第6話 締結

 そのまままずはキス病の話をしよう。そう思っていた南田よりも先に奥村が口を開いた。

「前から聞きたかったんです。そもそもどうしてこんな提案を?」

 どうやらこの契約自体のことを聞いているようだ。奥村からしたら当然の質問だ。それなのに南田にとっては予想外の質問でグッと黙ってしまった。

 何か…何かそれらしい理由を…。


「それは…。人命救助だ。」

 そうだ人助けだ。奥村さんを他の変な輩から守るための。

「私、死にそうでした?」

「それはそれは生命の危機を感じた。」

 そういうことにしておこう…。確かに認証の機械前でため息をついている姿は儚げだったしな。

「南田さんの得になるようなことは少しもないんじゃないですか?」

 得なんて、君と…。ダメだ。別の理由…。

「…無能な心証を与えるのは心外だ。些か許容できない。」

 頭にふとよぎった部長の顔。そういえば最近、部長に「南田くんは認証率が低いようだがプライベートも充実させなければな」と肩を叩かれた。

 無能とは思っていないだろうが…そういうことにしておこう。


「誰に無能なんて思われます?政府は税金さえ払えば文句ないと思いますけど。」

「君は知らないのか。我が社が大沢議員の派閥と深いつながりがあることを。だからこその開発、製造だ。」

 キス税を認証する機械を南田は親指でさす。

 キス税を推進する大沢議員とつながりがあり、その上、製造する企業としては認証率の低い社員など、以ての外だろう。と言っても僕は気にしないが。

「それとこれとは別じゃないですか?」

「…。まぁそのうち君の理解も進むだろう。それよりも重要なのは契約の締結だ。」

 そうか…知らないのか。上司は部下の認証率を確認できることを。

 今後、奥村さんも認証率が低ければ何か言われるかもしれない。いやしかし僕とこのまま契約をし続けるのなら大丈夫だ。

 人命救助。あながち間違いではない。


「まず君には不特定多数の者との接触は避けて欲しい。」

 この契約はかなり僕に利があるようだ。奥村さんとの時間を取れる。何よりその時間は認証が含まれる。そして他の男も排除させられる。いいこと尽くめだ。

 南田は自分のいい方向に進む状況に喜ばしい気持ちだった。

「南田さんはいいんですか?」

 僕が不特定多数の接触だって?そんなもの必要あるわけがない。

「無論、僕もだ。」

 焼いてくれるのだろうか。

「好きな人ができたらどうするんですか?」

「それは…。」

 その質問を敢えてするのは南田のことではなく他のということになる。

 僅かに浮かれ気分で、その上、契約締結が出来さえすれば、と思っていた南田の心をえぐる質問だった。

「無論のこと。懸想人が現れたら契約は解消しよう。」

 そう言うしかなかった。気持ちを悟られないように無表情で。

 奥村に不審がられないように南田はグラスの水を飲み干した。胸の痛みを誤魔化してしまいたかった。


「不特定多数の人と接触しなくても、既にキス病の抗体を持っていたら、なんの意味もないですよね?」

 そうだ。その話をしたかったのだ。

「そこは当然の礼儀として検査済みだ。」

「え…。私は検査なんてしてませんけど…。南田さんの結果はどうだったんですか?」

 そうか…彼女は自分が陰性か陽性か知らないのか。まぁ知らなくても関係はないが…。

 南田は自分の結果を口にする。

「陰性なのは言うまでもない。」

「陰性ってどっちが陰で陽なのか分からないです!」

「抗体を持っているわけがない。」

「日本人の90%ですよ?本当に10%の方なんて。…そんなことより私が抗体を持っていたら感染するんですよ?大人になってからだと重篤化するって…。」

 良かった。思った通りの子だったようだ。僕を心配してくれている。

 南田はホッとして、つい本音が口から滑り落ちてしまった。

「そうだとしたら幸甚の至りだ。」

 しかし南田の声が小さいせいなのか、難解な言葉で言ったせいなのか、奥村には意味が届かなかったようだった。


「大事なことです。きちんと話し合えるように難しい言葉を使うのはやめてください。」

 そこは無意識なのと敢えてなのもある。指摘されても正すつもりはない。

 南田は気持ちを悟られないために、わざと使っている部分もあった。

 そのため話をすり替える。

「もう遅緩だと言っている。既に何度かしているんだ。感染しているのなら既にしているはず。考えるだけ無駄というものだ。」

「ちかん?」

 その響きは確実に「痴漢」の方を想像してるだろ!

「遅緩だ!遅く緩やかと書く遅緩!」

 やれやれとため息をつく。痴漢行為だと思われては身も蓋もない。


「そういえばそのことについては、ずいぶん前に会社に報告してある。」

 奥村の返答がないため、南田が続けて話した。

「キス病の抗体を持っているか手軽に検査できる機械の開発が必要ではないかと。既に試作品を発表できる段階だ。」

 このことについては奥村さんと認証しようと思い立ったことから始まる。この子に感謝しなければな。

 そう思っても感謝を素直に口にすることは出来ず、別の言葉が転がり落ちた。

「明日のニュースではそのことが取り上げられるだろう。」


 議論に満足したのか、奥村はメニューを開いた。

「お腹空いちゃいました。何か食べませんか?昨日ご馳走してもらっちゃいましたし、ここは私が払いますから。」

 契約締結ということでいいのだろうか。南田は無言で顔を近づけた。

「な…どうしました?」

 急いでメニューで顔を隠す姿がなんとも可愛いらしい。しかしもう何度か目だ。慣れそうなものだが…。

 南田はメニューを取り上げた。

「食べてからでは気になるようだったので、その前に認証したい。」

 とにかく迅速に。そうであるものだとの認識を!

 

「まだ契約は締結していないと思います。」

 な…。

「締結していないとは…いかなることだ。」

 ここまで議論を交わしたというのに、この後に及んで何を…。

「まず、所構わず…はやめてもらえますか?」

 そうか…。もっと詰めた話し合いを持ちたかったのか。

 南田は安堵して口を開く。

「それは理解している。」

 僕も前回までは前後不覚だったと言っても過言ではない。所構わずなど望んでいない。

 南田は眼鏡を外しながら、また近づいていく。

「これも外した方がいいことは理解した。」

 まぁ見えないのは相変わらず残念だが。奥村さんの希望を聞くことも大切だろう。

 それなのに奥村からは不満げな声が発せられた。

「でもそれじゃ今からしますよ!って宣言されてるみたいで嫌です。」

 はぁ…。何故だ。女の心と秋の空。と言うらしいが…。昨日は眼鏡が…と言っていたじゃないか。

「では、どうするのか。」

 イリュージョンで消せと言うのか。

「そんなの私が分かるわけないじゃないですか。眼鏡かけた人とキスしたことなんて…。」

 南田は眼鏡をかけ直して奥村を見た。やはりなんとも言えない顔をしている。

 眼鏡をかけた奴としたことがないとは…。しかし眼鏡をかけた奴と…他とは…それは大人げない追求か。

 …そして、今は僕のものだ。


 南田はまた顔を近づけながら話し出した。もう待っていられない気持ちだった。

 やはり中毒性があるようだ。そして彼女にも…奥村さんにも中毒になってもらわなければ。

「なるほど。…では阻害するのは否めないが、かけたままにしよう。その方が嫌でも僕を思い出すだろう。」

 僕がいないところで僕を思い出す奥村さん…。それを思い浮かべるだけで愛おしかった。

「どうしてそうなるんですか。」

「どうして…。」

 答えを模索するように、考えるように南田は口を開いた。

「君の体が僕を忘れられないように、僕から逃れられないように…嫌でも求めるようにか?」

 より中毒性が増すように…。

「なっ…。」

 奥村の顔が赤くなったことを確認して、更に近づいた。


 近づいていた顔はもう触れてしまいそうなほどに近くにあった。奥村は恥ずかしそうにそっと目を閉じた。

 その可愛らしい素ぶりにフッと息が漏れると、そのまま重ねた。頬に眼鏡をわざと当てて。

 初めて逃げられもせず、無理矢理でもない、そっと触れるくちびるは、より一層柔らかかった。その隙間から漏れる息が愛おしく離したくない気持ちにさせる。

 しかしその気持ちを抑えるように、南田は奥村の手を取り認証させた。


「体がにわかに硬直をしている。呼吸も僅かだが荒いようだ。声も上ずっていた。手の震えもある。緊張が現れているようだ。」

 顔を離した南田は無表情で奥村の身体症状を報告する。そうでもしなければ自分がこの場で動揺してしまいそうだった。

「言われなくても分かってます。だから毎回緊張しなくてすむようにしてください。」

 奥村の言葉に何度か頷く。

「そうか。それは配慮に欠けていた。次回からは気をつけよう。」

 だが…どう配慮しようか。自分の方こそ、これほどまでに緊張しているというのに。

 何度か目だから慣れるはず。という言葉は撤回したい気持ちだった。無表情の下の南田は心臓が壊れるのではないかというほどの音を上げていた。

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