第24話
崩壊は、なんでもないある日、突然に訪れた。
表では、お針子か何かだろう身なりの女性客とリュシアンが楽しげに話し込んでいる。アデルは連日の寝不足を引きずり、ぼうっとした頭で、のろのろと札束の数を検めていた。
「ねえ。ねえったら、旦那」
疲れのせいだろうか。自分を呼んでいる客の声に気がつき、そして応じるまでに、随分と時間がかかってしまった。
返事が遅れたのを謝罪し、店主として話を聞こうとした次の瞬間。老婆のあからさまな溜息とともに、信じがたい言葉がアデルの耳へと飛び込んだ。
「返事もなしかい。とにかく、この襟巻も持っていっちまっていいんだね?」
「――失礼、マダム。今なんと?」
アデルはまず自らの聞き間違いを疑った。声をかけた当人である背の低い老婆はまるきり平然として、今しがた聞こえたとおりの言葉をもう一度繰り返す。
「もらっていいんだろう? ここのものは。丁度古いのが破けちまったんだよ。替わりを買う金がないんでね、ありがたく失敬するよ」
そう言い残すなり、老婆はほんとうに木綿のストールをぼろぼろの鞄にしまい込み、持っていってしまおうとする。あまりのことに、アデルはめまいがするのをこらえながら、努めて冷静に老婆を制止した。
「金がない? マダム、それはいけない。そのストールなら定価は1フラン20スー――」
「なんだい、払えってのかい、あんたけちだねえ。あの表の子は金はいいって、たしかにこないだあたしに言ったよ」
「そんな……馬鹿な」
いよいよ気が遠くなりそうで、アデルは眉間を押さえた。
めちゃくちゃな話である。買い物がしたければまず金を払い、それと引き換えに商品をもらう。難しいことはなにもないはずだ。少なくともアデルの知っているリュシアンは、その程度の理屈がわからぬほどの愚か者ではない。
さては根も葉もない難癖をつけ、金目の物をせびるつもりか。そうでなければ、純朴なリュシアンのことだ、老婆の都合のよいように言いくるめられたり、もしくは単純に説明に不備があったりしたのかもしれない。
なんにせよ、一度リュシアンに確認してみなければ問題解決のしようがない。もし老婆の主張がでたらめならば、彼は自身の口で真実を証明してくれるだろうから。
「リュシ? リュシ、僕にもわかるように説明してくれ。彼女と君との間で、なにか行き違いがあるようだけれど?」
アデルはいつもそうするように、作業台から玄関口を覗き込んで友人を呼んだ。
ふたりはふだんから、仕事中も時折互いに目を合わせたり、作業やお客のことについて話を交わしあっているので、片方がこのように呼べば、もう片方もすぐに合流することができた。その前提を疑ったことすらなかった。
しかしこの日は違った。リュシアンがいつまでもアデルに気づかないのだ。
先ほどの女性と、まだ話をしているようだった。
「リュシっ、聞いているのか」
彼のあれほどうっとりとした、幸せそうな表情を、アデルはこれまで見たことがなかった。
町じゅうにたくさんいるという「友だち」と話すときも、いわんやアデルと話しているときも、リュシアンはいつでも楽しそうに相手の話に相槌をうっていた。
ほんとうかい、すごいじゃないか、それできみはどうしたんだい……。どんな話も興味深そうに、表情豊かに聞き入ってくれるのがうれしくて、誰にも言えずずっと抱えてきた胸の苦しさや寂しさを思いがけず吐露してしまった日もあった。それでもリュシアンは隣に座り、ときには手を握って、心に寄り添っていてくれる。
こんなにも僕を気にかけてくれる友がある。たったそれだけのことに、どれほど救われたか。きっとそんなふうに思っている人間が、リュシアンの周りにはたくさんいるのだ。だから彼には「友だち」が多いのだろう。
けれど――今日のリュシアンがいつもと違うのは、そんな彼が専ら話し手に回っていることだった。
どうか自分のことを知ってくれ、と言わんばかりに、一生懸命に話をつないでいる。店のこと、家族のこと、前の仕事やその頃の仲間のこと、それから話し相手の女性本人のこと。漏れ聞こえてくる中には、アデルが聞いたこともないような話題もあった。
あんなリュシアンは知らない。
なぜだ。こんなにそばにいて、こんなに大切に思っているのに。彼のことを好きだからこそ、なんだって僕は捨ててきたじゃあないか。
楽しそうで、幸福そうだ。君のほかにはなんにもなくなった僕ひとりを置き去りにして、君はいったいどこへゆくというのだ。
リュシアンは振り向かない。
どれほどたくさん呼んでも、どれほど声を張り上げても。
「リュシ……!」
「それであたしはどうすりゃあいいんだね。結局この襟巻はもらっちゃいけないっていうのかい」
老婆がいらいらしたように鼻を鳴らす。なぜだかそれで突然、かっと頭に血が上って、アデルは思わず声を荒げた。
「書かれたとおりの料金を出す気がないなら、今後うちには来ていただかなくて結構だッ」
「なんだい、感じの悪いッ。こんなことならわざわざ声なんか掛けるんじゃなかった、あのこそ泥の小僧たちみたいに黙って持っていきゃあよかったよ。二度と来るもんか、こんな店ッ」
あてつけのように足音を立てながら店を出ていく老婆。気づけばアデルは凶悪な暴徒のように、肩をいからせてぜえぜえ息をしていた。いつかの晩に感じた、あのどす黒い胸の苦味は、もう抑えようもないほどにまで身体の中で膨れあがっていた。
*
「リュシアン! いったいどういうことだ!」
パヴォットと別れてまもなく店から聞こえた声に、リュシアンはびくりとして振り向いた。見れば、相貌にかつてないほどの怒りをたたえたアデルが早足にこちらへ近づいてくる。ただならぬ空気に、夢心地に緩んでいた口元がひといきにこわばる。
「アディ? どうしたんだ、さっきグェン婆さんが怒ったように店を出ていったが、なにもきみまで……」
「どうしたもこうしたもあるかッ、君、あの婆さんになにか妙なことを吹き込んだんじゃないのかと聞いているんだ!」
責めるように壁際へ詰め寄られ、リュシアンははじめ、なにがなんだかわからない様子だった。感情の昂ぶりに口もとをわななかせるアデルを困惑した顔で見つめたのち、なにか思い当たる節はないかと、視線を外して必死に頭を働かせる。そうして、あちこち彷徨った視線が店の中へ戻った途端、リュシアンは「あっ」と小さく叫んだ。
「なんだね、ちゃんと僕の目を――」
なにか誤魔化そうとしているように見え、アデルはますます苛立ったが、すぐにそうではないことに気がつく。少し遅れて店の奥に目をやると――作業台のそばにひとつ、怪しい動きの影。
「――何をしているッ!」
金を扱っている作業台を片時でも離れるなど、ふだんなら絶対にしないはずのうかつな行為であった。トルソーを蹴散らしながら飛んで戻り、小さな泥棒の手首をつかまえると、小銭や紙幣がばらばらと床に零れた。
アデルの脳裏へ、先ほどの老婆の台詞がにわかに蘇る。あのこそ泥の小僧たちみたいに。なんという失態か、彼のル・ブランは、こんな狂った状況をずっと黙認し続けてきたのだ!
不可解だった事実がいっぺんにつながり、それは同時に、アデルの紳士としての枷を焼き切る炎となった。
アデルは掴んだままだった腕を、衝動的に壁へ叩きつけた。おびえた顔の泥棒がひいっと呻く。まだ抜けた歯も生え揃わない、幼い少年だった。
「この……! 貴様らのせいでッ!」
「おい、アデル、よせ! 相手は子どもだぞ!」
いつの間にか後ろに回り込んでいたリュシアンが、すかさずアデルを止めにかかった。アデルに固定されていた手がぱっと離れると、少年は尻尾を巻いて逃げていく。
「はあ、はあ、はあ……!」
ひととおり事件が終わったあとになっても、乱れたふたりの息はなかなか戻ることがなかった。
ちらりと眼だけで互いの表情を伺う。無二の友人と、その瞳に映る自分は、今までに一度も見たことのない、ぞっとするほど冷たい表情をしていた。
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