた。反射的に舌打ちしかけ、
その人物は廊下と廊下の交わる場所。部屋の四隅に立てられた柱に寄りかかるようにして立っていた。
「リョウさん」
そこにいたのは、主の弟君、
リョウは主の乳兄弟で、私より三つ上の二十二歳。さらに言うと、この瀬木家に代々仕えている
正直に言おう。物凄い不服だ。幼いころこそ尊敬と親しみを込めてリョウ兄と呼んでいたが、それも七年前までのことで、今ではむしろ犬猿の仲といってもいいほど不仲だった。
リョウは不快そうに、わずかに身長の劣る私を見下ろしている。続く言葉は――ない。それならばとこちらから口を開く。
「申し訳ありませんが、これから来客がありますので失礼いたし――」
「お前さ、馬鹿じゃねぇの? 前から気になってたけどよ、お前にとっての慧泉って一体なんなの?」
さらりと受け流して立ち去るつもりだったが諦めた。先ほど馬鹿と言ったように聞こえたのは聞き間違いではなかったらしい。だが、聞き捨てならなかったのはそこではない。
「リョウさん、無礼です。主を呼び捨てになさらないでください」
「うっせぇ。いいから答えろ」
これでいてリョウは側仕えの鑑などと呼ばれているのだから信じがたい。こんな粗野で乱暴な男に自分が劣ることも、側仕えの鑑だと言われている者が主の側仕えでないことも、どちらも許せなかった。
こうなったリョウは答えるまで私を開放してくれないだろう。私は仕方なく答えてやる。
「主は主です。私はあの方ほど素晴らしい方を存じません。至高のお方だと思っております」
はっきりきっぱり正直に答えれば、リョウが嫌そうに顔を歪めた。
それはどういう反応だ、と余計に不快さが増す。私は決して間違ったことは言っていない。これはすべて私の本心だ。
「どの口でそれを言ってやがる。全然、慧泉の頼み聞かねぇくせに。さっきだって、慧泉は敬語やめろ、態度崩せって言ってただろ? しかも初めてじゃねぇ。もう何回も、何十回も何百回も言ってるってのに」
「それは――」
それは側仕えとしてわきまえるべき当然のことだからだ。単に身分の違いという意味だけではなく、他の者に付け入る隙を与えないという意味でもそれは譲れなかった。
客観的に見て、主は恵まれた立場におられた。となればやっかむ者がいるのも当然で、その地位や利権をめぐって、時には単に
そういった人々は、主にその隙ができるのを
側仕えの教育は主の役目。そして、側仕えが主と対等でないことは世の常識。主と対等な口を利いているところを目撃などされたらどうなるか。そんな側仕えがいるというだけで、主の
私はそんな危険を主に冒させたくはなかった。
ましてやリョウは、主の弟君の側仕えだ。忠告しているふりをして蹴落とそうとしている可能性だってある。そんな者の言葉をそのまま受け入れられるはずなどなかった。
私はリョウをしっかりと見返しながら、注意深く答える。
「主は清いお心をお持ちです。他者の持つ悪意や闇をご存知ではありません。主に代わって警戒するのは当然でしょう?」
「揚げ足取りはどこにだっていんだ。お前が態度を崩そうが崩すまいが変わんねぇよ」
「いいえ! 主の振る舞いには取られるような揚げ足などございません。ですから、私が一番の瑕疵になりうるのです。私が主と対等と見られるような態度を見せれば、主は側仕え一人躾けることもできないのかと笑われておしまいになります。私が主の恥となるわけにはまいりません」
「それで、お前のその自己満足のせいで、慧泉が傷ついててもか?」
「主は私ごときの言葉で傷つきなどいたしません。それよりもお身内や職場の方から非難されることのほうが問題です」
私は即座に切り返した。一番厄介なのは親族だ。帝と近い血筋にあるためか、選民意識が強く、自己顕示欲が強い者が多い。自らの発言力を強めるために、主を貶めようとする者が後を絶たないのだ。
この程度の話はリョウも理解しているはずだった。だからこそ苛立ちが募る。
「お前、鬼畜だな」
「それはどういう意味でしょう」
馬鹿に続いて鬼畜ときた。そんなに私のことが気に入らないのなら、構わなければいいのに。絡んでくるのはいつもリョウからだ。そのくせ、内容は私を
「わかってねぇから鬼畜だっつってんだよ」
いい加減にしてほしかった。それとも適当な言葉でこちらを混乱させることが目的なのだろうか。
――そっちこそ、裏切り者のくせに。
甦る過去の怒り。不意に視界がぶれた。
見えているすべてのものの輪郭が不明瞭になり、二重、三重に重なって見える。
痛みはない。だが、この状態で視線を動かすと、酔いに似たひどい気持ち悪さに襲われる。
この視覚異常は生まれつきのものだった。だから冷静になれば治まるということを知っている。まずはとにかく落ち着くことだ。リョウの言うことに取り合う必要などない。そう自身に言い聞かせた。
「お前はそれでいいだろうさ。慧泉に求められてるんだから」
「は? 何言っ――」
込められた皮肉を感じ取って逆上しそうになった。それを何とか押し留めたのは、主の側仕えであるという自分の立場。主のためにも見苦しい姿は見せられないと思い、荒ぶる心を必死に鎮めるが――。
「あぁ、だからか。慧泉に何度も求められたいがために、わざと敬語のままにしてるのか。そりゃさぞ気分のいいことだろうな」
「リョウさん!」
明らかな嘲笑。完全に見下しきった眼差し。何よりその言葉をやめさせたくて私は叫んだ。だが、リョウは止まらない。
「違うなんて言わせねぇぞ。もうわかってんだ。お前、慧泉に「家族だ」って言われて嬉しいんだろ。距離を置いて見せりゃ、慧泉は何度だって言ってくれるもんな。はん、慧泉がそんなお前の企み知ったらどう思うだろうな? 軽蔑されんじゃね?」
否定しようとした言葉も制されて、頭の中が真っ白になった。
側仕えたるもの、決してそんな思いを抱いてはならない。抱いてはならないのだが――。
当然だ。嬉しいに決まってる。主がそれだけ私に心を傾けてくれているのだとわかって嬉しくないわけがない。
だが、私は家族ではない。主の心遣いに甘えていい身分ではない。だから距離を置いていた。決して、主にそう何度も言ってほしいからなどという自分本位な理由からではない。
「軽蔑されちまえばいい。お前、ほんっとに最低だよ」
「黙れ! 理由はちゃんと説明したはずだ。俺は主のためを思ってそうしてるだけで、私情は挟んでない!」
一般的な話として考えても、主と側仕えが対等な口を利くなど非常識でありえないことだ。明らかに私の言っていることのほうが正しいのに、何故、リョウにここまで貶されなければならないのか。理不尽だと思った。
それなのに、リョウはさらに目の鋭さを増して、先ほど以上の怒りを見せる。
「はっ。主のためを思って、ね。それはまたスイにとってずいぶんと都合のいい言葉なことで。何をしても言っても許される免罪符かよ」
「だから違うって言ってるだろ!」
感情が、荒れ狂う嵐のごとく暴れ回った。
私は違う。私はそんな邪なことは考えていない。私は――リョウなんかとは違う。
気づけば体はリョウに掴みかかろうと体が勝手に動いていた。上げられた手がリョウの肩を目がけてまっすぐと伸びる。だが――。
「くっ」
手は空を切った。体の均衡が一気に崩れる。遅れてまた位置を見誤ったのだと理解した。
景色が重複して見えている時はいつもそうだ。触れようとしたものには触れられず、避けようとしたものにはぶつかる。視覚通りの場所に実体があるとは限らないと理解していたはずなのに、先走った怒りは私の頭からそのことを忘れさせた。
これは当然の結果だった。
大きな音とともに壁に激突する。空振った手はすでに下に振り抜いており、代わりに額を強打した。声を上げられないほどの強烈な痛み。だがすぐに、気持ち悪さがそれを上回る。
くるぐると回転して見える景色。ぐちゃぐちゃにかき回されたかのような頭の中。天地を見失って倒れそうになり、慌てて壁にすがりつく。そして手で目を覆い、外部情報を遮断する。
「――スイ!」
主の声がした。私は不調をごまかそうと、目を覆っていた手を外して笑みを浮かべる。
暗いぼんやりとした視界の中に、主の姿だけが明るく見えた。だが、その主の姿もゆっくりと回転していて、長くは見ていられない。
「あぁ、ご支度が済まれたので――」
「スイ、また調子を崩したんだね。今日はもういいから休みなさい」
「い、いいえ。問題ございません。引き続きお仕えいたします」
そう言う間に、主の顔が歪んだような気がして、私は声をしぼませた。
ぶれて、ぼやけて、回転している今の目では、主の表情を見ることさえままならない。主がどう思い、どう感じているのかわからず、私は不安に駆られた。
「私の命令が聞けないの? スイ」
顔から血の気が引いた。普段より硬質な印象の声と内容に、主を怒らせてしまったのだと知る。
「も、申し訳ありません」
そして深々と頭を下げれば、またくらっときた。ふらついた私を主が支える。
「お手数を――」
「スイ。違うよ、違うでしょ。私をよく見なさい」
主が私にぐっと顔を近づける。
主の顔はやはり怒っていた。だが、それ以上にそこを占めているのは心配の色だった。
「もうわかったね? じゃあ、どうする?」
「……部屋に戻って休みます」
「うん」
今度はいつも通りの柔らかな声だった。わずかに微笑みの浮かんだ顔はまだ心配そうだったが、そこに怒りはもう見られない。
主が活動しているのに自分だけ休むなどとんでもないことだが、主のあんな顔を見せられてはどうしようもなかった。今だけは主に甘えようと思う。そして、できるだけ早く主の元に戻ろうと心に誓った。
「じゃあ、私はもう行くよ」
「はい。いってらっしゃいませ」
お客様がお見えになる時刻であることは主もわかっているのだろう。主は後ろ髪を引かれる様子を見せながらも、私から離れる。そして、リョウに目をやり、一度視線を交わしてから去っていった。
そんな二人のやり取りに、胸がちくりと痛む。私が一番の理解者でなくてはならないのに、誰よりも、リョウよりも、主を理解していなくてはならないのに、こうして時々交わされる無言のやり取りの意味が私にはわからなかった。
私は再び手で目を覆う。この状態でしばらく深呼吸していれば、めまいは自然と治まるのだ。――と言っている間にも落ち着いてきた。
「お部屋までお送りしましょうか、オヒメサマ」
私が落ち着くのを見計らっていたかのように声がかけられる。その馬鹿にしきった口調はリョウのもの。リョウはまだ近くに残っていたのだ。
リョウがめまいでふらつく私を、か弱いお姫様になぞらえてからかってくるのはいつものことだった。だがそれでも屈辱的であることには変わりない。とはいえ、ここでむっとした様子を見せたら、それこそリョウの思うつぼであるから、私はいつも必死に怒りを
目を覆っていた手を外すと、ぶれてぼやけた視界にリョウが映った。私は腹立たしさを隠して何でもないことのように答える。
「いえ。結構です」
「ふん。だろうな」
もしこれが私ではなく主を悪く言うものであったなら、私は決して許さなかっただろう。だが、リョウの嫌味はいつも主ではなく私に向けられていた。だから私はリョウが主に接触しても止められずにいる。いっそのこと敵意を見せてくれたなら容赦なく叩き潰したというのに。
リョウは言いたいことを言って満足したのか、あっさりと去っていった。おそらく今リョウがお仕えしている、主の弟君のところに行くのだろう。
私は憎しみを込めてその背を睨む。こんなことをしたところで意味がないとはわかっていたが、リョウをただ見送るなんてことはできなかった。
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