第25話

 無残に散らばった資金をかき集める間も、ふたりの間の空気は険悪に澱んでいた。

「君を信頼して店を任せたことが、そもそも間違っていたのか」

 硬貨を拾っていたリュシアンががばっと顔を上げる。

「そんな、おれはきみが楽になればと思って」

「君が余計なことをしたせいで、店の経営はめちゃくちゃだ! ここのところ売上高が合わなかったのも、君があんな連中を野放しにしたせいだろう!」

 アデルの胸の澱みは収まることなく膨張し続ける。彼自身が見苦しいと毛嫌いしていたはずの怒声は、とうとうただひとりの親友にまで矛先を向けた。

「あれは……! だって、わかるだろう? 彼らは本当に生活に困ってるんだ。さっきの子どもだって、きっとなにか特別な事情があって」

 ‪「特別な事情? そんなものが彼らに通じると本気で思っているのか?」‬

 意外にもリュシアンはひるむことなく食い下がる。‪アデルは呆れと軽蔑を隠しもせずに吐き捨てた。それは屋敷にひとりだった頃から慣れ親しんだ、どうしようもない遣る瀬無さからくるものだった。‬

 ‪「それが積み重なった結果がこの数字だろう。貧乏人は一度甘い汁を吸わせるとすぐにつけあがる!」‬

「なんだって……」

 リュシアンの大きな瞳が激しく揺れる。

 次の瞬間、ガンッという鈍い音とともに、アデルの背と後頭へ強い衝撃が走った。タイごとリュシアンに胸ぐらを掴まれ、柱へ押し付けられたのだ。

「この野郎ッ! もう一度言ってみろ! おれのことも、ほんとうはずっとそんなふうに思っていたのか!?」

 あのやさしかったオリーブの瞳が、抑えもきかぬほどにぐらぐらと燃えている。リュシアンがこれほどの怒りを露わにしたさまを、誰がいままで想像しただろう? そこでようやく、アデルはある重大な認識違いに気がつき、痛む背筋にぶわっと冷たい汗を滲ませた。

「待て、僕がいつ君の話をしたんだ、」

「したさ!」

 仇のごとくアデルを睨みつける目に、じわりと涙が浮かぶ。

「客の侮辱はおれへの侮辱と同じだ! おれはかつて、たくさんの店の人たちの好意に助けられてきた、そうやってどうにか今日まで生き延びてきたんだ。だから今度はおれが、そんな人たちを助ける側に回りたい。それのなにがいけない!」

「勝手なことをするな、君は黙って僕の言うことを聞いていればいい!」

「どこまでおれを馬鹿にすれば気が済む!? ためらいもしないで人を傷つけるようなやつの言うことなんか、だれが聞くもんか!」

 どこだ。何だ、何を間違えたのだ。アデルはほほをひっぱたかれたような表情のまま、友人の莫大な言葉と感情にただ押し流されていた。自分だって、まだ吐き出し切っていないもやもやとした感情はたくさんあるのに、堰を切ったリュシアンは到底止まりそうになかった。

 嫌だ。このまま聞いていれば壊れてしまう。頭の中で警鐘が鳴る、わかっているのに、両耳をふさぐことすらできずにいる。

 嫌だ。聞きたくない。よりにもよって君の口から、僕を否定する言葉なんか聞きたくない。

「きみにとってはいつもののついでかもしれないが、あれであの子の骨でも折れてみろ、そこから膿んで、下手をすりゃそのまま死んじまうかもしれないんだぞ。どうしてだかわかるか? どんな怪我や病気をしても、医者を呼ぶ金がないからだ!」

「そんなの僕たちには関係のないことじゃないか!」

 もはやアデルは半狂乱であった。

「僕が君と店を続けるためにどれほどの犠牲を払ってきたか、なぜわからないのだね!」

よ、アデル」

 子どものように泣き乱し、いつも言葉に纏わせている品性さえ脱ぎ捨ててわめくアデルを、どこかずっと遠い場所の出来事のようにリュシアンは見ていた。腕に込めていた力を抜き、手を放す。拘束、あるいは支えを失って音もなくくずおれたアデルは、ちょうどトルソーから落としてしまったときの、ドレープ地のシュミーズ・ドレスによく似ていた。

「正直、もう限界だ、アデラール。繊細なきみのこと大事にしたくて、ずいぶんいろんなことを我慢してきたが、おれだってなにも感じないわけでも、なにも考えないわけでもないんだ。きみほど頭が良くなくたって、きみがおれになにか隠そうとしているとか、きみがおれをどんなふうに扱おうとしているかとか、それくらいのことは、やっぱりさ、おれにもわかっちまうんだよ」

 ほんとはこんなこと言いたくないけど、と前置きする声が、喉の奥で震える。

「おれときみとはちがうんだ。きみの考えることはおれにはわからないし、おれの気持ちも、ぜったいきみにはわからない」

 どうして、と、アデルはあえぐように言った。

「それでも共に居ようと、言ったじゃないか。信じていたのに」

「おれもさ。だけど」

 無論、リュシアンとて、言うのは辛かった。伝えてしまえば、きっと続けていけると信じていた身分違いの友情がほんとうに終わってしまいそうで。けれど言葉にせずにはいられなかったのは、かつてほかならぬこの友だちが、悩める本心を打ち明けられる幸せを教えてくれたからだろう。

 リュシアンはもういちどせりあがる涙をこらえながら、しかしきっぱりと言った。


「おれは、おれの家族や、さっきの子供たちや――この街でいう黒の貴婦人マダム・ド・ラ・ノアールみたいな身売りの人とか、ああいう、かわいそうな人たちのほうを守ってやりたいんだ」


 乱暴にしてごめん、ちょっと頭を冷やすよ。おれ、今夜は一度実家に帰るな。きっと互いのためにもそのほうがいい。

 リュシアンがそんなことを言ったのも、いつもと同じにやさしく髪を撫でたのも、アデルには硝子越しの景色のようにぼやけて感じた。ひとり取り残されたアデルの世界にはただ、荒らされた衣装たちと、地べたに固め置かれたほこりまみれの紙幣や硬貨があるばかりだった。

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