蝋細工の翼

第22話

「ただいまあっ」

 元気な声とともに住居のドアが開き、外の空気が部屋へ流れ込む。リュシアンが買い物から帰ってきたのだ。帳簿を睨み眉間を揉んでいたアデルは、それでようやく文机から顔を上げた。

「それ、まだやってたのかい」

「ああ。売上高を確かめているのだけど、どうしても計算が合わなくて。ここのところずっとだ」

 疲れ切った様子でアデルが嘆息する。帳簿を覗き込むとなるほど、店頭の商品の数に対して、手元の金がほんのわずか足りないようだ、ということは、なんとなくリュシアンも理解した。

「ふうん……。でも、儲かってるんだろ?」

「まあ、ね」

「それなら」そう気にすることもないんじゃないか。 そんな台詞が続きそうな表情だった。

「なんにせよ、あまり根を詰めると体に毒だぜ。そろそろ晩飯の支度をしよう、そら、頼まれてた卵とベーコンを買ってきた」

 リュシアンは袋を机に持ち上げ、次々と買ったものを取り出してみせる。渡された金だけで、思ったよりたくさん買えたのだ、と随分得意げである。

「肉屋の世話になるなんて何年ぶりだろう! おじさんもおれを珍しがってさ、いっとう立派なのをくれたんだ、ほらっ! 余ったら、週末に持って帰って兄弟にも食わせてやっていいかなあ?」

 思わずアデルはぷっと吹き出した。もしリュシアンが子犬であったなら、今は千切れんばかりにぶんぶんと尻尾を振っているにちがいない。ただベーコンを買えたというのが、そんなに嬉しいものだろうか。

「ふふ、勿論だとも。そうだね、あとでもういちど検算するとして、いったん夕食にしようか……すまない。ここのところ、僕があまり店へ出られていないから」

「気にするなよ。とにかくお互いちゃんと食って、精をつけないとな」

 リュシアンはにっと笑って、アデルの肩を抱いた。

 いつも明るい彼ではあるが、ここのところは特に元気だ。うだるような暑さや疲れもものともせず、常に楽しげな笑顔を浮かべている。実際、悩みがちで、いろいろに秘密を抱え込んだアデルは、リュシアンのそういうところにかなり救われていた。

 ふたりであれこれくだらない話をしながら夕食をつくり、食卓を共にし、同じベッドで眠りにつく。そんな穏やかで平凡な生活が、いつまでもずっと続けばいい。

 アデルは心からそう願っていた。

 願っていたのだ。


 *


 数日前のこと。リュシアンはまたひとりで店番をやっていた。

 定休日明けの朝、時折アデルはぐったりと伏せったまま起き上がれなくなることがある。虚ろな目を悔しげに伏せ、「すまない」とかすれた声で謝るアデルを見かねて、休んでいていいよと告げてひとり店へ出る。この日もそんないきさつで、リュシアンは店頭の椅子に腰掛けていた。

 夏である。眩しい日差しこそないものの、分厚い雲は鼠色のままぎらぎらと光っている。じっとしていると瞬く間に汗が滲んできて、リュシアンは袖口でぐいっと額を拭った。アデルが見ていたら、またはしたないと叱られてしまいそうだ。

「……パヴォット、見て! きっとあそこだわ!」

 通りの向こうから、かすかに聞きなれた声がする。リュシアンは驚いて椅子から立ち上がった。果たして楽しげな声の主は、店に――否、リュシアンに向かって一直線に駆けてくる。

「マルグリット!?」

「兄さんっ」

 家に戻る時期がなかなか合わず、長らく会えていなかった妹は、しかし最後の記憶にあるよりずっとはつらつとした表情だった。

「久しぶり、兄さん、こんな素敵なお店で働いてるのね! なんだかあたしまで嬉しくなっちゃうわ」

「ああ、うん。おまえも元気そうでなによりだ……けど、今はおまえの工場は仕事の最中じゃないのか。ここのところ何の消息もなかったが、いったいどうしていたんだ」

 アデルから話を聞き、リュシアンはマルグリットに新しい職場として、女工が働く大きな硝子工場を紹介している。そこに勤める娘たちはル・ブランの常連客にも何人かいるため、ある程度の事情は知っていた。退勤後の寄り道で姿を見せるのは夜の8時頃からであること、制服としてグレーのスカートを支給されていることなど。しかし、今のマルグリットはどちらにも当てはまらない。

 指摘すると、マルグリットは小さく眉をひそめた。

「そのことなんだけど……」

 話を聞くに、なんと彼女は随分前に工場を辞めていたらしい。

 勤め出したころからどうにも居心地が悪く、生計のためにと辛抱して働いていたものの、あるちょっとしたを目撃し、とうとう耐えかねて逃げ出したのだという。

「子どもがいるのを隠してた子がいてね」万一にも誰かに聞かれることを恐れてだろう、念入りに周囲を警戒しながら、マルグリットは囁き声で続けた。

「ほんとはあの工場、そういう人は働いちゃいけないのよ。でも金に困って、働けるところがほかになかったんだって。秘密にして、ずっと真面目に働いてたのに、何かの拍子でばれて上司にせいで……子どものこと以外は、ほとんど言いがかりよ。身売りをやったとかやらないとか、仕事にはなんにも関係ないのに……なんとかしてあげたかったけど、あたしひとりじゃなんにもできなかった。かわいそうに、上司にも一緒に働いてた娘たちにもさんざんにいじめられて、結局彼女は工場を追い出されたわ。

 信じられる? みんな苦しい生活に耐える弱い者同士なのに! あたしすっかり恐ろしくなっちまって、その日のうちに逃げてきたの。ねえ兄さん、波止場が悪夢だとしたら、あの工場は生き地獄よ。この世にあんなおそろしいことがあるなんて、あたし考えもしなかったわ!」

「……そんなことが」

 実の妹の遭遇した、あまりにもおぞましい出来事に、リュシアンはしばし絶句していた。みな貧しく、困っているなかで、さらに互いで蹴落としあうなんて。

 リュシアンたちのような立場の低い労働者は、ほんの些細な道の踏み外しで、まっさかさまに落ちるところまで落ちてしまうのだということを肌で理解している。男は乞食に、女は娼婦に――そうならないためにと気を張っているうち、人の心までも忘れてしまうのだろうか。いつかレミが言っていた、『胸の内にひそむ悪人』の話が、ちらりと脳裏をかすめた。

「ところで、それが随分前のことといったな。にしては達者なようだが、今はどうしている?」

「仕事を変えたの。お針子をしてるのよ」

 話題を変えると、マルグリットもぱっと表情を明るくした。そちらの仕事はなかなかうまくいっているようである。そういえば、店を訪ねてくるときに誰か連れていたようだが。

「工場を辞めたあと困ってたあたしに、お針子の仕事のこととか、いろいろ教えてくれた友達がいてね。兄さんに会いに行くっていったら、ついていきたいって」

 兄妹で話している間、気を遣ってか、店のほうへ入って商品を見ていたらしい。マルグリットよりひとまわり背が高く、豊かな栗色の髪をした、後ろ姿のきれいな女である。マルグリットはすまなさそうに、しかしどこか甘えたように『友達』の前へ回り込んだ。

「ごめんね、こっちで長いこと話し込んじゃって」

「いいのよ。このお店、本当にいいものが揃っているのね。見ていてちっとも飽きないわ

 ――ああ、ごめんなさいね。挨拶もまだなのに、つい夢中になってしまって」

 女が笑って、リュシアンの方をふわりと振り向いた。


「っ、」


 はっと息を飲み込んだきり、リュシアンは返事を返すのも忘れてしまっていた。

 そのほんの一瞬の、 なんと満ち足りて、まばゆく輝いていたことだろう! 胸の鼓動が、あわてたように速さを上げていく。手が、胸が、頬が、痛いほどに熱い。それは限りなく心地よく、幸せな痛みだった。戸惑いと驚きに見開いた目が、たおやかに微笑む女を穴のあくほど見つめる。青みがかった薄い色の瞳、薄いくちびる、小ぶりな耳、すっきりした鎖骨にふたつあるほくろ……。ああ、おれはいつからこんなに目が良くなったのだ?

「パヴォットよ。今は部屋もいっしょに使ってるわ。パヴォット、このひとあたしの兄」

 パヴォット! この子はパヴォットというのだ。ひとつ彼女の情報が増えただけで、リュシアンはたまらないほどうれしくなった。

「えっと……はじめましてアンシャンテ、リュシアンだ。妹が世話になっているようで」

 やっとのことでそれだけ言う。パヴォットはにっこりして、スカートの端をつまんで会釈した。

こちらこそアンシャンテ、リュシアンさん。マルグリットマリーから話に聞いていますわ」

 おれの名前を呼んだぞ! 仕草も、話し方も声も、なんてきれいなんだろう!

 彼女の成すことすべてが美しく見える。指先も、マルグリットを見やる優しい眼差しも、ずっと見ていられたらいいのにと思った。

「とっても頼りになるお兄さんだそうで。彼女、仕事の途中も貴方の話ばかりよ」

「そんな、『ばかり』ってほどじゃあ」

「ふふ……でも、わかるわ。やっぱりお兄さん、雰囲気がマリーに似ていらっしゃるもの。親切で、いつも家族のことをいちばんに考えてくれていて、って……わたしにもそんな兄がいたら、きっと好きになるはずよ」

 マルグリットは照れていたが、横から聞いているリュシアンはさらに照れていた。

 貧しかったから、当たり前にやらなくてはならなかったことを、当たり前にやってきただけの人生である。誰に褒められようとか、認められようとか考えているいとまはなかった。それでも、それなりにつらい時期も頑張ってきたいままでを、肯定されればほっとするのだ。しかも妹だけではなくて、こんなに素敵な……。あまりうれしくて、気の利いた謙遜の言葉も思いつかない。

 それからしばらく店にいたふたりと、様々な話をしたが、内容はほとんど忘れてしまった。ただ、パヴォットと話している時間が、限りなく幸せだったということのほかには。

「ル・ブラン……このお店、また来たいわ。いいかしら?」

「もちろんっ」

 リュシアンは食い気味に返事した。

「ぜひ来てくれ、妹と一緒に。おれはいつもこの場所にいるから」

 だから、待っているから、またおれに会いにきてくれ。

 言葉の続きを感じ取ってか否か、パヴォットは嬉しそうに手をひらひらさせて帰っていった。

「…………あつい」

 彼女の背中が豆つぶほど小さくなるまで見送って、やっと外気の暑さを思い出したリュシアンは、真っ赤な顔を隠すように椅子にうなだれた。

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