感情あって舌足らず

七色最中

 なんの脈絡もなく、一人ノスタルジックになりたいと栃木県は岩舟まで向かった。都内から二時間かかるその駅には、清々しいほど何もなく、改札は無人であった。着いた頃には陽が山際にかかり、紫紺の空がゆっくりと町へ降りてきていた。遮るものがないのか、大地を滑る烈風は氷水のように冷えていて、おれの頬と首筋から体温を奪うだけだった。異様に喉が乾いた。


 それは帰りの電車のこと。おれには物珍しく映るボックスシートで、腰をおろした向かいに外国人の女性がいた。顔つきは初老を感じさせたが、指先は艶のあるネイルを施し、短く整えた髪型がスレンダーな輪郭に似合っていた。彼女はおれが座ると同時ににこりと笑顔をみせ「こんにちワ」と声をかけた。おれもそれにどぎまぎと応えた。


 しかしながら、おれは自らの無知を露呈してしまうくらいに、日本以外の言語を知らなかった。初めから彼女は旅行者に思えた。それは彼女が脇に置いていた鞄から「TOKYO 」と記された冊子を出して確信に変わった。そしてなおさら、これから一時間以上揺られるレール上の旅路で、彼女のために小さな彩りさえできない自分に悲しくなった。シャイな日本人代表としてこの場に存在してしまうことに、なにやら筆舌のし難い責任感さえ感じた。


 30分ほど無言の時間が続いたときのことだ。一瞬車内が賑やかになり、途中駅に着いたと気付いたときには、おれの隣に人が座っていた。すぐに女性の声で英語と思われる言葉を発していた。暗闇しか映さない窓は鏡の役割を果たして、おれは隣の女性を確認した。柔らかい輪郭をした一重の女性だった。品のよさが話し方にも滲んでいるようで、麗しい印象を得た。彼女らはあっという間に打ち解けて、これまでの旅路や出身の話をしているように思えた。おれの隣で自己紹介まで済ませた。話している日本人は「キミコ」と発音し、向かいの外国人の名前はどう発音するか分からなかった。おれはキミコが来てくれて良かった、と自分を慰めるように感謝した。


 北千住駅を告げるアナウンスが流れた。身を潜めていた小動物たちが動き出したかのように、車内はそこかしこで喧騒を大きくした。おれも降りる駅だったので、身動ぎしながら窓際に置いておいた文庫本をしまったりした。どうやら隣のキミコも降りる駅のようで、続けていた話を終息させて別れの挨拶をしたようだった。駅に着くとおれはキミコに続く形で席をたち、流れるように電車を出た。「バイ」と最後に聞こえたが、それはおれに言われたのではないと思う。ホームに降り立つと、キミコは一瞥もなく、振り替えることもせず地下鉄までの道へ進んでいった。なぜだかおれは、初めて会うキミコがおれに話しかけてくれると思っていた。改めてそんなことはない。隣の席にいた、という一瞬の重なり合いは、すでに終わっていた。電車もどこかへ消えた。


 ふと腹が減っている感覚を覚えた。普段は飲まない赤ワインをグラスに並々注ぎ、喉を潤したいイメージが頭を満たした。遅れてきた思考は、二時間前は畦と刈り取られた田園にいたのに、などと思い起こさせた。どちらにせよ孤独だった。いつの間にか戻ってきていたネオン街の光に、おれは虫のように吸い寄せられた。

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