第21話

 アデルはここのところ、接客の際に黒い革手袋を着けるようになった。

 もう夏も近いというのに、いつも襟元の詰まった洋服で、人目を避けるように俯きながら店に立っている。火照った頬に貼りついた髪を煩わしそうに払っているところを見ると、暑くないはずはないのに。ちょうど今店先に出してある、あの胸元のあいた木綿のフリルシャツなんか、きっと涼しくてアデルにもよく似合うと思うのだが。

 奥の作業台を見やり、漠然とそんなことを考えながら、リュシアンは売りどきを過ぎた厚手ジャケットの値札を付け替えていた。どうもここのところ、アデルは気の病に伏せることが多くて、代わりを務めているうちに随分多くの仕事を覚えてしまったのだ。

(季節の変わり目だから、体が弱っているのかなあ。こっちモントルイユへ来て初めての夏だ。力仕事ばかりしていたおれに比べるとアディは体力もないようだし、よく見ておいてやらないと)

 労働者はみな仕事に出ている昼過ぎの時間帯。少ない客足。だからこそできるこまごまとした単純作業――気が緩んでいたのだろう。考え事にふけり、往来に背を向けて洋服に埋もれていたリュシアンは、ぱっと後ろを通った影に、寸刻気づき遅れてしまったのだ。

「ああっ、おい!」

「どうした!」

「ちくしょう、やられた、スリだ! 捕まえる、アディは店にいてくれ!」

 そう叫ぶや否や、リュシアンは身を翻して店を飛び出した。


 犯人は――すぐにわかった。まだほんの子供である。もうさすがに売れないだろうと、ちょうど店頭から回収しようとしていた大きなコートを一枚と、飾り棚に置いていた花飾りつきの真っ赤なリボン。よほど慌てているのかずるずると引きずり、時折自分でその裾を踏んづけてつんのめりながら、必死に抱えて逃げている。存外にあっさりと追いついてしまい、わずかに罪悪感のようなものすら覚えながらも、ぐいと首根っこをつかまえた。

「うぎゃっ」

「そうら、ばかにしてくれるなよ。こう見えて走りにゃ自信があるんだぞ」

「やい、離せ、離せよおっ。これはもうおいらのだ、すぐあいつのところへ持っていってやるんだっ」

 小さな体を宙に浮かせたまま、これまた小さな手足が犬かきのようにしゃかしゃかと空を掻く。どうにも毒気を抜かれてしまって、リュシアンは子供を一度地面に下ろしてやることにした。

「あいつ?」

「クローディーヌが」 ぜえはあと息をつきながら、子供――ちょうどルチオとシエルの間くらいの年齢だろう少年である――はいっそう頑なにコートを握りしめる。

「姉貴分がここんとこ、ずっと病気で寝込んでるんだよっ。こんな時期なのに、ああ風が冷たい、寒いって泣いてばかりだ。寝床にしてた馬小屋も何日か前に追い出された。かたくて汚い土の上で、きれいな服の一つも着られないで、あいつはもうじき死ぬんだ、ちくしょうっ」

 しゃがんで顔を覗き込むリュシアンから目をそらし、少年はそう吐き捨てた。

 胸を突かれたようだった。

「それで……その、病気のクローディーヌにやるために、うちで盗みを?」

「悪いかよっ」

 ああ、この少年は同じなのだ。あの日、腹を空かせた弟妹に食わせてやるため、馴染みの店から食べ物を奪ってきたルチオと――「優しさじゃパンは買えない」と言い放ったときの怒りと悔しさに満ちた目と、同じ目をしている。

「惚れた女に花ひとつ買ってやれない貧乏の気持ちなんぞ、どうせ金持ちにはわからないだろっ」

「――――」

 かつての日々を思い出していた。

 幼馴染みの波止場の娼婦たちは、男に買われた際に病気をもらって、早いうちに死んでしまう者も多い。母と仲が良く、叔母のように世話を焼いてくれたニコレット姐さんもそうだった。

 無理を言って日雇いの仕事をもらい、稼いだばかりの小銭を握りしめて、幼かったリュシアンは薬屋へ走った。だがあとたった一枚の銀貨が足りなくて、結局何も買えずじまい。悔しくて、泣きながら帰った夜。

 あのとき薬が買えていれば、彼女は死なずに済んだのか――当時はそう考えたこともあったが、おそらくそれはない。せいぜい二、三日、楽に息ができる時間が伸びたくらいであろう。しかしそれでも、直後薬屋へ入ってきて、綺麗な紙幣で難なく目当てのものを買い、大きな金貨のおつりまでもらって、鼻歌交じりに帰っていった裕福そうな紳士のあの呑気な横顔を、今でも彼は忘れられずにいるのだ。

 思うに元来、貧乏人に悪人が多いわけでも、金持ちに善人が多いわけでもないのだ、とリュシアンは考えている。食うとか寝るとか、ただただ生きていくのに必要なものを、金持ちは何も考えずとも手に入れることができる。でも、おれたち貧乏人は違う。

 働いて働いて、やっとどうにか今日暮らすぶんをしのいで、たまに間に合わなくて死んだりする。それをどうにかごまかして、死なないように間に合わせようとすれば、どこかでを破るほかはないのだ。うっかり盗みなんかをやって、警察に捕まったりすれば、犯罪者として死ぬまで黄色い身分証がついてまわる。もちろん、そんなことになる連中は貧乏人ばかりだ。だって金持ちは、

 顔馴染みだっただれそれが盗みをやって捕まった、とかいう風の噂を聞くたびに、そんなことを考えて、やるせない気分になった経験が、リュシアンとて無いとは言い切れない。

 それに、自分だって。

 あのときは良くも悪くもものを知らなくて(不思議で、かつ彼にとっては非常に幸運なことだが)、店主の目を盗んで薬をぱっと取ってしまえばいい、なんて考えも及ばなかったから、そうしないで帰っただけのことなのだ。

 たとえばもし、大切な身内が今にも死にそうに困っているとして、金も稼ぎのあてもなくて、目の前に丁度よい売り物が置いてあったとしたら――おれは――。それより先のことを考えるのはやめている。

「わかるとも」

 溜息を混ぜて、低くうなるように声が漏れていた。しばらく黙ったまま考え込んでいたので、少年は不審げな目でじっと見つめている。それに気がつくと、リュシアンはもう一度ふっ、と短く息をついた。微笑んだ音だった。

「いい。このまま、そいつのところへ持っていってやりな。アディ――店主には捕まえ損ねたとか、あとで釣銭の計算を間違えただとか、まあ、おれが悪かったことにして、うまいように言っておいてやるよ」

「ほんとうに? あんた、このままおいらを見逃すっていうのか?」

 にわかに戸惑いの浮かんだ泥だらけの顔に、リュシアンはにっこりと頷き返した。

「昔、似たようなことがあったのさ。おれも貧乏の生まれでな、この仕事につくまでには毎日食うにも困ってた。家族に申し訳がなくって、当たり前になんでも持ってる金持ちが羨ましくって……。いつも助けてくれたのが近所の店の人だったんだ。だからきっと今度は、おれがおまえみたいな人たちを助ける番なんだな」

「…………」

 少年はまだ疑ぐるような目で、じっとリュシアンを見上げていた。そのままじり、と片足が砂利を踏んだかと思うと、だっと土を蹴って走りだす。まだコートが重いのか、頼りない背中を、リュシアンは苦笑したままに見送った。

 自分にできることなどほんの少ししかないけれど、それで、少年とかわいそうな少女が、ほんの少しだけ安心できる一瞬を作ることができたならいい。

 リュシアンはそのまま少年を見送ったあと、ふと気になって一言、ぽつりと呟いた。

「……『惚れた女』、かあ」


 *


「クローディーヌの姉御っ、うまくいったぜ!」

 路地裏にあるみなしごたちの巣窟へ、興奮した顔で少年ミシェルが駆け込んでくる。両腕には仕立てのよいグレーのコート、盗みがうまくいったようである。

 クローディーヌ、と呼ばれた少女は、これまた盗品やがらくたで満ちた空き樽に、退屈そうに頬杖をつきあぐらをかいていた。ちらりとミシェルのに一瞥をくれると、不機嫌そうに鼻を鳴らしながら、しかし随分身軽な動きでひらりと樽の塔から飛び降りる。

「なにさミシェル、たったのこれだけ? それもこんなばかでかいだけの男物なんか……どうせなら毛皮とか、シルク地のドレスとか、真珠とか、そういう金になりそうなものを盗ってくりゃあいいのに。何年こそ泥をやったって、ちっとも見る目ってのがなってないんだから、あんたは」

「でも、あの店、カモだぜ」

 ぶつくさと言いながら慣れた手つきですばやく品質を確認するクローディーヌに、ミシェルは意地悪くにやりとしてみせた。

「奥の黒いのはどうだか知れないけど、表の金髪はえらく簡単だったんだ。こっちがガキだからか、あっさり情けなんかかけてきやがって。とんだお恵みだぜ! あの様子じゃあと何回かぶんどったって、ちょろいぜ。金目のものならまだまだ店にあったしな!」

 それを聞くと、クローディーヌもにんまりと唇をつりあげる。大きなアマンドの瞳がきらりと光った。

「ふうん。まあ、盗れるだけ盗ってみりゃあいい。ガキが簡単にカモれるような服屋なんて、そうそう聞いたことないからね。ほかにどんなのがあるか、そのうちあたしもいろいろ見てこなくっちゃ」

「おうっ」

 ここは子供たちの王国だ。スリや万引きで少しずつ集めた金、食べ物、ゴミ捨て場から拾った錆びだらけの美しいものたち。リーダーのクローディーヌは、この城を売りに出すとき、捨て子みなしごの自分たちは一気に金持ちの仲間入りをするのだと、昔からかたく信じていた。

 もうひとつの盗品の赤いリボンはなぜか渡せないままに、ミシェルはポケットの中のそれをずっと、ぐしゃぐしゃになるまで握りしめていた。

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