第26話

 いつまでそうして座り込んでいたのだろうか。

 アデル自身がそうと気づかぬ間に彼はすっと立ち上がり、店の内装を元通りに片づけ、資金は丁寧に金庫にしまって、いつもどおり完璧に閉店作業を行っていた。やけに静かであったこと、ふだんよりずっと早い店じまいであったことを除いて、アデルの様子になにもおかしなことはなかったと近隣の住民は言う。しかしそんなアデルの胸のうちで何が起こっていたのか、当然ながら彼らは知る由もなかった。

 正確には、はじめのうち、何も起こらなかったのである。いつもにこにこしてアデルについてきてくれたリュシアンの、思いもよらぬ反逆。あまりのことで、しばらく何も考えることができなかったのだ。ひとつひとつ、事実として起こったことを、感覚として記憶に落とし込むので精一杯だった。

 まず、そうだ。客に妙なことを言われて。リュシに事情を聞こうとしたが、返事がもらえなくて。そうしたら、ちょっと油断したすきに泥棒が現れた。

 それで、店の経営崩壊が、彼がその泥棒を手助けしていたせいだとわかった。僕はそれをとがめたが、いっしょに彼らの生まれのことまで馬鹿にしたと思われてしまって、ひどく怒らせてしまった。

 彼は出ていった。そして――

 ――このまま、二度と戻ってこないかもしれない。

 そう思い至った瞬間、鐘をついたような衝撃的な絶望がたちまちアデルを支配した。

 いやだ。無理だ。今さら、彼なしで生きるなんて。どうにかその可能性を避けたい、なんとかリュシアンを取り返せないかと強く思うたび、先ほどの彼の言葉と烈しい怒りの表情が、わずかな期待もろともごうっと瞳の奥を焼く。ああ、そして思い出してしまった。去り際、彼がなんといっていたのか。

 ――リュシは、彼のために身売りをする僕マダム・ド・ラ・ノアールを、といったのだ。

 リュシアンがその正体を知っているのかどうかは、もはやアデルにとって大した問題ではなかった。重要なのは、はじめて阿片窟で身を穢した晩、満ち足りた顔で眠るリュシアンを美しいと思ったときのあの憎しみである。気高く美しくあれと大切に守り続けていた誇りを、額縁ごとぐちゃぐちゃに塗りつぶした黒くて醜いそれは、なおもアデルの胸にこびりつき、リュシアンへの純粋な慈しみを麻痺させようとするのだ。

 もはやもう一度リュシアンに会いたいのか、会いたくないのか、アデルにはそれすらわからなくなっていた。ただ、腹から手を入れられて、心臓を抉り出されたような、血の流れるような痛みだけがなくならない。自分ではどうすることもできないのだ。だって僕の心は、すでにみんなリュシアンにあげてしまったのだから。

 痛い。心が痛くて狂いそうだ。息苦しいほどの痛みにうずくまっても、かけよって背をさすってくれる友人はもういない。僕が不甲斐ないせいで、またみんないなくなってしまった。かつての、リュシアンと出会う前のように、すべてひとりで解決するしかないのだ。


 ――痛けりゃ、あんたも吸えよ?


 ふと思い出したのは、なぜかワルテールの言葉だった。

 存在そのものを軽蔑し、二度と行くまいと決めていた阿片窟。その場凌ぎの快楽に溺れ、自分の名前さえ忘れて呆けていた常駐者たち……。

 最後の棚に埃除けをかぶせ終えたあと、アデルの足は自然に動いていた。胸の痛みが治まらないから、歩みは早足に、早足は駆け足に、目に見えないものから逃れようと、しまいにはなりふり構わず疾走して。ステッキも持たずに森を抜け、鋭い葉にあちこち切り裂かれてぼろぼろになりながら、アデルは阿片窟へたどり着いた。

「阿片をくれ」

 倒れ込むように扉を開け、息も整わぬうちにそう告げる。中にワルテールの姿はなく、丁度代わりの仲介商人らしい男が出ていくところであったらしい。手に持つ紙袋に気付くや、アデルは折りたたんだ紙幣を投げ渡し、袋を奪い取った。

「あ、あんたっ」

「煙管はどこだね。これは? 誰も使わないなら、僕が」

 扉のすぐそば、吸引が済んで気をやったのか、ぴくりともせず伸びている男のそばに、火のついたままの蝋燭と炙り網、使いかけの煙管がある。アデルは迷いなく煙管に生阿片をすり込むと、蝋燭の前にかがみ込み、まもなく立ち上った紫煙を胸深く吸い込んだ。

「……う…………!」

 途端、頭の中に不気味な電流が走り、耐えがたい嘔吐感が襲い掛かる。かがんだ姿勢ですら自重を支えられず、アデルは尻餅をついて床に倒れ込んだ。口もとを押さえ、うめきながらのたうつ彼に、商人はおろおろしだした。

「あ、あんた無茶だよ坊ちゃん、その様子じゃ吸ったことないんだろう。最初はみなそんなふうになるんだようっ、だ、だから寝転がってから吸わないと」

「うぅ……んう、ぁ、くふ……ああっ……!」

 ひどく気分が悪い。吸ってすぐに酩酊できるのじゃなかったのか。息が切れているところに思いきり吸引したうえ、つううと立ち上る煙はなおもあたりを満たしている。悪心おしんにめまいと頭痛も加わり、苦痛のあまり背を丸めてがくがくと痙攣しているのを、生唾を飲んで見守っている気配をわずかに感じた。

 どうしてだ。ここまでしたのに、ちっとも痛みが治まらないじゃあないか。なにか別のもので、感覚を上書きしなければ。苦しいのも狂おしいのも、もうたくさんだ。

「抱け……」

「はっ?」

 額に浮かぶ脂汗もそのままに、胸元のボタンを震える指で外してゆく。慣れ親しんだはずの動作にもたつくのがおかしくて、ひきつったような笑いが漏れた。そしてそのあと、笑んでしまった自分自身への失望が底なしの悲しみを呼び起こす。なにもわからない、苦しいことのほかにはなにも。どうしてもここから逃れることができないなら、もう、どうなってしまったって、どうでもいいではないか。

「僕を抱くがいい……。このみじめで、おろかな男を、めちゃくちゃになるまで犯せばいい! とんだ笑いぐさだ、下賤と唾棄していた貴様らと同じところにまで、とうの昔に僕は堕ちていたのだ! 忘れさせてくれ、愛も、誇りも、なにもかもすべて! 僕は人生を忘れたい!」

 アデルは絶叫と、気狂いじみた自嘲と、そして号哭がすべてないまぜになったような気味の悪い声でわめき続けた。そうして疲れ切ると、ようやく訪れた眠りにも似た陶酔の中にその身を投げた。


 *


 大喧嘩をした日の晩、リュシアンは宣言の通りにぼろ家のあるブローニュ・シュル・メールへ戻り、しばらくを家族や顔馴染みの人々と過ごした。

 一緒に店を経営していたプティ・ブルジョアの青年と喧嘩別れしてきた、と言うと、詳しい事情を話す前から多くの人が同情し、疲れきった彼をねぎらったり慰めたりしてくれた。ルチオやジジは「それ見たことか」と言わんばかりの呆れ顔だったが。

 ひと気のない岬でようやくひとりになった頃には、あれほどに胸の内を占めていた憤りもずいぶんおとなしくなっていた。友人の飲んだくれ駐屯兵が、アデルのことをよく知りもしないのに、調子に乗って下品な悪口雑言を吐き始めたのを、冷静にいさめることができたくらいには。あれだけ派手に罵り合って別れても、自分たちの関係を知らない赤の他人に悪く言われれば少し腹が立つ程度には、やはりまだ自分はアデルのことを好きなのだ。

 リュシアンはそこではっと息を飲んだ。

 こんなふうになにかいやなことがあったとて、おれはこうして、家族や街の人たちに愚痴をこぼしたり、励ましてもらうことができる。もやもやした気持ちも、それで少しはすっきりとする。けれど、アデルは?

 彼にはもはや家族がないのだ。友だちと呼べるような人はおれがはじめてなのだと、たしかにそう言っていたではないか。立派な屋敷を売り払ったいま、アデルにとって「家」と呼べる場所はただひとつ。あいつがいて、おれがいる、あの小さなル・ブランしかないのだ。

「…………」

 どれほど……心細かったろう。考えたこともなかった。ひとりぼっちのアデルは、ただひとりの友だちとして、おれをほんとうに信じるときめたから、ああして店に誘ってくれたのじゃないか。ル・ブランが彼の新しい、そしてただひとつの家なのだとしたら、それを守ろうと必死になったり、壊されそうになれば怒ったり焦ったりするのも当然じゃあないのか。

 確かにアデルの度を過ぎたわがままや、人を人とも思わないような高飛車な物言いにうんざりすることも何度かあった。けれどそれならそれで、おれもがまんばかりしていないで、なにがいやで、これからはどうしてほしいのか、きちんと話をすればよかったのだ。お互いの気持ちや考えがわからずにすれ違うのだって、きっとあいつの本意ではない。時間をかけて話し合えば、きっとわかり合って、もう一度手を取って歩んでゆける。アディがとても賢くて、ほんとうは誰よりやさしいことは、もとよりおれがいちばんよく知っているのだから。

「……帰ろう」

 家ではない。おれたちの店へ。まずは素直に謝って、そこからまた始めればいい。案外アデルも今は落ち着いて、しゅんとした顔でおれの帰るのを待っているかもしれない。おれも、あいつも、お互いちょっと言い過ぎたのだ。

 懐かしい海に背を向けて、リュシアンはモントルイユへの道を歩き出した。

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