第30話 What A Feeling
渚は胸に刺さった矢を引き抜こうともがいた。しかしそれがもう無理なことを悟ったのか、静かに手を下ろした。鏃は肋骨に深く食い込み、内臓にまで達しているに違いない。私は何か言おうと口を開いたが、言葉は音にならなかった。馬乗りになった渚を為す術もなく見上げているしかなかった。
渚はゆっくりと私に視線を落とした。黒目がちな瞳はなぜか微笑んでいるように見える。哀しげではあるけれど、どこか安堵しているような色合いを帯びていた。実際、理不尽に背負わされた荷物から解放されてほっとしているのかもしれない。しかし、訊ねようにも渚の心はもう反応しなかった。糸電話の糸が切れたように私と渚の繋がりも途絶えてしまった。
襟元からシルバーの小豆チェーンがのぞいているのに私は気づいた。十六歳の誕生日に私が贈ったターコイズのネックレスだ。
「私、死ぬ瞬間までこれをはずさないよ。それでね、私が死んだらこれを私だと思って、持っていてほしいの」
安物のネックレスにここまで感動してくれる友人などめったにいるものではないが、その時の私は渚の大げさな態度に辟易していた。しかし、今から考えると彼女は今この瞬間を予知していたのではないだろうか?
いやそんな馬鹿なことがあるはずがない。私は自分の妄想を打ち消すように渚の身体を揺さぶった。
「目を覚ましてよ。私一人をこんなところに置いていかないでよ」
生きることは失うことの連続なのだ。祖父が亡くなったとき泣きじゃくる私に父が言った言葉だ。私はヒカルを失い、家族も失った。そして今渚を失おうとしている。子供の頃から寄り添うように育ち、ほとんど体の一部のように感じていた存在が私から剥がれ落ちようとしているのだ。
――ヒカル、人間は情報のネットワークなんかじゃなかったよ。だって、私はこんなにも悲しいんだもの。
渚の良いところも悪いところも薄っぺらいチップにみんな詰め込んだって、それはもう渚じゃないんだ。碁石みたいに黒い瞳を忙しく動かして、私のほんの小さな動きすら見逃すまいとしていた面倒くさくて厄介な女の子はもう居ないのだ。
「すぐにここを離れないと、略奪に倦いた連中がやって来るぞ」
いつの間にかバルガが傍に立っていた。
「お願いだから、放っておいて。あんたたちはやるべきことをやったんでしょ。私に構わないで、どこかへ行って」
顔を上げると、紙のような表情のテオが震えているのが眼に入った。彼の手に握られた弓を見たとき、私の憎悪に火が付いた。
私は銃口を彼に向けた。テオは一瞬、驚いたように私を見たがすぐに目を伏せた。
「いい加減にしろ!」
両手を広げてバルガが立ち塞がった。
「うるさい! そこをどけ」
私は怒鳴りかえした。
「こいつが復讐のためにこの女を殺したとでも思ってるのか? 俺たちは諦めて帰ろうとしていたんだ。レイダーたちの姿を見かけたとき、テオはすぐに犬を放ってお前を探させた。おまえの身を心配したからだよ」
そんなことは言われなくても解っていた。はじめてこの子を見たとき、妙に懐かしさを覚えた。今それがなぜなのかはっきりとわかった。私を見る渚の表情と同じなのだ。
「いいんだ。結果的にこの人のたいせつな友人を殺したことは間違いないんだから」
テオは銃口の前に進み出た。
「それで気が済むなら僕を撃ってください」と、彼は言った。
もう彼は震えてはいなかった。
「あんたの悟りすました態度が大嫌い」
ライフルを投げ捨てると、私はその場で嗚咽した。涙が留めなく溢れた。自分の中にこんなにも涙が残っているのが不思議だった。
雲が太陽を覆い隠し、重い雪を落とし始めた。このまますべて雪に埋もれてしまえばいいのだと私は思った。
「弾が切れた」
ニット帽がアリサを引きずるようにして階段から降りてきた。彼女は意識が朦朧としていて足許すらおぼつかない様子だった。額に玉のような汗をかき、紫色の唇をわななかせていた。撃たれた傷が化膿し高熱を発しているのだ。
「アリサがやばい。早く手当てしないと死んでしまう」
ニット帽は悲痛な面持ちで言った。
たしかに彼の言うとおりだ、このままだと敗血症を引き起こし深刻な事態になるのは目に見えている。しかし、いったい私に何ができるのだろう。救急車でも呼べというのだろうか。それができるならとっくに渚のためにしている。それに私は渚の傍を離れたくなかった。彼女を置き去りにすれば彼女の死が事実として確定してしまう気がしたからだ。
「これをあげるから自分でなんとかして」
私は傍らのライフルを手渡した。彼は無言でそれを受け取った。私がすでに戦意を喪失しているのがわかったのだろう。
一台のスノーモービルが雪煙を巻き上げて駐車場に入ってきた。後部座席には上半身裸のモヒカンが立ち上がって両手に何かをぶら下げていた。その男の全身は邪悪なタトゥーで埋め尽くされていた。わけのわからない奇声を発っすると、手に持っていたものをこちらに向かって放り投げた。
足下に転がってきたそれを見たとき、胃の腑が絞り上げられるようにして私はその場で吐いた。雪の上にはまだ血が滴っている生首が二つ、私を見上げていた。アリサが菓子を与えた幼い兄弟だった。
「酷いことをしやがる。俺が仇を討ってやるぜ」
ニット帽は片膝を付くと、スノーモービルに狙いを付けた。モヒカンは身を隠すことすらせず、背中に負っていた槍を構えた。
こちらに向かって突進してきたスノーモービルは私たちの手前で急ハンドルを切った。キャタピラが蹴立てた雪が波のように被さってくる。
次の瞬間、凍った空気を切り裂くような銃声が耳元をかすめた。べっとりしたものが私の頬に張りついた。頭を吹き飛ばされたニット帽がそのままの姿勢で事切れていた。ザクロのように割れたニット帽の頭を抱えようとしたアリサの背中に槍が突き刺さった。
股間から熱いものが滲みだすのも忘れて、私は震えていた。どこかに置き忘れてきたはずの恐怖が私を打ちのめす。目の前に次々と死を見せつけられて、噓くさかった世界にリアルな輪郭をもたらせた。
「上だ! 上から撃ってくるぞ」
バルガが叫び、テオがすぐに反応した。踊り場から身を乗りだしてショットガンを構えている男に向けて矢を放った。眉間を貫かれた男はそのまま真っ逆さまに転落した。
さらに数台のスノーモービルが姿を現した。
「まずいぞ、早く地下に走るんだ」
バルガが私を急き立てた。
「おい、何してる! 死にたいのか?」
バルガが私の襟髪をつかんだ。
「足が震えて立てないのよ」
「冗談だろ。お前がそんな玉かよ」
「ほんとよ。おしっこ漏らすくらいに怖がっている」
もう私はターミネーターではない。あれほどクリアだった五感は深い霧の中だ。
ただひたすら怖かった。子供の首をトロフィーみたいに切り取るサイコ野郎が幅をきかす世界では私は無力な小娘でしかないことを思い知らされた。降りしきる雪と冷えた小便に震えながら私は鼻をすすり上げて泣きじゃくった。
「泣かないで、僕が守るから」
耳元で囁きがして、暖かい掌が私の頬を挟んだ。黒い瞳が私を見つめている。
「ほんとに?」
テオは深く肯いた。
「命に代えてもあなたを守ってみせます」
――まったくこの世界のガキどもときたら、健気で勇敢でやさしいんだから。だからもうこれ以上は死なせたくない。
私は瘧が落ちたようにスッと立ち上がることができた。
「どうやら勢揃いしたようだぜ」
バルガが言った。
八台のスノーモービルが横一列に並んでいた。
「なにをするつもりなの?」
「頭目の仇をとった奴が、次の頭目だ。それがあいつらのルールだ。どうやらあいつが名乗りをあげたらしい」
列の前にあの全身タトゥーの男がいる。両手に手斧をぶら下げて、ほぐすように首を回していた。
「殺したのはテオでしょ?」
バルガは肩をすくめた。
「どうやら、ご指名はお前のようだぜ」
タトゥーが片手をあげ、斧で私を差していた。
「人気嬢はつらいわね。センチになっている暇もない」
「僕が行きますよ」
テオが言った。
「ヘルプはいらない。私がケリをつける」
一際高いエンジン音が鳴り響いた。タトゥーはスノーモービルの後ろに乗り込むと、立ち上がって頭上に掲げた斧を打ち鳴らした。喚声が沸き起こり、スノーモービルがゆっくりと前進する。
「レオナさんなら、勝てますよ」
テオが私に渚の拳銃を握らせた。
私は大きく足を開いて立つと、両手で持った拳銃を水平に構えた。
一発目は大きく外れた。私はさらに発射した。これもだめだ。タトゥーは微動だにしない。
スノーモービルはどんどん加速し、二十メートルほどの距離まで近づいてきた。さっきみたいにターンを決めるつもりなのだ。それが連中の美学なのかもしれない。
私は続け様に撃った。十メートルほど手前で車体は大きく傾むくと、そのまま横転した。運転手が放り出されるのが一瞬見えたが、すぐに雪煙が舞い上がり、辺りを覆った。
私はタトゥーの姿を探した。いきなり目の前に灰色の影が立ち上がった。撃つ間もなく雪煙が落ち着き、視界が開けた。向こうも出しぬけに現れた私に判断の空白が生じたらしい。慌てて斧を構えるより早く私は銃口を向けた。
「あんたが今考えていることを当ててあげようか?」
タトゥーは表情を歪ませた。
「私が何発撃ったか考えているんでしょ。実は私も夢中でよく覚えていないんだ。あんたの頭が吹っ飛ぶか、私の首が飛ぶか、運試しね」
私はゆっくりと引き金に掛けた指を引いた。
すべては終わった。雪の上に挑戦者が脳みそをぶちまけるのを見届けると、モヒカンたちは引き返していった。
私は渚の元に戻ると、彼女の首からネックレスを外してポケットにしまった。
「こんなところに置き去りにしてごめんね。でも落ち着くことができたら、きっと戻ってくる」
私は物言わぬ親友に別れを告げた。テオとバルガが穴を掘り埋葬してくれた。
「これからどうするのですか?」と、テオが訊ねた。
「わからない。でも一つ気になることがある。それを確かめようと思う」
私は渚が最期に残した言葉の意味について考えていた。
――怜於奈こそ目を覚まして、この世界はあの女の妄想なんだよ。
あれはいったいどういう意味なのだろう。もっともいくら考えたって手掛かりなんかなにもないのだ。しかし、生きていたらきっと答えに繋がる何かにぶちあたるはずだ。そんな気がした。
「どうしたの?」
私は何か言いたげに躊躇っているテオに気づいた。
「付いていっていいですか?」
「ダメと言っても付いてくるでしょ。それに私みたいないい女が一人旅するにはこの世界は物騒すぎる」
「小便タレの小娘がよく言うぜ」
バルガがぼそっと呟いた。
「それは忘れなさい。次に口にしたら、脳みそごと記憶を吹っ飛ばしてやるから」
「おお、こわっ」
バルガは首をすくめるとスノーモービルに跨がった。
Hikaru @tori
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