*困り顔を知った日
時期としては、「三、主と側仕えはこうして出会った(2)」の直前くらいでしょうか。
父がスイの視覚異常その他もろもろに気づいた最初の出来事です。
---------
何があったのかはわからないが、ふと気づくと、仕事中毒の父が家にいることが増えていた。
そしてそれに伴って、私が父の側にいる時間も増えた。とはいえ特に何をするでもない。同じ部屋の中にいて、同じ空気を吸い、そして、ぼんやりと父の仕事する姿や会話などを見聞きし続けるだけだ。
父は父でまた、手が空くたびに、私を観察するように見る。
書き物の手を止めた父と目が合う。互いに無言のまま、ぼんやりと見つめ合う。
父は私に視線が合わないだとか、物の怪つきだとか言ってこない。だから視線を合わせることもできた。だが――。
「お前、もしかして目が悪いのか?」
突然、父がそんなことを言い出した。
それは朝の挨拶以来の言葉で、私はむしろそちらに驚いた。
「いいえ」
父が何を思ってそんなことを言い出したのかはわからないが、ちゃんと景色は見えている。目は悪くないはずだった。
けれど、父はそれで納得はせず、質問を続ける。
「では今、私がどのような顔をしているかはわかるか?」
今? どんな顔?
どんなも何も父の顔は父の顔でしかない。
「どんな、とはどういう意味でしょうか」
「それは当然――笑っているか、怒っているか、困っているか、それとも泣きそうになっているか――そういうことだ」
「笑っているか……?」
「そう、笑顔だ。楽しければ笑うだろう? その時の顔だ」
とてつもない難問を吹っかけられた気分だった。
確かに人の顔が動くことは気づいていたが、そこに呼び名が付いているとは知らなかった。ましてや感情と連動しているなどとは考えもしなかった。
何せ、同じ言葉を口にしていても、毎回、同じ顔の形になるとは限らないのだ。加えて、いくつもの違った顔の形が重なって見える。ぶれて見える内の一つは眉を上げているのに、もう一つは目尻を下げている、なんてことも少なくはなく――。
あぁ、これもどちらかが「アタリ」で、どちらかが「ハズレ」だったのか……。
対象が人の顔だけに触って確認したことがなく、これまで私は気づいていなかった。だが、考えてみれば、目に見えるすべての物に当たり外れがあるのだ。顔にそれがあってもおかしなことではなかった。
「それで、笑顔……とは?」
「参ったな。そこからか」
二重に見えていた父の表情が束の間、一つに収束する。
そして見えた父は――困った顔をしていた。
「あ……」
なんとなく、父の言っている意味がわかった気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます