第2話 契約を執行する?

「おい。いつまで残業するつもりだ。」

 突然の声に心臓が飛び跳ねたのを感じて、声の方へ顔を向ける。

「南田…さん…。」

 どうして?彼は帰ったはず。追いたくないのに目で追ってしまっていた南田が定時付近で帰ったのを目撃していた。

「さきほどから同じ動作しかしていない。仕事ははかどっていないようだが?」

 華は仕事に身が入らずに、手元にある資料を束ねては広げ…をここ10分くらいは続けていただろうか。


「君は…。」

 南田の呼び方にカチンときて思わず言ってしまった。

「奥村華って名前があります。」

 すると、意外だ。とも取れるトーンと口ぶりで南田は話し出す。顔の表情は見事に変わらない。

「そんなもの不必要この上ない。僕たちは契約関係だ。甲と乙でいいほどなのに、譲歩して君と呼んでいる。」

「こうと…おつ?」

 難解な言葉に華は聞こえた通りに繰り返した。

「そんなことも知らないのか。契約書に書いてあるだろう。甲、乙と。」

 アパートを借りる時に書いた契約書。それをどうにか思い出すと「こうとおつ」が「甲と乙」だと理解した。

「人を呼ぶ時に使うものじゃないです。」

「だから譲歩してやって君だ。」

 そんなことも分からないのかと深いため息をついている。

 こっちがため息をつきたい。そう思ってハッとする。

「契約って!してません!」

「キス税を払いたくないんだろう?」

「そりゃ払いたくはないですけど。南田さんと…する必要はありません。」

 はぁとまたため息が聞こえると南田が近寄ってきて華は身構える。すると南田は華の手から資料を奪った。


「…驚愕の事実だ。この設計を君がしていたとは。」

 華たちの会社は車関係の部品を作る会社。母体は自動車メーカーだ。ここ最近は車のみをやっていては企業として生き残っていけないと、色々な仕事をするようになっていた。キス税が施行され、その機械も華たちの会社が開発から製造を携わっていた。それを華は設計していたのだ。

「なんとも皮肉だな。」

 ポツリとつぶやいて南田は華の隣のデスクに腰をかけた。華だってそう思っていた。あの忌々しい機械を自分達が設計しているなんて。

「なるほど今の機械をこう設変するのか。使いやすくはなるか…。」

 設変とは設計変更のことだ。今の使っている機械をより使いやすくするために何度か改良していた。

「理解した。ここはこうしたらこうじゃないのか?」


 南田のアドバイスと指示は分かりやすく、悩んでいた問題点もすぐに解決した。あとは実際に変更するだけだ。

「もう今日は遅い。明朝から取り掛かれば間に合うはずだ。」

 この人…普通に話せるんじゃないかな。説明の言葉は分かりやすかったし…。

「おい。穴が開く。」

「え?」

 焦点を合わせると南田とバッチリ目が合ってしまった。

「顔に穴が開くと言っている。」

 指摘されて、ぼんやり南田の顔を見ていたことに気づく。穴が開くほどに見ていると言いたいのだろう。

「ごめんなさい。ボーッとしちゃって。仕事のアドバイスありがとうございました。分かりやすくて助かりました。」

 あぁ。と小さな返事が聞こえ、南田は帰るようだった。華もそれに続く。


 南田さんって思ったよりいい人なのかな…。顔は完全にタイプなんだけど…。またぼんやりしている華に南田が何かを話し出していた。

「…残業など無能な奴がするものだ。」

 無能…。華は絶句して何も言えなかった。確かに今日は南田のことで思考回路は全滅だった。だからって…。

「えぇ。私は無能ですから。失礼します。」

「おい。どこへ行く。そっちに出口はないはずだ。」

 屁理屈野郎め!分かってる。出口に向かってるわけじゃない。あなたの顔も見たくないだけ。だから設計の…理系の男なんて嫌なんだ。なんでも理詰めで自分が一番正しいと思ってる。

 華は自分が所属する部署を魔の巣窟と秘かに呼んでいた。偏屈な人ばかりの集まり。


「おい!足の前後運動を中断しろと要求している。」

 また意味不明なことを…。

「奥村華!」

 突然呼ばれた名前に驚くと手をつかまれた。無情にもそこはあの認証する機械の前。

 昨日のデジャビュかと思えるほどに近づいてくる南田の顔。何故かものすごくスローに思えるのに振り払えない。

 ピッ…ピー。「認識しました」機械の音声を呆然と聞く。南田は華のつかんだ手をそのまま持ち上げて認証させていた。もちろん南田のも。

「どうしてこんなこと!」

 華は南田の腕を振り払うと今度こそ出口へ向かった。


「医療費軽減税。それはキスをすると税金が免除されます。そのキスは毎日でなければなりません。」

 施行された時にアナウンサーが読み上げていた内容が頭をグルグルと回ったのはもう何度目か分からない。


 華の会社で認証の機械を製造しているため、いちユーザーとして使ってみることが大切だと社内に何箇所も設置されていた。

 社内で使う人なんているわけないのに…。そう馬鹿にしていた自分がまさか使うことになるなんて。

 華は自分が少しの間でも南田を「いい人なのかも」と思ったことを悔やんでいた。あんな人に気を許しちゃダメなんだわ。そう気持ちを新たに二度と近づかないと決意していた。

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