第20話 英断
ずいぶん遅くなってしまったが、なんとか目処が立ちそうなところで帰ることになった。
部内はキス税の認証機械に関わる人が大半だった。そのためこの後どうなるのか分からない今の状況で残業する人などいなかった。
帰り支度をしながら口惜しそうに南田が言葉を発した。
「君にここまでの残業をさせるなど信条に反する。」
さすがに途中で帰ってもらうべきだったか…。
「南田さんもここまで遅いのは珍しいですよね。」
「いや。僕は構わない。」
奥村さんのためなら僕は構わないんだ。
会社のビルを出る手前で南田が口を開いた。
「今日はもう遅い。また日を改めて契約について話がしたい。」
今日にでも話してしまいたかったが…やはり別の機会にすべきだろう。
ビルを出ると名残惜しい気持ちを見ないようにして「じゃ」との言葉を発すると、二人は別々に帰った。
少し歩を進めてから、ふと気づく。
そうだった。女性をこんな時間に一人帰らせるとは、僕としたことが…。送るぐらいは構わないはずだ。
早足で来た道を戻り、奥村のアパートへの道を急ぐ。するとキス税の認証機械の近くにいる奥村が目に入った。
その姿はずっと前、契約なんてものを持ちかける前に会社の認証機械を見てため息をついていた奥村と重なる。
よもやキス待ちというわけではあるまい。
しかし認証機械前で立つ奥村はどこか儚げで、今すぐにでも捕まえておかなければ消えてしまいそうな思いにさせた。
捕まえなければ!
その思いから気づけば奥村を捕まえるような形で覆い被さって壁に手をついていた。
もういい。この際だ。今ここで言ってしまおう。
南田は決心すると口を開いた。
「そのままで聞いてくれ。」
すぐ目の前にいる奥村が愛おしくて顔を見たかった。だが、それでは伝えたいことが言えなくなってしまうかもしれない。南田は奥村の顔を見ないまま言葉を重ねる。
「寺田さんのことは悪かった。僕に癒着の件を協力しないか打診してきたが、無下にしたために増悪を抱かれて。だから僕に関わらない方が…。いや…そうじゃなくて…。」
何を言いたいんだ。そうじゃないだろ。
伝えたい言葉があり過ぎるのに口は思うように動いてくれない。心臓だけは自分の意思に反してドクドクと勝手に速度を上げていく。
「その…守るから…契約を今一度…。いや違うんだ。側に…いてくれないか?」
何があっても側にいて欲しいんだ。君を守るなんて厚かましいのかもしれない。でも君に…奥村さんに側にいて欲しい。僕は奥村さんのことが…。
口を開きかけた南田の所へ無情にも通行人の声が届く。
「ねぇ。あの男の人、告白でもしてるのかしらね。耳まで真っ赤よ!」
な…。だからどうしてこういう時に…。
その声に奥村が振り向いた。その顔を見たいとは思っていたが、今はダメだ。
振り返った奥村の顔はすぐ近くで、余計に南田を動揺させた。何より自分の顔が赤くなる自覚があったための背後からの会話だったのだが、それももう意味がない。
無駄なあがきなのだが、隠すように顔を片手で覆った。
「そのままで、と言ったはずだ。」
動揺で上ずった声が出る。奥村は戸惑ったような顔をしていた。
だからその顔、反則だろう。
愛おしくてもう抑えられなかった。抗うことなど最初から無理なのだ。
南田はそっと顔を近づけ、同時に手を取った。目を閉じて眼鏡をわざと当てさせる。そして優しくそっとくちびるを触れさせた。温かい吐息が伝わって胸がドクンと波打った。
もう離れなければいけないという思いは離したくないという思いに負けて、もう一度奥村を引き寄せる。そしてそっと離したくちびるをまた重ねた。それは息が止まるほどに長くて甘い…。
さすがにもう離さなければならないな。どうにか理性を働かせると機械に手を触れさせた。
ピッ…ピー。認証しました。
機械の音に目を開けた奥村は照れたような顔で驚いていた。
「な…どうして…。」
南田の無表情の顔のことを言っているようだった。
離れるために理性を働かせれば、無表情にならざるを得ないだろう。
しかしそんな事情を言うわけにもいかない。そしてそんな気も知らないで…と意地悪を言いたくなる。
「人が動揺する顔を見ると冷静になれる。」
「!」
奥村はむくれたように恨めしげな視線を南田に向けた。南田はその可愛い視線から逃げるように、そっぽを向いて本音を口から滑り落とした。
「僕は君のことが好きらしい。」
「は?」
変な声を上げた奥村に、つい吹き出してしまった。
そりゃそうか。好きらしいでは失礼だったか。認めなければならないな。確実に僕はこの子を…盲目的とも言えるほどに好きだということを。
それにしたって一世一代の言葉に「は?」とは…。やはりこの子は底知れないな。
「君は、はなはだ予測不能だ。」
ダメだ。愛おしい。
「まぁそういうところが…。」
「そういうところが、なんですか?」
これ以上を外で続けるというのか…。衝動を抑えきれなくなったらどうするのか。
しばらく考えてから口を開く。
「君を捕獲したのだから今日はマンションに来るだろう?」
「ほ…かく…。」
動揺している姿がやはりなんとも言えない。南田は僅かに本音を織り交ぜた言葉を発する。
「捕獲ではなく捕食が望みなら僕はそれで構わないが。」
「な…。」
余計に動揺する奥村は可愛らしかったが、自分の心と葛藤することになった。
純情だからな…奥村さんは。それにそうだ。奥村さんを招き入れるにはマンションが…。
「まぁマンションに来ても、また玄関で待たせることになるがな…。」
前の惨状を露呈した部屋の有様を思い出したのか、奥村はフフッと笑った。
そんな奥村に南田は反省の色を見せた。
「やはり君への長時間拘束が否めない。今日は帰宅させる方が賢明か。」
きっと今、連れ帰ったら帰せなくなってしまう。
あらぬ方向のことを心配している南田に奥村は思いもよらない言葉を口にした。
「私、まだ南田さんのこと好きとは言ってませんけど。」
「な…。それは…。そうか…違うのか?」
あの音源は…。いや、しかしそうだな。あれから幾日か経っている。いや、だからと言って好きでもないのに認証を受け入れるのか…。はぁ。最初の認証は所詮なし崩しだった。今回もそうだと言いたいのか。
完全に想定外の言葉に南田の頭は高速回転をして擦り切れてしまいそうだった。
それなのに奥村は飄々と発言する。
「さぁ?内緒です。」
「…それは卑怯だと言わないのか。」
音源を聞いて奥村さんの気持ちを知った上での発言の方がよっぽど卑怯なのは承知しているが、それでも惑わすような発言をするのはいただけない。僕の気持ちは伝えているのに…。
「だって他人事みたいに言われても…。目を見てちゃんと言ってくれなきゃ分かりません。」
「な…。」
また顔に手を当てた南田は顔を背けた。
赤くなる無様な姿をもう一度さらすなど有り得ない。
「では互いに帰宅しよう。」
ちょうどいいではないか。一人帰宅して冷静になろう。
南田は一人暴走している気持ちを鎮めるために、断腸の思いで英断した。
奥村も異論がないようだ。アパートに足を向けて歩き出している。その奥村を追い越して南田が先を歩く。
「夜も遅い。アパートまで同道しよう。」
最初はそのつもりだったのだ。軌道修正が必要だ。
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