第14話 帰宅する?

「来たか。南田から聞いたよ。まぁ座りなさい。」

 言われるまま勧められた椅子に座る。

「あの…。この資料を飯野さんに届けるようにって。」

 南田に渡された資料を差し出すと飯野は目を見開いて、それから笑った。

「ハハハッ。嬢ちゃん何も聞いてないのか。まぁ南田らしいが…。えっと奥村さんだったか?」

 「はい」と返事だけしてみても、華は何を笑われたのか全く分からなかった。

「奥村さん。その資料はたぶんあんた用だ。見てみなさい。」

 言われて資料をパラパラとめくってみる。どちらかというと教材のような資料だった。


「素質はあるが基本がない奴がいるっていうから、どんな無骨な男が来るのかと思っていたんだ。こんな可愛い嬢ちゃんだとは驚きだ。」

 素質があるって私のこと?南田さんがそんなことを?

「それに午前中だけだなんて、自分が可愛い嬢ちゃんと離れたくないんだな。なんで1日じゃないのかと思ってたが、よく分かった。よく分かった。」

 大丈夫かな。このおじいちゃん。もうろくしているんじゃないだろうか。全てがボケちゃったおじいちゃんの戯言で、だから南田さんはここに資料を届けるのが嫌だったとか、そういう…。

「何をボケッとしてる。なんだ何も書くものを持って来てないのか。心掛けが足りないな。」

「あの…だから私は資料を届けに来ただけで…。」

 あくまで頼まれた通りの仕事をして帰ろうとする華に飯野は呆れ声を上げた。

「勘の悪い嬢ちゃんだ。南田には、今から行く奥村って奴に基礎を教えてやってくれ。って頼まれたぞ。」

 飯野は華の手の中にある資料の最初のページを開く。1枚目には「設計の基礎」と書かれていた。


 お昼、狐につままれた気分で華は可奈と食堂にいた。

「どうしたの?華ちゃん?」

「ううん。なんでもない。」

 華は飯野のところで本当に設計の基礎を教えてもらった。今日は2時間もない程度だったが、飯野は「また明日」と言っていた。

 南田はどうしてそんなことしてくれたんだろう。他のことに思いを馳せる華に可奈は変なことを言い出した。

「南田さん、華ちゃんのことよく考えているよね。」

「え?」

 可奈にはまだ飯野のことは話していなかった。飯野のことは本当に南田のおかげなのか怪しい。との思いからまだ話せずにいた。だから可奈が言っているのはそのことではなかった。

「華ちゃん昨日はたくさん寝れたでしょ?」

 たくさん…寝れた…?

 確かに寝た。結果的にはそうなったというか…帰れと言われ悔しくて、いっぱい泣いて疲れ果てて…ふて寝したから。

 可奈はまだ変な発言を続ける。

「言い方はダメダメだけどさ。あれはあれで南田さんの優しさでしょ?」

 優しさ?何を…。

「それは可奈ちんが南田さんをひいき目で見てるからだよ。」

 「そんなことないよ〜」とまだ何かを話す可奈の声が遠くに聞こえる。

 優しさから?帰れって?そんなまさか嘘でしょ。


 可奈とあんな会話をした後で、居心地の悪さを感じつつ、南田の隣の席に戻った。

「あの…。ありがとうございます。飯野さんのこと。」

 まだお昼休みだというのにパソコンに向かっている南田に華はおずおずとお礼を言う。

「基礎も出来ていないやつと仕事したくないだけだ。」

 華の顔を見もしない南田からは素っ気ない返事が返ってきた。

 そっか。そうだよね。南田さんが直接教えると時間の無駄とかそういうこと。

 飯野さんの言い分よりも、そっちの方がしっくりきて華は一人納得した。

 可奈の言ってたことも、結果、南田のおかげで眠れたというだけ。機能が停止した華とは仕事したくないだけだ。フル活動の時でさえ、他人に託されるほどなのだから。


 午後からは相変わらずの厳しい南田の指導を受けながら仕事をした。

 やっぱり飯野さんも可奈ちんも勘違いしてるのよ。優しさから来る厳しさとは到底思えない!そう文句を言いたくなる厳しさだった。


 5時になると定時のチャイムが流れる。派遣の子たちは帰り支度を始めている。そんな中で南田は華に告げた。

「君も帰れ。」

 え…。また「帰れ」って…。

「まだ仕事残ってますから。」

「発言だけは一人前か。卓越するほどになってから所感を述べるんだな。」

 あぁ。忘れてた。この難解ヤロー!

「自分の仕事は終わらせてから帰ります。」

 華はムキになって仕事を進める。

「無能な奴がいくら残っても中身が伴わない。とにかく帰宅しろ。」

 無能…。その言葉は華に突き刺さった。また涙が出そうになって服をギュッと握りしめる。この人の前でなんか泣きたくない。

 華は無言で帰り支度を始めた。


 華は怒る気にもなれずに、とぼとぼと帰っていた。そんな華を今日は南田が後から追いかけてきた。会社のビルから出る手前で「奥村華!」との声に立ち止まる。

 まだ文句があるんだろうか。

「これを…君の落し物だ。」

 落し物?差し出された手を不可解な面持ちで見つめた後に、華も手を出した。

 手の中に落ちたのは鍵。これって…。

「私のではありません。人違いです。」

 渡されたのは南田のマンションの鍵のようだった。

「何を…。だから君は強情だと言っている。」

 何か言い返してやろうと顔を上げた華のすぐ近くに南田の顔があった。

 え…なんで…。

 目を丸くした華の頭に手をかけて自分の方へ引き寄せた南田は、そのままくちびるを重ね合わせた。すぐに離された手とともに、華はその場にペタンと座り込んでしまった。

「僕はもう少し仕事をしてから帰宅する。」

 華は呆然と南田の後ろ姿を眺めることしかできなかった。

 なんで…。ここで…。

 そこには認証の機械はなかった。


 南田を見送るように座り込んだままの華を、離れたところから見ている人影があった。

「ふ〜ん。そういうこと…。」

 その人はニヤリと口の端に笑みを浮かべた。

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