第17話

 アデルが倒れた朝から、数日後。

 十分に休んで無事に快復したアデルは、再びリュシアンと二人で店に立つようになった。以前と違うのは、店先で接客をするリュシアンも、直接客に商品を「売る」ようになったことである。

「君もとても頑張ってくれているようだから、会計もこれから半分君に任せようと思う。奥からきちんと見ているから、なにか分からないことがあったり、間違いそうになっても心配しなくていい」

 アデルの口調は優しかったが、その微笑みの甘やかさにどこかひっかかりを感じたのを覚えている。まるで、リュシアンに仕事ができるようになるのを快く思っていないかのような口ぶりだった――いったい、どうしてだろう。屋敷にいた頃は、リュシアンが少し文字を覚えただけで、自分のことのように喜び褒めてくれたではないか。

 とはいえアデルが奥の作業台、リュシアンが店先という立ち位置は変わらない。数日ぶりに姿を表したアデルにお客が構いにいっている間、リュシアンはいつもの調子で、常連と世間話をしながら雑務に勤しんでいた。

 刺すようだった冷たさは少しずつ和らぎ、街ゆく人々の表情も心なしか安らいで見える。あの絶望的な冬の日を超えてなお、リュシアンと家族はどうにか暮らしているし、暮らしぶりもほんの少し楽になった。モントルイユにも春が来たのだ。

すみませんエクスキュゼ・モアそこの方ムッシュー。アデラール・メフシィ氏の住所はこちらで?」

 おお、郵便屋だ!

 手慰みに飾り棚の塵を払っていたリュシアンは、かつて何百回と繰り返した決まり文句に思わずにやりとした。ろくろく文字も読めない少年郵便夫だったおれが、よもや友だちと一緒に店を持って、手紙を受け取る立場になろうとは!

「ああうん、おれの同居人だ。ありがとう、受け取っておくよ――」

 振り返った先で、その郵便夫と目が合ってようやく、リュシアンは口元に浮かんだ笑みがそのままになっていたことに気がついた。

 郵便夫はリュシアンの顔を確認すると、信じられないというように目を見開き、そのままさあっと青くなった。手指がかたかた震え、取り落とされた手紙をリュシアンはすんでのところで捕まえる。やれやれ、うっかり屋なところも相変わらずだ!

「おっと、――レミ! 久しぶりじゃないか、元気そうでなによりだ! このあたりを担当していたのだな、ちっとも気がつかなかったよ。どうだい、調子は?皆も変わりはないかね?」

「リュシアンさんっ……」

 顔を輝かせて再会を喜ぶリュシアン。今にも倒れそうに血の気が引いていたかつての後輩郵便夫レミも、つられてわずかに頬を緩めた。しかしレミはすぐに元のかたい表情に戻ると、冷たいものにでも触れたように両肩をびくりとさせる。

「どうして……怒らないのですか」

「怒る? おれが?」

 リュシアンが首をかしげると、レミは打ちのめされたような顔をして、あのいつものおどおどとした声色のまま一息にまくしたてた。

「だって、ぼく、ぼくはあの日あなたを裏切りました! あんなによくしてくれたのに、ぼくは我が身かわいさに、苦しんでいたリュシアンさんを見捨てて逃げたんです。リュシアンさんには数え切れないくらいの恩があるのに……それを、ぼくは……」

 ああ、おれが首になった日の話をしているのか、と気がつくまで少しばかり時間がかかった。言われてみれば、そんなこともあったか。熱を出していたのであまり詳細には覚えていないけれど、確かに最後にすれ違ったときのレミの悲愴な顔といったらなかった。

「なんだ、きみはまだそんなことを気に病んでいたのか! あのときはおれも必死だったからなあ。いや、今から考えると、まったく情けないところを晒したものだよ」

 ここ最近の日々があまりにめまぐるしくも幸福なせいで、――あるいは、彼が忘れたいと思ったので忘れたというだけのことかもしれないが――あの日のおそろしい絶望感はずいぶん昔のことのように感じている。まだ背をこわばらせているレミを、リュシアンは軽快に笑い飛ばした。

「心配するな。いろいろあったが、このとおりおれは元気だし、家族も達者にやっている。おれはなにも怒っちゃいないよ」

 レミはまだ神妙な顔をしていた。「リュシアンさん」彼はなにか悩みがあるときの暗い声で、ぽつりぽつりと話を続ける。

「ぼくはあのときから、自分というものが、とんでもないペテン師のように思えて仕方がないのです。ぼくは郵便夫としても人としても、リュシアンさんのことをすごく尊敬していたし、いつかきっとあなたの役に立ちたいとずっと考えていました。ほんとう、ほんとうなんです。だけどあのとき、仕事をくれとぼくに頼んできたリュシアンさんに、頭の中で“耳を貸すな”と叫んだぼくがいた。それも、まちがいなく、ぼくなんですよ。だって実際に、ぼくはその声に従って逃げたんですから。ぼくはもうわからないのです。立派に仕事を覚えて、先輩の役に立ちたいと思っていたのも、たぶん、ほんとうのはずなんですけれど、実はそれはうわべだけで、ぼくのなかにはもっと強い力を持った、おそろしい悪い奴が息をひそめているんじゃあないか」

「レミが悪い奴だって? まさか!」

 あまりに行きすぎた心配だと、リュシアンは驚いて素っ頓狂な声を出した。

「きみにだって家族があり、守らなくちゃならない自分の生活があったのだろう。ほんとうに悪い奴っていうのは、人を人とも思わずに、簡単に傷つけたり裏切ったりして、平気な顔をしている連中のことをいうんだ。きみがそんな男じゃないことくらい、おれだってわかってたさ。……こらこら、泣くなったら! また手紙をだめにしても、今度こそおれは知らないぜ?」

 ようやく表情をゆるめたかと思うと、そのまま泣き出してしまったレミを、リュシアンはあわててなだめた。咄嗟に差し出したハンカチが新品の売り物だったことに気がつき、ひとしきり二人で笑う。改めて手紙を受け取り、お互いに身体に気をつけるようにと簡単な会話をしたあと、レミは配達に戻るため去っていった。


 ‪「おそろしい」といえば、と、リュシアンの脳裏にふと昔の記憶が蘇った。‬

 ‪リュシアンさん、あんまり優しくて、ぼくはちょっとこわいですよ、と、知り合ったばかりのレミに困り笑いの顔で言われたことがある。‬

 リュシアンはその言葉の意味を、いまだにわからずじまいのままでいた。


 仕事に戻ろうとしたとき、リュシアンはふと“”を感じ眉をひそめた。こういう感じを嗅ぎとれてしまうのは、彼が波止場で育ったことの数少ない恩恵のようなものである。この手のものとは、関わらずに生きてゆけるのが一番の幸福であるのだけれど、守るべきものを多く持つリュシアンにはうまくいかないことの方が多い。

 リュシアンは薄っすらと笑顔を作ると、定位置である店玄関の椅子を離れた。

「やあ、旦那。うちの店になにか、気になるものでもあったかい?」

 向かいのカフェ・テラスの影。はじめは気のせいかと思ったが、さしものリュシアンにも最早疑いの余地はなかった。ずっと、そう、、店が開いてからリュシアンが常連やレミと立ち話をし、そのレミが去った今このときまで、微動だにせずにずっと店の中を凝視している男がいるのだ。

 この男は危ない。

「俺はプティ・アデラール・メフシィに用事がある。あれをこっちに呼んでくれや」

 黄ばんだ長コートに山高帽を被ったその男は、コートと同じに黄ばんだ歯をにいっと剥き出した。

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