三、主と側仕えはこうして出会った(1)



 幼い頃のことはほとんど覚えていない。ただ、今日のように失敗をして落ち込んだ日は、おぼろげに、いくつかの言葉と光景を思い出す。


「何見てるだいあんた! まったく気味が悪いったらありゃしない」


 そう罵声ばせいびせたのは祖母だったか、同居の叔母だったか。おそらく四歳か五歳頃の記憶だと思うのだが、確かなのは、この頃の私には味方がいなかったということだけだ。

 「気味悪い」という言葉は、当時、私が最も多く聞かされていた言葉だ。さらに、よく転んだり物にぶつかったりすることから「愚図ぐず」や「のろま」、また、焦点しょうてんの合わない私の視線に気づいた人々は「もの怪憑けつき」と恐れ、忌避きひした。


 私が生まれた飛石ひせき家では、家長である父に、母、祖母、叔母夫婦、兄、妹、それに加えて使用人二人と下働き二人が暮らしていた。

 中でも、祖母や叔母夫婦は私につらく当たった。大半は罵声を浴びせたり、嘲笑ちょうしょうしたりといった口先をだけのものであったが、時には叩いたり、部屋の戸につっかえをして閉じ込めたりということもあった。


 留守を預かる女衆二人の態度に使用人たちがならうのは当然のことで、陰口や嫌味はもちろんのこと、私の世話を任されていた使用人は世話することを放棄した。

 代わりに、おびえながら世話をしてくれたのは下働きの少年だ。自身の立場の弱さから、この役目を押し付けられてしまったのだろう。本来であれば、少年は家の見えない場所で働く者であって、着替えや配膳などにたずさわる者ではなかった。


 残る親兄妹はというと、特に何もない。おそらく私を取り巻く状況に気づいていなかったのではないかと思う。罵ることはないが、助けてくれることもなかった。

 私にとって父は、朝にお見送りをし、午後にお出迎えをするだけの人でしかなく、母は家にずっといたが、病弱でいつも臥せっていた。兄と妹に関しては、おそらく祖母の手によって引き離されていたのだろう、飛石の家にいる間に会うことは結局一度もなかった。


 だが、そんな祖母たちの行動も仕方なかったのかもしれない。

 目を離せば、ぶつかって物を壊し、勝手に怪我をし、家の中を汚す。余計なことしかしない私の存在はわずらわしかったに違いない。私が歩くだけで仕事が増えるのだから、日々苛立ちはつのるばかりだっただろう。

 それに、この頃はまだ、私の視覚が他の人たちと違うということはわかっていなかった。だから余計に、家の人々から向けられる視線が冷ややかだったのだろうと思う。


 そんなこともあり、物心ついた時にはすでに私の心は閉ざされていた。それはある意味さいわいで、誰にどんなに罵られようとも何も感じることはなかった。


 後に出会った主は、辛いことが多過ぎて感情が麻痺まひしてしまったのだろうと言った。それが事実かどうかはわからないが、今思い返してみても、当時の自分がどう感じていたのかはわからない。



 このような暮らしは、私が八歳になるまで続いた。

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