第20話

 考えうる限りのあらゆる方法で丹念に身を清め、穢れたブラウスを一級品のジャケットできっちりと覆い隠す。病的なまでに神経質な身支度がすっかり済み、アデルがモントルイユへ戻る頃には、時刻は既に真夜中であった。

 ふらふらと住居の階段を登り、そっと灯をつける。リュシアンは――既に戻り、眠っているようだ。角を照らすと、一人分のベッドのふくらみと、文机にある書き置きに気がついた。きっと眠る前にリュシアンが残したのだろう。アデルはベッドのわきにランプを掛け、その内容に目を滑らせる。

 ――きみの帰るのを待っていたが、あまり遅いので、すまないけれど自分は先に床についてしまうことにする。今日も家族に会ってきた、パンや薬や、生活に必要なものを楽に買えるようになってきて皆喜んでいる。母の顔色も少し良くなった、これもすべてきみのおかげだ。尊敬する大好きな友だちよ、明日からもともにがんばろう――。

 と、そんなことが書かれていた。文法の誤りがずいぶん減り、文字の綴りも上手くなっている。かんたんだが、いつものやさしい人柄が滲む文面だった。

 すぐ隣のベッドには、絵画の中の天使のような、柔らかな巻き毛が灯を受けて金色にきらめいている。わずかに弧を描いたくちびる、林檎色の頬。


 外出用の正装のままで、見慣れていたはずのリュシアンを見つめ、アデルは愕然とした。

 おそれ――引け目――なにか聖なるものと突然対峙させられたかのような、えも言われぬ絶対的な緊張感にアデルは縛りつけられていた。コートや帽子を脱ぐことも忘れて、アデルはしばし、この友人の寝顔から目を離せずにいたのである。


 ああ! いったい、どこから我々は違ってしまったのだろう! かつて、あの忘れられない冬の日も、アデルはこうしてリュシアンの眠る顔を眺めていた。珍しく降った雪に埋もれ、ぼろ雑巾のようになって倒れていた彼はひどく痩せていて、泥まみれだった服や肌をアデルが清めてやったのだ。完全に意識を失い、屋敷のベッドに横たわってなお、飢えや不安に歯ぎしりをしていたあわれな少年。それが、こうまでも。僕のリュシアンは、これほどまでに美しかったのだ。

 否――否、否。アデルの思考は遡る。生活が「まし」になって快復した健康的な肉付きや、衣服の問題ではないのだ。襤褸を着ていようとも、泥まみれの制服で雨の中を駆け回っていようとも、リュシアンはどこまでも無垢で美しかった。

 なぜ、なぜ僕たちは、こうまでも。どんな上等な召し物を何重に重ねてめかし込んでも、僕のこの身は――今や下賤の慰み者となり、罪深く穢れているというのに!

 胸の奥がぢりぢりと焦げているのを感じる。鈍い苦みに似た感情が、手酷く荒らされたばかりのアデルの口腔を満たした。何を捨てても守りたかった、全てを賭けて愛するはずの友へ、アデルはその晩、初めて、泣きたいほどの憎しみを覚えた。


 ―――


 ‪リュシアンはその晩、妙な夢を見た。

 ‪だらしなく着くずしたシャツを一枚だけ身にまとったアデルが、寝ているリュシアンの腹に跨ってくるのだ。‬

 ‪アデルの重みで動けないのはリュシアンの方なのに、そのアデルもひどくおびえたような、泣きそうな顔をしていた(どこかで見たような表情だ、いったいどこでだったろう!)。リュシアンの素肌に数えきれぬほどの口づけを落としながら、執拗なほどに、何度も何度も愛しているといい、自分もそうだと応えれば、いっそうあの美しいかんばせをゆがめる。宝石ビジューのような雫がふたつ、瞬いた両の瞳からこぼれた。‬

 ‪震えるか細い指。すがるように絡みつく、痣や傷などひとつもない、すべらかでしっとり熱い手足。‬

「リュシアン、僕を、君の――」

 瞳に宿る光が妖しくゆらめく。いつもと違う様子にぞっとして、リュシアンは衝動的にアデルを突き飛ばし――そこで目が覚めた。

 なんだってあんなことをしたのだろう。夢の中とはいえ、友だちを傷つけるなんて。とにかく、なんというか、とても怖い夢だった。

 きっときのう挨拶のために波止場なんぞに行ったせいだ、とリュシアンは思う。親切にしてくれる女らに感謝すればこそ、彼はあの場所が好きではなかった。呑んだくれやならず者が彼女らに横暴を働くのは耐えられなかったし、なにより金のない自分はそんな状況でも何もしてやれないこと、自分も連中と同じ男であることを思い知るとき、リュシアンは叫び出したいほどの情けない気持ちに襲われた。

 夢の中でもアデルは女のように美しかったが、それでよけいに、なにか狂った世界に迷い込んだようで恐ろしかったのだ。きれいなのはほんとうでも、あれはおれの出会った中でもいっとう立派な男じゃないか。だらしないどころか、おれのタイや前髪がすこしよれただけでも、眉をひそめて直しに寄ってくるあのアディだぞ。

 ――僕を君の情夫にしてくれ。

 あんな仕草で、格好で、あんなことを言うなど、到底ありえないではないか。まさか、彼に限って。


 夢の余韻から醒めきれないまま、のろのろとベッドから這い出る。アデルはいつのまにか戻り、既に起きていたようだった。

 まだ眠いのか、ぼうっとした横顔である。窓辺にもたれてくしゃりとした髪はまだ結われておらず、焦点の合わない濡れた瞳も、ぽってりした紅いくちびるも、昼間の堅実な印象とはかけ離れて見えた。朝のアディって、これまでも、こんなに――「こんなに」、なんだというのだ?

「リュシ、おはよう。昨日はすまなかった。新しい事業の交渉に出ていたら、遅くなってしまってね」

 自問しているうち、先にアデルがこちらに気付いて振り返る。いつもどおりのやさしい彼だ。けれどやはり、すこし、どこか、普段と雰囲気が違っている。

「やあアディ、おはよう。そうだったのか、いや、きみがひとりで出かけるなんて、今まであまりなかったから。何事もないなら、よかったよ」

 応えるとアデルは寸刻だけ、痛みをこらえるようにくちびるを噛んだ――気がした。見間違いかと思うほどの一瞬ののち、アデルは頷き、奥ゆかしく目を細めて微笑む。

「うん……。では、そろそろ店の支度をしなければね。その前に」

 ね、リュシ、僕を抱きしめてくれないか。


 吸い込まれそうなヘーゼルの瞳から、友の真意が読めなくて、気持ちがざわめく。アデルのこんな目は初めて見る。怒っていたり、寂しがっていたり、金持ちの後継らしいつんとした立居振舞のわりに、感情は子供のようにわかりやすいのがアデルの愛らしいところだと、リュシアンは思っていたのだが。

 リュシアンが軽く腕を広げてみせると、 アデルはなにも答えず身を預けてきた。ゆったりした寝間着の胸もとに、甘えるように鼻先をすりつけられる。

 ――ひょっとすると、おれはまだ、あの妙な夢の続きを見ているのかしら。

「アディ?」

 まとわりつく微妙な不安感を断ち切りたくて、思わず名前を呼ぶ。アデルは顔を上げないままに、ん、と簡潔に応答した。

「ああ、ごめんよ。なんでもないけど、その。今日のきみは、なんだかいつもと違う気がして」

 波うつ彼の黒髪が首すじをくすぐる。互いの耳元近くで囁き合う声にびくりとしたのが、リュシアンなのか、アデルだったのかは、わからなかった。

「なに、すこし香水パルファムを変えただけさ」

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