実りのない人生を過ごし続けているが、中学生の頃はそれが顕著であった。

僕はいわゆる健全な卓球部にきちんと所属していて、中学三年間をぐつぐつ煮てもコンロで炙っても一向に食えない友人と過ごすことになる。今にして思えば、ここが人生の分かれ目であったかもしれない。

 

 僕はきちんと卓球部に所属していたのだが、その活動は多岐に渡った。僕とその友人——仮に「玉田」と呼ぶが、僕たちは練習を続ける部員を横目に、主に絵を描いていた。黒板にゴリラの絵を描いていたりした。読者諸兄にはまるで珍妙なイメージが広がっていることと思う、人生においてその珍妙なイメージを想起させてしまったこと、別に伏して詫びない。広がり続けるとよろしい。

 またその部外活動は僕が三年生になった頃には勢いを増す。三年生になれば後輩も数名いたが、まるで尊敬のまなざしを向けられたことはない。無論建前では先輩である僕に文句を言えるはずもなく、悲しくも自由な生活が僕と玉田には許されていた。


 しかし似た者同士かと思われた二人だが、僕と玉田には一つだけ天地が離れるほどの差異があった。

 そう、玉田は卓球が上手いのだ。それも部で一二を争うほどに。

 だからこそ玉田は練習をせずとも実力があることを認められ(実際に彼の本職であるピンポンスキルは衰えることはなかった)、数少ない後輩からも教えを乞われていたりしたのである。

 僕はというと、三年生最後の大会でサーブミスをして負けた。一回戦である。しかもその負け方たるや、卓球はサーブをするときに手の平に乗せたピンポン玉を空中に舞い上げないといけないルールがあるのだが、それをどちゃくそ空振った。宙を切ったラケットから「え、いま真空波ででた?」と思わせるくらいに力強いスイングだった。つまり、僕のピンポンスキルは皆無に等しいのである。

 そんな訳であるから、僕は卓球部において「玉田と仲が良いヤツ」というポジションしかなく、「あいつは玉田の金魚の糞だ。いや、それは金魚の糞に失礼か」という陰で糞以下に評されたこともあったろうが、しかしながらも僕はめげず部に通い続けた。


 とくべつ覚えているエピソードがある。漬物である。僕と玉田は部室に、それは大量の福神漬けを保管していた。読者諸兄、“珍妙再び”でなかろうか。

 福神漬け、といっても底知れぬ壺に腐るほど入れていたとかではなく、それは学校給食で配布されるパック詰めにされた代物なのだ。僕と玉田は、その福神漬けを好んで食していた。大きさはポケットティッシュ程で、カレーの日には必ずその福神漬けが献立にあるのだが、しかし世間一般の中学生にとってそれはもう御察しのとおり甚だしく不味いらしい。日本の飽食に呆れるほど、その福神漬けは残飯に代わっていった。

 そんな状況に憂いて——というわけではなく、僕はそのひたすらに余る原材料もいまいち判別としない漬物パックを、クラスメイトからひそひそ回収し、それを部室に持ち込んだ。隣のクラスであった玉田も同じ作業に勤しみ、2クラス分の福神漬けたちが一堂に会した。また、田舎の学校給食ほど泣きたくなるものはなく、献立のレパートリーは貧弱を極めているため、カレーなんて日を待たずすぐに出ていた。そんなことだから僕らの「漬物サルベージ」はそこそこ名が知られてしまい、遠く離れたクラスの同級生自らが僕らに福神漬けを提供するという異常な事態にまでなり、しばらくなりを潜めていたこともあった。そういことが積み重なり、部室には漬物が山のように置かれる一角が設けられ、部で使う備品は僕らがどかした。

 思い返せば不毛であること焼け野原のごとし。こんなことで女の子にモテるわけもなく、僕は毎日を玉田と過ごした。







 大人になって、今まで友人と思っていた人間と話す機会はめっきり減った。社会人も三年目にさしかかろうとするが、忙殺される日々に身体を壊すことが増えた。そんな折、今は遠く離れた玉田から手書きの手紙が届いた。内容は僕を励ますでもなく同情するでもなく、ただ「自分もそんなことあったよ」というような、なんとも玉田らしいものだった。

 彼は僕にとって、数少ない親友らしかった。

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感情あって舌足らず 七色最中 @nanairo_monaka

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