第8話 失望
南田は部屋の片付けに追われていた。普段から自分のペースを守ることを遵守していたが、最近は奥村との契約締結に向けて慌ただしかった。そもそも彼女をここに呼ぶのだ。完璧にする必要があった。
見られては困るようなものは自室にしまい、掃除が終われば喜んでもらえるように夕食の下準備もした。もちろん夕食の準備をしてあると提示すれば帰りにくいだろうという下心も多分にあった。
昨日の帰り際にマンションの住所を走り書きさせたメモを渡していた。お昼過ぎに伺います、と言った奥村。連れて帰れずとも約束を取り付けたのは喜ばしいことだった。
「スマホも携帯も持たない」と言い連絡先は教えなかった。教えてしまえば色々と不都合が生じると思ったからだ。
律儀な彼女のことだ。約束した手前、必ず訪問するだろう。
気もそぞろな南田は昼食もそこそこに今か今かと奥村の訪問を待ち望んでいた。
インターホンの音に胸を高鳴らせると、それを悟られないように素っ気ない対応をする。
中に招き入れるとソファを勧めた。
「適当に座ってくれ。」
待ち望んでいたはずなのに、彼女を目視してしまっては動揺しそうで、敢えて見ないようにしていた。
奥村さんが家にいる…。そう思うだけで素晴らしかった。
「何か飲用するか?」
グラス片手に南田は飲み物を勧めた。もちろん幾度となく反芻した言葉だったが、あたかも自然に口から滑り出させた。
「おかまいなく。」
声にいつもの調子が感じられず、奥村をやっと観察した。その姿はリラックスとは程遠い姿だった。
僕としたことが、自分のことに気を取られ過ぎていた。
ため息をつくと奥村に「待ってろ」の声をかけた。体制を立て直すために自室に行き、ベッドに腰掛けると猛省した。
そりゃそうだ。向こうは初めての訪問だ。緊張するのが当たり前だ。
緊張をほぐす…。強行手段だが、これに尽きるかもしれない。
南田は心を決めてリビングに向かった。
リビングに入るとソファに座る頭が見える。迷いなくその背後まで進むと手を回して顔をこちらに向けさせた。
「え?」と驚いた顔に覆い被さるように顔を近づける。ゆっくりと重ねると触れたのか分からないほど微かに触れさせて離した。
壁の機械から「認証しました」との音が聞こえた。
すぐにキッチンの方へ立ち去ると奥村に「後で指紋認証しておいてくれ」と声をかけた。
本当はもっと…。だが仕方がない。仕方がないんだ。
自分の気持ちを吐露するように南田は口を開いた。
「せっかく招き入れたのに今にも凝固してしまいそうな客人をもてなすのも心苦しい。」
飲み物が入ったグラスを奥村の前に置くと自分もソファにかけた。そしてテーブルにポケットから…スマホを出して置いた。
奥村が目を丸くして南田を見る。
「え?…持ってない…って。」
「あぁ。君を口先で丸め込むのは容易いな。連絡先を教えていたら理由をつけてここには来ないだろう?」
どうしても、ここに来て欲しかった。しかしそれは…。
急に奥村が立ち上がった。何かに憤慨しているようだ。
「もう契約したこともちゃんと…実行されましたし、帰ります。」
奥村は南田を見返すこともなく玄関に向かう
「待ちたまえ。認証…していけよ。」
奥村さんはここに来ることを望んでいなかったのだ。律儀な彼女はただ契約を遂行するためだけに来た。
そんな現実を突きつけられた南田は奥村を強く引き留められなくなってしまった。全ては自分の押し付けだった。そんなことを今さらながらに思い知らされた。
声をかけられた通りに認証をしようと機械の前に立った奥村が困惑した声を出した。
「これ…。私じゃパスワード分かりません。」
機械は家族向けの自宅用で、家族の指紋認証を事前にしておけば、認証範囲の届くところでキスをするだけで認証された。わざわざ機械に毎回指紋認証する必要がなくファミリーに好評な機械だ。
来客などへのセキュリティのためにパスワードを入れる必要がある。その安全面でも評価が高かった。
「あぁ。入力しよう。」
南田は機械のところまで来ると入力した。奥村はそれを見ないようにわざわざ背を向けた。
そういうところが…。いや今はそういうのはいいんだ。
「そんな大事な機械に家族でもなんでもない私が登録しちゃって大丈夫なんですか?」
「律儀だな。君は。」
手を取り…認証と登録をした。登録の名前は奥村華と入力した。奥村の視線が外れたのを確認してから、機械に表示される名前を愛おしそうにそっとなぞった。
「ここは父の所有するマンションだ。」
「なおさら…。」
戸惑う華を一瞥するとまたソファへ戻る。
「父は建築士でね。ここは父が設計したマンションなんだ。いちユーザーとして使い心地を確認して欲しいと言われて住んでいるだけだ。」
迷惑な話だ。…今まではそう思っていた。
「家族を対象にしたマンションだ。僕では…僕だけでは使い心地など分かるはずもない。君は…ここに住む気は…。」
奥村さんがここに通ってくれる、もしくは住んでくれるのなら、父の要望もありがたいことになるが…。
「ないです!」
「そうか…。」
やはり迷惑をしているのだ。それはそうだ。元々が無理矢理の契約…。奥村さんが進んでここに来たわけではない。
楽しみにしていたプレゼントを取り上げられた子どものような気持ちで朝の浮かれ気分は沈んでいってしまった。
帰る勢いだった奥村はそのまま機械の近くに立ったままだった。
「突っ立ってないで着座すればいい」
ソファを指して滞在を促す。
「せっかく認証も終わった。この後…今日1日は緊張することもない。」
認証も何も関係なく、ここに来て良かったと思ってもらえるだろうか。
ソファに座った奥村を目の端にとらえて南田は思い悩ませていた。
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