第23話

「『黒の貴婦人マダム・ド・ラ・ノアール』?」

「おうよ。聞いたことないか?」

 いつものように店先に立つリュシアンを囲んで、近隣の男たちが下世話な噂話に興じている。

 大家の婿シャルロットの興奮した口ぶりに、工場勤めのマチユとクレマンが身を乗り出した。脇には、すっかり店の顔馴染みとなったミシェルが、退屈そうに飾り台へ肘をついている。

「なんでも真夜中、誰も見たことのないようなものすごい上等の黒衣ノアールに身を包んで、このあたりにふらりと現れるらしいのさ。その美しさといったら、男も女もたちまち虜にしちまうんだと。金持ちが大枚はたいてそいつを買うが、名乗りもせずに闇の中へ消えちまうから、そんなあだ名がついたんだ。パリから来た女優じゃないかとか、亡命中の令嬢かもとか、いろんな噂が立ってるんだぜ」

「しょぼくれた工場町に、そんな上玉がわざわざ来るかよ。どのみちやってることは淫売だろ」

「やめろよ、そんな言い方」

 あくび交じりに悪態をつくミシェルを、リュシアンがたしなめた。フン、と鼻を鳴らして顔を背けた反対の手で、袖口へ二、三個、小さなブローチを隠し持ったのに彼は気づかない。

「なんでもいいけどよ。はああ、いったいどんないい女なんだろう。俺の安月給じゃあ夢のまた夢だが、一度でいいからそんな女を買って、好き放題犯してみたいよ」

「おい、馬鹿っ、こいつは」

 クレマンがあわててマチユの脛を蹴る。マチユはまだ知り合ってから日が浅く、リュシアンの生まれについて話を聞いていないのだ。

 話好きで、いつでも楽しげに会話に応じるリュシアンだが、男ばかりの界隈では避けがたいこの手の話題だけはひどく嫌っていた。らしくもない彼の憮然とした表情を察したシャルロットが、それとなく話題を反らす。

「リュシアンもよ、こっちに店構えてしばらく経つだろう。どうなんだよ、ものにしたい女の一人や二人、できたんじゃないのか」

とか、あの子はそんなんじゃないよ」

 むっとして地面を睨むリュシアン。四人の男たちは互いに顔を見合わせた。それでは思い当たる相手がいるのだと宣言したようなものである。

「おおっ、つまり、できたんだな!?」

「難しく考えなくていいんだぜ、リュシアン。特別にきれいだと思ったり、ずっとそいつのことばかり考えて胸がいっぱいになったり、そういう女が、おまえにいるんじゃないのかって話さ」

 やわらかい言い方に解きほぐしてやると、リュシアンは軽い驚きをのせて素直に顔を上げた。

「……うん、いる。どうしてわかったんだい」

 男たちはいよいよ歓声をあげた。

 女のことを思い浮かべてか、リュシアンはもじもじ身じろいだ。しかしその瞳は喜びに爛々と輝いている。次第に色づくほほが、彼を包んでいる甘酸っぱい幸福を十二分に物語っていた。

「彼女と話したり、彼女のことを考えると、夢中でぽうっとなっちまうんだけど、代わりに元気がわいてくるんだ。たったいま別れのあいさつをしたのに、もう次に会える日のことを考えて、胸がどきどきする。できるならずうっとそばにいてほしいし、そうして、おれがその子を、いろんな大変なことから守ってやりたい。そんなふうに思ったこと、シャルロ兄さんたちにもあるのかな」

「あるさ!」シャルロットは嬉しそうに叫んだ。「だれにだってあるさ。そうかあ、リュシアンにもついに恋の季節が訪れたのかあ!」

「恋……」

 リュシアンは思わず、その響きを口の中で確かめた。恋。店に来る若い娘たちが、黄色い声でひときわ楽しげに話をしている、あれのことだろう。あれはこういう気持ちのことだったのだ。

「それで、おれ、どうしたらいい」

「おいらに聞くのかよっ、しょうがねえな」

 なんとなく目が合ったミシェルに話を振ってみると、大げさなくらいに飛び上ってあわてた。赤くなったほほを隠すように鼻の下をこすり、しかし、教える気はあるようである。

「まずは恋を結ばせなきゃならねえ。ものを贈ったり、しゃれた遊びに連れて行ったりよ、とにかく、自分が相手にどれだけ惚れてるか、行動で示してその女にわからせるんだ」

「わからせたらどうする」

「そりゃあ……心おきなくいいんだろうよ」

 しばらく考え込んで答えるや、マチユはまた脛を蹴られることになった。

「残念ながら俺ァうまくことがねえからなあ。こいつと嫁さんイレーヌみたいに結婚して、家庭持ったりするんじゃねえかなあ」

 クレマンがぼんやりと応える。この中では唯一結婚しているのがシャルロットで、妻のイレーヌはそのうち赤ん坊を産むらしい。ここのところ体調が安定しないからと、シャルロットは仕事も早く切り上げて、まめまめしく彼女の世話をしているのだ。リュシアンのうちでは、その役目を果たすのはもっぱら子どもたちであった。

「……あんまりわからないや、おれ、親父っていないから。でも……彼女はマルグリットを通じて、うちの事情も知ってくれてる。いい暮らしじゃなくたっていいんだ、ふたりでずっと支え合って暮らしていけたら、幸せだろうなあ……」

 リュシアンの夢みるような瞳の中には、自分と家族と愛しい人でつくる穏やかな未来が、おぼろげに形作られようとしていた。

「おいおい、相当な重傷だぜ!」

「こいつめ、いつのまに詩人に転職したんだっ。すぐに恋文書かせようぜ、『美しい人よ、一目見たときから貴女に夢中でした』とかなんとかさ!」


 *


「マダム……美しい人よ。僕は一目見たときから、貴女に夢中だ」

 背中を縁どるレースをなぞり、コルセットの結び目に指先をかける。愛の言葉を囁きいれた耳元へ、アデルはそのまま口づけを落とした。

「お上手なんだから、可愛い人。よろしいの? あたくし、旦那がいますのに」

「僕のに乗ったのは貴女だろう? 夜遅いこんな時分に、貴女のように身分のある奥方が護衛もつけずに一人歩きだなんて。それで夫への忠を貫いているつもりなら、ひどい御方だな」

「折角会えたのに、意地の悪いことをおっしゃるのは止して。今宵はあたくしの憂鬱を忘れさせてくださるのでしょう」

「ふふ、無論だとも。先立つものも既に頂いているしね……」

 邸宅の隠し部屋へ招かれ、主人とひとつ屋根の下で、その夫人と背徳に耽る。常時の彼なら絶対に応じない危険な取引だが、何しろアデルは焦っていた。

 金が足りないのだ。

 ワルテールに返す借金のため、しばらく彼の根城である阿片窟へ通っていたが、ほどなくしてその生活は破綻した。もともと無い金を阿片に注ぎ込んでいた常駐者たちは、アデルに必要なだけの金を払う能力などもとより持ち合わせていなかったのである。知らぬうちに狂って廃人となったり、どこぞで野垂れ死んだりしている者たちを相手に、どうやって商売をしろというのだ?

 加えて、彼の焦りに拍車をかけていたものがあった。ル・ブランの経営状況の異変である。

 はじめは小銭の計算が少し合わない程度で、たいしたことはなかった。リュシアンに店を任せている日に、ちょっとした計算間違いがあったのだろう。しかし、その「誤差」が日増しに、無視できないほどの爆発的なスピードで拡大している。このままいけば、ふたりの生活さえ危うくなりかねないほどの深刻な異変だった。

 客足は落ちていない。むしろ前より賑わっているくらいである。だのになぜか、売り上げだけが減っている――。この不可解な状況を、アデルは未だ解明できずにいた。

 悩んだ末、アデルは定期的に金を送ることをワルテールに約束し、身売りの場を街へ移すことにした。店を知っている者に出くわさないよう、毎度違う街へ遠出して、ひと気のなくなった真夜中にモントルイユへ帰ってくるのだ。

 衣装は闇に紛れる黒であれば、三つ揃えのタキシードだったり、骨格を隠す大ぶりのフリルをあしらったシュミーズ・ドレスだったりした。今宵のような貴族の奥方や未亡人、美少年趣味の芸術家など、相手に合わせて装いを変える。そうして色恋の真似事をしたり、相手好みの切ない声でよがってみせたりするのだった。

 実際、アデルは自らの美しいいでたちと着飾った装いを誇りに思っていたし、そういう点では、ブティックでの仕事も身売りも、自慢の商品を扱うことに変わりはなかった。なにより、阿片窟でモノのように扱われ、薄汚れたままに打ち捨てられるよりは、自分の意志で取引に臨むほうが、まだいくらかアデルの自尊心にやさしかった。

 汗で髪を乱した夫人が、熱っぽい瞳でアデルを見上げている。その熱さの意味を知ることもなく、アデルは妖しい微笑みで彼女に応えた。


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