南田湊人side
プロローグ 追憶
華が南田たちの部署に配属して間もない頃。華と南田がキス税の契約をする何ヶ月も前。
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今日は新しく入ってきた新人の歓迎会。新人だから新しいのは当たり前だが。
「おっとゴメンね。」
「いえ。こちらこそ失礼しました。」
目が悪いのに眼鏡をかけてこなかった南田は人とぶつかりそうになって謝られた。なぜかけてこなかったのか。それは友人の宗一に言われたからだ。
「眼鏡外してけば普通に喋れるんじゃないのか?」
その一言を鵜呑みにしてしまったのだ。
南田は飲み会が苦手だった。そもそもが会話というものが苦手だったし、飲み会で座敷なんてのは、もっといけない。親しみを込めて近づいて話してくれているのは分かるのだが、近過ぎる距離が南田には苦痛で仕方なかった。
特に女の人は困る。どう対応しても間違っているような気がして、近づかないのが懸命だと肝に銘じていた。
そこで先ほどの「眼鏡をかけなければ」になるわけである。前々から「コンパで女の子と話すのが苦手だと言うなら見えなきゃいい。眼鏡を外せ。」と言われていた。
しまったな…。コンパってわけじゃないんだ。眼鏡を外したのは失態だった。
そもそも眼鏡を外して見えなくなった所で問題が解決するはずもないのだが、南田はその点を理解していなかった。
そして外した眼鏡をポケットに入れておけばいいものを、鞄にしまったままお手洗いに立ち、自分の席が分からなくなってしまった。
自分の席を探すのを諦めて空いていた席に座った。座った隣の人が南田に気づく。
「新人の奥村です。よろしくお願いします。」
座ったのは、あろうことか新人の女の子の隣だった。律儀にお酌をしようとビールをこちらに勧めているのが、ぼやっとした視界の中でかろうじて分かった。
重ねての失態だ。すぐに退却しなければ…。しかし目立たないように移動しなければならないな。
新人の女の子に何か言われては、社会人生命が絶たれるような危機感を感じた。
黙っている南田に奥村は小声で質問した。
「先輩は飲み会、苦手ですか?私は苦手です。あ、内緒にしてくださいね。」
ほどよい距離感でそう口にした隣の新人の子に少なからず好印象を持った。
そうか。新人で飲み会が苦手とは苦労しているだろうな。
南田は自分の新人の頃を思い出して、奥村に親近感を覚える。
「えっと…。君は…。」
「奥村です。」
「あぁ。悪い。奥村さんの上司は誰?」
「えっと、相原さんです。」
「そうか…。」
相原さん。なんとなくしか顔が浮かばないということは同じ部でも関わりがない子のようだ。
「すみません。たくさんの方を覚えられなくて先輩のお名前は…。」
いちいち律義な子だ。別に名前など問わなくても適当に話を合わせればいいものを。
「問題ない。先輩で構わない。間違いではない。」
ほぅと安心したようなため息が聞こえて、ぼやけた不鮮明な視界の中で柔らかく笑ったように見えた。
「ありがとうございます。今日だけでもたくさんのお名前を聞いて正直覚えられる自信がなくて…。皆さん先輩で良かったんですね。」
またコロコロと笑う奥村に南田はここの席に居心地の良さを感じていた。
眼鏡を外した効果も多少なりともあったのかもしれない。いつもよりは普通に話せた。眼鏡を外した効果なのか、奥村という子と波長が合うのだろうか。合わせてくれているのかもしれない。
苦手な飲み会だというのに、たわいもない話をして、珍しく楽しい気分だった。
いつもなら話さない愚痴っぽいことも口にした。
「新人の頃は僕も希望に満ちていた。でも働けば働くほど、企業の駒に過ぎない。1つの歯車に過ぎないんだ。という思いが強くなる。…新人の君に話す内容ではないな。」
こんな愚痴にも奥村は真面目に返答した。
「そうかもしれないですけど…。歯車ってどんなに小さいものでも1つ外れてしまったら動かなくなります。必要ないものなんてないんじゃないですか?」
「別に自分が必要のない人間だとまでは言っていないが…。」
「す、すみせん。違うんです!そういう意味じゃ…。」
慌てる奥村が何故だか可愛く思えた。
眼鏡…かけてれば良かった。まぁ視界が良好ではここまで砕けて話せはしなかっただろうが。
「先輩?怒ってますか?」
ハハッ。余計に意地悪したくなるタイプだな。
「いや。必要ない人間とは心外だったが。」
「そうじゃないんです。先輩はきっと会社にも社内の人にも誰からも必要とされる方だと思います。」
「今さら持ち上げても手遅れではないか?」
「持ち上げてるわけじゃないんです…。」
とうとう奥村から不満げな声が出て、思わず吹き出しそうになる。
「そうか。締めのデザートを譲ってやろうと考えていたが…。」
先ほどまで顔は伏せられていたのに、急に南田の方に顔を向けられたのが分かった。
「本当ですか?ものすっごく好きなんです。柚子シャーベット。」
「ハハハッ。やるよ。やるやる。」
餌付けされた犬のような奥村につい笑い声を上げた。
僕の笑った顔を見ると幸せになれるって都市伝説をこの子は知らないんだろうな…。
隣の席で嬉しそうな顔で食べているであろう奥村に感慨深い視線を送る。
しかし見えないのは不便だった。見たいと思うものが見えなかった。南田は奥村の嬉しそうな顔とコロコロと笑う笑顔を見てみたいと思った。
次の週、月曜に出社すると相原の下で働くという奥村を探す。
相原に指導を受ける姿を確認できた。あの飲み会では想像できない真剣な顔だった。
食堂でも奥村を探す。吉井と仲がいいようだ。吉井と話している時はいい笑顔だった。
あの笑顔を僕に向けていたのだろうか。もう一度あの笑顔を僕に向けることはできるだろうか。
ある日、南田は奥村が認証の機械の前でため息をついているのを目撃する。
そうか…。奥村さんもキス税が嫌なんだな。しかし、嫌ということは相手がいないのか。
南田は心なしか喜ばしい気持ちになって帰宅した。そしてスマホでキス税について検索してみた。自分は税金を払えばいいという考えだったが、そのことに悩む人もいるのだと新しい思いを発見した気分だった。
『私たちキス税がきっかけで付き合うようになりました』
そんな書き込みに目を奪われ夢中でスクロールする。
他にも悪い書き込みだったが、税金を納める事を嫌がっている子に上手く言い寄っていく方法なども書かれていた。
南田もつい思いつきで検索してみた。
『認証 税金 騙す方法 誘い方』
そこにはこう書かれていた。
『キス税を嘆く女の子は深層心理ではキスする相手を求めている!認証の機械前でため息をついていたらチャンスです。』
「チャンス…か。」
次の日も認証機械を見て奥村はため息をついていた。
この子は誰かを誘っているのだろうか。そうであるなら自分を軽んじてはいけない。注意すべきか…。
その次の日もため息をついていた。
今日こそは注意しよう。そうだな。ただ注意するだけでは芸がない。
南田は少し意地悪をしてやろうと計画を立てた。そして声をかける。
「キス税を払うのが嫌なんだろ?だったら僕と契約して僕としたらいい。」
思った通り目を丸くした奥村に南田は気づけば、計画以上のことをしていた。
頭にはネットで見た「チャンスです」の文字が浮かんでいた。
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