第29話 Stayin' Alive
渚はガーターベルトからコンバットナイフを引き抜いた。ホームでの光景がよみがえり腹がズキンと痛む。あの時のナイフより確実に殺傷能力は上だ。
しかし、なぜ彼女は私を殺そうとしているのだろう。
自分の意思――渚はそう言った。
正直なところ、殺される理由がまるで思い当たらない。
たしかに友人として彼女にいつもやさしかったわけではないし、何よりも敬意を欠いていたことは事実だ。夢乃に抱いていた友情と渚に感じていたそれとでは同じ友情と呼ぶにはあまりにも質が違いすぎた。夢乃は人柄といい能力といい同年代の少女にとって模範になる存在だった。それに比べて、幼稚園児の頃から一歩も成長しなかった渚に尊敬の念を持ったことは一度もなかった。
それでも私が彼女に対して誠実でなかったかと言えば、答えは否だ。小学校の高学年あたりから壊れ始めた渚のお守り役を私は誰に言われるともなく引き受けた。教室で彼女が奇矯な振る舞いをするたびに、「なんとかしろよ」というクラスメイトの視線が私に集まった。私はアン・サリバンのような忍耐強さでその役割を黙々とこなし続けた。おかげで小中を通じて、私は渚以外の友人を持つことはできなかった。
まあそれはいい、あくまでもこちらの事情なのだから。
「殺したいほど私を憎んでいたなんて初めて知ったよ。白状すると、渚だけは絶対に私を裏切らないって自惚れていた」
私はありのままの心情を彼女にぶつけた。
「憎んでなんかいないよ。そんなことあるわけないじゃん。私にとって意味のある存在は玲於奈だけ、それ以外のものは皆ゴミだよ」
渚は拍子抜けするほど、あっさりと言ってのけた。
「それがどうして殺すことに結びつくのかしら? 意味不明なんだけど」
「これは怜於奈のためなのよ。怜於奈はここに居てはだめなの」
いっている意味はまったくわからないが、狂ってるようには見えなかった。長年、渚を扱ってきた私にはわかる。彼女は今とても冷静だ。
「ちゃんとわかるように説明して」
しかし、渚は首を振った。
「もう終わり」
彼女は読み終えた本をパチンと閉じるように言った。
渚はフッと息を吐くと、大きくステップを踏みだした。黒いタイトスカートが割れて白い太股が露わになる。フェンシグのファントのように綺麗に渚の身体が伸びきった。
繰り出されたナイフをステップバックしてかわそうとしたが間に合わない。私は反射的に銃床で切っ先を払った。渚は一瞬身体を泳がせたが、すぐに態勢を立て直し再びナイフを構えた。
飛び道具と違い近接武器は対応が難しかった。来るぞ!というシグナルが明瞭でないのだ。動体視力と反射神経だけが頼りだ。
階段の方の銃声がますます激しくなってきた。
スタジアムに侵入してきた連中が階上に集結しはじめているのだろう。もっとも狭い踊り場に出てこれるのはせいぜい一人か二人だ。しかも階下の敵に無防備に体をさらすことになる。ニット帽の射撃の腕がお粗末であるにしてもしばらくは持ちこたえるはずだ。
しかし、二人が突破されたら一巻の終わりた。モヒカンを背にして渚と戦うことなど不可能だ。
時間の経過は私にとって不利にしか作用しない。早めに決着をつけるには銃で渚の動きを止めるのが手っ取り早いのだが、おそらく通用しないだろう。彼女も私の心の動きをモニタリングしているはずだ。 しかし、試して見る価値はある。渚は銃撃を警戒して迂闊には距離を詰めてこないはずだ。
私は渚の右足を狙った。引き金を引くまさにその瞬間、渚が視界から消えた。
彼女は蛇のようにすばやく私の足下に飛び込んできた。
腕が太股に巻きつき、そのまま雪の上に押し倒された。渚はそのまま馬乗りになって私を押さえこんだ。跳ね返えそうともがいたが、びくともしない。
「私、大学生なってから総合始めたんだよ。プロデビュー直前まで行ったんだけどね。練習で相手にキレて半殺しにしちゃったから、取りやめになったの」
渚は荒い息を吐きながら言った。
「でも心配しないで、怜於奈にはそんなことしない。前回はあのクソ女が私の意識に介入してきたから手元が狂ったけど、今度はきっちりと苦しませずに殺してあげる」
「ヒカルのことを言ってるの?」
渚は黙りこんだ。
ナイフを振り上げた腕が微かに震えている。逡巡しているのだ。とすれば、まだ希望はある。私の聴覚はその希望が近づいてくるのを捉えていた。
「死ぬ前に教えてよ。ヒカルは生きているの? どこにいるの?」
「怜於奈こそ、目を覚まして! この世界はあの女の妄想なのよ。私たちは妄想の中に取り込まれているのよ。でも、私がすべて終わらせる」
渚はナイフを振り上げた。
灰色の影が渚の腕に飛びついた。鮮血が雪の上に飛び散る。
渚は腕に噛みついた犬をものすごい力で振り回したが、犬は離さない。立ち上がった渚はナイフで犬を刺そうとしたが、そのまま凍りついたように動きを止めた。
心臓に深々と突き刺さった矢を私は震えながら見つめていた。
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