第18話

「旦那が、アディの知り合い?」

「そうとも。父親の代から、よおく知ってる仲だ」

 山高帽で押さえつけた縮れた白髪、黄ばんだ歯はところどころで欠け、汚れた舌が覗いている。安い葉巻や酒を浴びるようにやっているせいだろう、とリュシアンは勘ぐっていた。こういう連中は波止場の娼婦たちの間でも、特に素行が悪く迷惑な客として煙たがられている。

 ちらと後ろを振り返り、店の中を確認する。アデルは裕福そうな二人組の学生客を相手に、真剣に品選びの相談に乗っていた。こちらに気づいている様子はない――こいつをアディに会わせたくない。リュシアンの胸の底に、たちまちそんな感情が巣食った。

「ごめんよ、あいつは今取り込み中のようで。アディは頭がいいから、おれにできないようなむつかしい仕事をみんなやってくれているんだ。旦那、アディに何の用事だったんだい? おれが取り次いでおくよ」

「俺ァと言ったんだが、え?」

「だめだ。おれからアディに話す」

 わずかに微笑みを浮かべたまま、しかし頑として引き下がるつもりはなかった。男は意外にも落ち着き払った様子で、納得したように呟く。

「ガキ、さてはか」

「なんだって? ――がふッ!?」

 ちかり! 目の前が明滅する。男はまるで「たった今、カフェの席を立った」かのようにごく自然に歩き出し、ごく自然にリュシアンの鳩尾を左拳で抉り上げた。リュシアンがすぐに倒れ込まず、その場に踏みとどまったせいで、街ゆく人の誰も彼の身に何が起こったのか理解することはできなかったろう。

 呼吸が詰まり、全身からどっと冷や汗が噴き出す。

 彼は確信した。なにが「父親の代からの知り合い」だ。良家に育ち、ずっとひとりであの屋敷を守ってきたアデルが、こんな男と関わりのあろうはずがない。この男は口から出まかせで、おれのアディを罠にかけようとしているに違いない!

 棒のようになった足を引っ掛け、店へ向かう男の背へ倒れ込む。やっとのことで震える手にコートの襟を掴むと、あらんかぎりの力で自分の方へ引き寄せた。

「い……か、せな、」

「しつけェな、この――」

「――警察だ! そこの者、往来で何をしている!」

 苛立った男がリュシアンの胸ぐらに掴みかかったちょうどそのとき、前方から怒号が響いた。見回りの治安官たちだ。

 男は小さく舌打ちをすると、リュシアンを放り投げるようにして素早く裏路地へと滑り込んだ。すかさず数人が男を追う中、ひとりの治安官が未だ動けないリュシアンへと駆け寄る。

「か、はッ……!」

「リュシアン! 大丈夫か、腹をやられたか」

 鳩尾を抑え、まだ呼吸が戻っていないことを目だけで訴える。辛抱強く背をさすってもらい、息苦しさに涙ぐみながら、ようやく大きく咳き込むことができた。

「ッ……はふ、はぁ、は、――げふ、ごほっ! はーっ、はーっ……ジハード巡査。ありがとう、助かったよ」

「すまん、もっと早く来られればよかったんだが。奴も取り逃がしちまったみたいだな」

 巡査が歯噛みして男の去った方向を見やる。

「あいつ、何者なんだろう。どうも、おれの友だちを相手に、なにか妙な企みがあったようだが」

「我々を一目見て逃げ出したところをみると、じゃあないことは確からしい」

 騒動を聞きつけて不審に思ったのか、店からはアデルがリュシアンを探しに出てきたところだった。巡査はそちらを横目に見、最後にもう一度リュシアンの背を軽く叩いた。

「奴も同じ手は食わんだろうから、これで当分店の方には来んはずだ。しかし用心しろよ、港ほどじゃあなかろうが、このあたりにも厄介な連中は掃いて捨てるほどいやがる。正直、我々の見回りだけじゃあ追っつかんくらいにはな。下手に目をつけられて、引き摺り込まれんようにしろよ」

「うん、わかったよ。気をつける」

 おざなりな敬礼を済ませて走り去る巡査と入れ違いに、アデルがこちらへ駆け寄ってくる。どうやら一連の事件を何も知らずに済んだようで、何が何やら不思議そうな顔をしていた。

「ひどい騒ぎだ。警察がどうのと、店の中まで聞こえてきたものだから、君が心配で急いで出てきたのだけれど。無事かね、リュシ? なにかされてはいまいね?」

 矢継ぎ早に尋ねながら、アデルはリュシアンの襟元に手を伸ばし、乱れたリボンを整え始めた。ああ、ほどけていたのか、あの男に胸ぐらを掴まれたときに――。

 思い出した途端、引いたはずの冷や汗が再び流れ出す。つんと澄まして丁寧に身なりを整えてくれる、いつもどおりのアデルの横顔を見ていると、リュシアンの身体からひといきにこれまでの緊張が抜けていった。

「こら、いけないよ、動いては結び目が……。リュシ?」

 かくん、と膝を折り、地べたに座り込んでしまったリュシアン。呆けたような、笑顔めいて唇の引きつった表情だけが、辛うじてアデルの方を向いている。

「あれ……。変だな、いまさら腰が抜けちまった。まだ膝が笑ってるや……」

「リュシ? どうしたのだね、震えている。まさか、さっきの騒ぎでなにかおそろしい目にでも遭ったのか」

 肩を貸そうと、アデルが隣へ屈み込む。そのすらりとしたいとおしい身体へ、堪えきれずリュシアンはきつくしがみついた。

「はうっ!?」

「ああ、アディ、アディ! おそろしかった、おそろしかったとも! ひどくこわい目に遭った! じつはついさっき、なんだかよくわからない不気味な客が来て」すんでのことで、リュシアンは話の核心部分を隠すことにした――あの出来事だけでおそろしかったのに、このやさしい友だちを余計に怖がらせるような不吉なことは言わなくてもよいだろう。なんせ、もう全て済んだことなのだから!

「あんまりな無茶を言うものだから、ちょっとしたけんかになってさ。けれどもう大丈夫だ、警察のジハードさんとおれがきっちり追っぱらったからな。きみはもうなんにも心配いらないよ。ああ、ほんとうにきみに何事もなくてよかった! きみにもこの店にも、あんなのに寄りつかれちゃあたまらないからな。なあアディ、おれは立派に役目を果たしたぜ。あいつはもう来ない。震えがくるほどこわかったが、きみを守れたんなら、それがなによりだ!」

 重要な部分をみんな避けて話したからか、アデルはいまひとつ釈然としない顔でリュシアンにされるがままとなっていた。その話のとおりなら、人懐こいリュシアンがこれほどおびえたり、警察の世話になるほどの騒ぎに発展したりはしないはずだが……。しかしあまりにリュシアンが必死の様子なので、 アデルはひとまず疑問点を隅に置くことにした。リュシアンがこれほど情熱的に、自分を大切だと言ってくれたのがうれしかったのだ。

「そうか、僕の為にたくさんがんばってくれたのだね。ありがとうリュシ、ずっと見ていると言ったのに、ひとりで大変な応対をさせてしまってすまなかった」

「へへ……いいんだよ、きみは、あいつのことは」

 まだ足元がふらついているリュシアンを助け起こし、肩を貸して店へと戻る。精神的な疲れがひどいようなので、今日はもう休んでいていいと伝えると、素直に受け入れた。二階の住居へ戻る直前、彼は「そういえば」と振り返る。

「例のことがあってすっかり忘れていたが、郵便屋からきみ宛ての手紙を預かっていたんだ。先に渡しておくよ」

 そう言って、預かったという手紙の封筒を作業台へ伏せると、リュシアンは身体を引きずるようにしながら階段を登っていった。にこやかに振舞ってはいるが、余程参っているのだろう。

 フランスじゅうの人間と友だちだと言ったって誰も驚かないあのリュシアンが、あれほど悪しざまに言い、疲れ果てる客とは、いったいどんな者なのか。アデルはそんなことを思いながら、何の気なしに封筒を裏返した。


 そして――身の毛のよだつような真実を悟ったのである。

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