第16話
階段を降りていく、弾んだ足音を聞きながら、アデルはもう一度リュシアンのくれた古紙を眺めた。
少し埃をかぶった紙の感触、インクのどこかほろ苦いにおい。目を閉じてそっと頬を寄せれば、かつて彼自身の少年時代、同じように勉学に励んだ日々が思い起こされた。
――ずっと、ひとりだった。
父も母も、立派だが多忙な人であった。幼いアデルを屋敷に残し、精力的にフランス内外を飛び回っていた両親。「愛しているよ」の言葉とベーゼが軽薄なものに感じる年頃になっても、二人は変わらずアデルの誇りだった。
偉大な両親と肩を並べるためなら、惜しいものなどなにもなかった。贅沢をねだることもなく、アデルは毎日毎日、言われたとおりの勉強をこなした。すぐにでも二人の役に立ちたかったから、学校へは行かず、独学で経済や経営論を学ぶ日々。当時は多くいた使用人と暇をつぶそうとか、屋敷を抜け出し街へ遊びに行こうなどとは、不思議と考えたことがない。孤独な時間をつらいと思うことすら、とうの昔に忘れてしまった。ただいつか努力を認められ、父の待つ世界へ自分の手で漕ぎだす夢をいつでも胸に抱いていた。
中庭の薔薇もパレ・ブルトンも歴史や神話の書物らも、そんなアデルを褒めるでも咎めるでもなく、ものも言わずに見守り続けた。そして結局、アデルがただの一度も「未熟な一人息子」以上の扱いを受けぬ間に、両親は帰らぬ人となってしまったのだ。
あれから数年、どうにか屋敷を守ってきたけれど、なにぶん彼の手は小さすぎた。日に日にかつての栄光を失うメフシィ家を、使用人たちはひとりまたひとりと見限り去ってゆく。受け継いだはずの豪商としての矜持や誇りをもはぎ取られ、溜息とともになにもかもを諦めたのはいつの日だったろう。冬の死を待つ蝶のような、冷えきった絶望に身を浸していたアデルにとって――あの心やさしいはじめての友人は、リュシアンは、ようやく見つけたただひとつの希望であった。
(今度だってこうして休ませてくれた。僕を支えようと必死で努力してくれている……。彼に報いるためにも、はやく良くなって、店へ戻らなくては)
少し眠って気分を休めようと、再び布団をかけ直す。身じろぎした拍子に、ふと下階のやりとりが聞こえてきた。
「……ああ、おれがもらうよ。ええっと、3、4、5で銀貨がひとつ分になるから……はい、これがおつり。どうだろう、計算に間違いはないね?」
リュシアンの声である。少し手間取り気味だが、何度も確認しながら丁寧に会計をしている。この様子だと、売れたのは先日仕入れたシルクの刺繍入りスカーフだろうか。思っていたよりもずっと、リュシアンは立派に店番ができているようだった。
すばらしいことだ。
なのに、この胸のざわめきはなんだろう。
「ええ、合ってるわ。今日はあの、黒髪の人はいらっしゃらないのね」
「どうも体を弱らせちまったらしくてね、朝から寝込んでるんだ」
「まあ、かわいそう」
「でもあんたと沢山話ができるのはいいわ。きれいだけど、ちょっと怖いんだもの、あのひと」
「ねえねえ、今日、リュスに会いたいって子を連れてきたの。あたしの工場じゃこの店有名なのよ。ほら、こっち来て、ちょっと話してあげてよ」
「わわ、おいおい……だめだよ、おれ、アディの分もちゃんと仕事しなくちゃ……」
「わかってるわ、帰りにちゃんと買い物するもの、ねえ?」
指先まで凍ったように動けなくなっていた。
彼女たちはどんな顔で、リュシアンと話しているのだろう。リュシアンは彼女らについていくのだろうか。ほかのお客とももう、僕より親しいのかしら、リュシアンは、リュシアンは――ああ、待ってくれ、僕を置いてどこへもいかないで!
眠気など、とうにどこかへ吹き飛んでいた。声は聞こえているのに、この寒々しい部屋が、この世で一番孤独な場所のように感じる。計算書きの古紙を握る手が震えている。ひとりきりの部屋では、ほかにすがるものもなかった。
――あげない、だれにもあげない! あれは僕のだ! ようやく手に入れた、僕だけの光だ! もう絶対に手放さない、二度と奪わせない。これだけは取りこぼしてなるものか。店も、リュシアンも、僕のものだ! ほかのだれにもさわらせるものか!
胸の奥がぐらぐら燃えるようだった。熱くて、寒くて、息が苦しい。吸いこむばかりの呼吸が辛くて、また涙が滲みそうになる。はやくそばへ来て、あの日のようにきつく抱きしめてほしい、この僕を! 君に出会うまで知らなかった熱病に、ひとりきりでうなされ耐えろだなんて、だって、あんまりひどいじゃあないか。
客とリュシアンとの談笑が響くたび、アデルの心はかき乱された。愛しいあの軽やかな笑い声が響くたび、自分のことを忘れてしまったのではないかと不安に息が詰まる。
一睡もできないどころか、布団の中で指一本すら動かせないままに、無限めいた時をアデルは耐えるほかなかった。
ようやく階段を上る音が響き、部屋の扉が開いた。近隣の店も昼食休みの時間になったのだろう。
「ごめんよアディ、いま店を閉めた。様子くらい見に来てやれればよかったんだけど、お客の相手で手一杯で。具合はどうだい?すこしは良くなったかね」
うまく職務を果たしきって安心したのか、ふうっと長くひと息吐いたリュシアンは、友人の顔色を伺おうと黒髪を優しくかきわける。
静かに身を横たえ、眠っているかに見えたアデルは――今にも泣き出しそうに瞳を潤ませ、頬を真っ青にしている。リュシアンは驚いて、思わずベッドから飛び退いた。
「大変だ、朝よりずっと苦しそうじゃないか! なあ、やはりお医者に診せたほうがいいよ、おれ、すぐに先生を呼んでくるから――」
「いや! どこへも行っては!」
泡を食って今にも飛び出しそうなリュシアンを、アデルの鋭い声が遮った。
「……アディ?」
「不安、なんだ。僕は……とても耐えられない」
ひどく思い詰めた、懇願するようなヘーゼルの瞳。
なぜだか急に足元が崩れるような感じがして、リュシアンはふらりと後ずさった。
「――――不安?」
「君のいないのが」
ばくばくばくと、搾られるように痛かった心臓が、急速に落ち着いていく。ええっと、つまり、単純にアデルの「不安」っていうのは。
そこまで思い至ってやっと、病身の彼が寂しげにズボンの裾を掴んでいるのに気づく。
「どうか、そばにいてほしいんだ……」
「そ……そうか、そうだよな! いや、弱って心細いときに、構ってやれなくてごめんよ。おれはここにいるから、安心してすこし眠るといいよ。目がさめるころに昼飯を用意しておくから」
リュシアンは慌てていつもの笑顔を見せた。斜めにずれていた布団を抑えてやると、ようやくアデルもわずか頬を緩める。考えてみれば当然のことだ、幼い妹たちだって、風邪をひいたときは不安からしきりに自分を呼びつけるじゃないか。なんだか年上の友人が可愛らしく思え、もう一度髪を撫でた。
ただ、あのほんの一刹那、なにか底無しのおそろしい気持ちが胸の奥底に宿ったことを、ずいぶん長い間、リュシアンは忘れられずにいたのだった。
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