服飾店ル・ブランの斜陽

第15話

「メルシィ、ボン・ジョルネ! またな! ありがとう!」

 開店からひと月も経とうかというころ。

 彼らの服飾店ル・ブランは、無事にモントルイユの街へ受け入れられようとしていた。人懐こいリュシアンは勿論のこと、センスのすぐれた硬派で寡黙な青年として、アデルも好意的にみられているようだ。一度訪れた客の多くが雰囲気を気に入り、常連となってくれたことで、店はいつでもそこそこの賑わいを見せていた。

「ふぅ、こんなところか。日も落ちたし、今日もそろそろ店じまいかな」

「ああ」

 ただ、ここのところ――リュシアンにとっては、また少しばかり困ったことが起きていた。


「アディ。古着を繕い直してくれって、これだけ預かってるんだけど……」

「わかった。そこに置いておいてくれ」

 アデルが向かう文机には、いろんな帳簿や手紙がどっさり積まれている。今開いている紙束は在庫品の確認表で、今日売れたもの、釣り銭の間違いがないか、儲けがどれだけ出たかなどを同時に検算していくらしい。それが済んだら新しい品物の発注、利益の計算をしてから値札をつけたり、洋服の入れ替えの判断をしたりするのも、すべてアデルが担っている。当然、ここに山積みの古着を修繕するのも彼だ。

「いくらなんでも働きすぎじゃあないのかい」

 リュシアンはたびたび友人を心配し、なにか手伝えることはないかと申し出た。しかしアデルの手が止まることはない。慣れているから大丈夫、もうひと区切りだから。そもそも最近文字を覚えたばかりのリュシアンに、手伝えることなどいくらもない……等など、ぐうの音も出ない至極もっともなことを懇々と。そして結局、こんな調子の言葉で締めくくられるのだ。

「君はいわゆる出稼ぎの身なのだし、慣れない生活で疲れているだろう。あとのことは僕がしておくから、先に眠っていてかまわない。なに、すぐに済むとも。ある程度かたがついたら、僕も休むから心配しないで」


 そんな日が、たまにあるのならいい。だが、こう毎度同じやりとりが繰り返されていれば、いくらもしないうちに歪みも表れようというものである。

 ある朝、リュシアンが起床したとき、アデルはまだ布団にくるまっていた。身支度を済ませ、朝食の用意を始めても、ちっとも起きる様子がない。「アディ?」と声をかけて、窓を開けてみる。アデルはううっと低いうめき声とともに、わずかに身じろぎした。

「おはよう、アディ。朝飯もうできてるぜ。じき店を開ける時間だけど、起きないのかい」

「ん、ん……。もう朝かね。すまない、すぐに準備するから……」

 身支度をしようと、アデルが緩慢にベッドから起き上がる。しかし、

「あ……っ」

「アデル!?」

 足元がふらつき、倒れ込んでしまう。幸いすぐに気づいたリュシアンが、正面で受け止めることができた。珍しく寝ぼけているのかと思ったが、どうも様子がおかしい。

「大丈夫かい? ひどくふらついたようだけど」

「平気だ……少し、めまいがしただけ……」

 そう答えるアデルはしかし、ちっとも平気ではなさそうだった。頬や唇から血色が失せ、目の下の隈が無視できないほどに濃くなっている。声にも張りがなく、呼吸が苦しげだ。ぐったりと力の入らない体はやけに重たく感じて、リュシアンはあわてて彼を抱え直した。

「なあ、どこか、悪いんじゃあないのかい。とても苦しそうだ、すぐお医者を呼ばなくちゃ」

「いいったら。これくらい、なんともない。仕事は普段通りに……」

「だ、だめだよ!」

 郵便夫を首になった日のことを思い出す。あの日の彼もこんな風に無理をして出かけて、結果行き倒れたのだ。自分ならまだしも、華奢で繊細な友人が同じ目に合おうとするのを、黙って見過ごせるリュシアンではない。

 半ば無理矢理に布団の中へ押し戻す。両肩をベッドへ縫い止めると、拍子抜けするほど簡単に、アデルはそこへ収まってしまった。抵抗といえば、弱々しく首を振ったことくらい……さすがに不安になったリュシアンは、優しく、しかし強い説得の口調で言った。

「きっと、がんばりすぎて疲れているんだ。お医者に診せるかどうかはともかく、今日はゆっくり部屋で休んでいたほうがいい。きみにもしものことがあったらと思うと、おれはたまらないんだ」

「けれど……店が……」

 目をうるうるさせたアデルがうわごとのようにつぶやく。

「いま、せっかく街で話題になって、客足が増えているんだ。このタイミングで僕が休んでしまっては……」

 北フランスの人々は基本的に呑気で、店主が気まぐれに店を閉めたって誰も構やしないのだが、少なくともアデルにそのつもりはないらしい。

 頑なな様子にしばらく考え込む。次の瞬間、リュシアンは決心したように顔をあげた。

「なあ、アディ。だったら今日の店の仕事は、おれにすっかり任せてくれないか」

「えっ……?」

 すっかりって、と言ったきり、アデルは目をぱちぱちさせてリュシアンを凝視した。

「そのままの意味さ。きみがいつもやっている、金の受けわたしとか、店にあるものの数を数えたりとか……しなきゃならないことはおれがぜんぶやる。だからきみは、今日一日は安心して休んでいてほしいんだ」

「そんな! 馬鹿を言え。だって、君……」

 おどろいてベッドから跳ね起きるアデル。口をぱくぱくさせて、できるだけリュシアンを傷つけない制止の言葉を探しているようだった。リュシアンはその隙を逃さず、すばやくベッドの脇に手を突っ込んだ。

「ほら、見てくれ!」

 取り出されたのはぐしゃぐしゃの古紙の山。そのすべてに、下手くそな計算式が所狭しと並んでいた。不器用にインクだまりや書き損じのあとが残る、紛れもないリュシアンの文字である。

「……これは」

 自分たちの力で稼ぎ、自由になった金で、リュシアンはひそかに古紙を買いためていた。

 アデルが帳簿に書いている内容や、かつて少しだけ教わった計算のやりかたを、思いつくままに書きつける。覚えたばかりの文字や数字は、読むにも書くにも骨が折れたが、遅くまで机に向かうアデルを思えば、投げ出す気にはなれなかった。

「これ……ひょっとして、僕が眠ったあとに?」

「きみをすこしでも楽にしてやりたくて、おれ、たくさん勉強したんだ。今はもうほとんど間違えなくなった」

 夜明け前に起き出しては、何度も何度も愚直に練習を繰り返してきたのだ。インクの乾きが浅くなるにつれ、たどたどしいながらも着実な進歩の跡が見える。アデルは透き通った瞳を揺らし、紙束をきゅっと抱きしめた。

 リュシアンの両手が、再びきつくアデルの肩を捉える。

「なあ、おれにやらしてくれよ。困ったことがあったら、支え合うのが友だちだろ。

 おれのことを大事に思ってくれるのは嬉しい。でも、きみがほんとうにつらいとき、何もできないなんて嫌なんだ。おれ、きみみたいに賢くないけど、頼りにならないかもしれないけど……きみが一人で苦しんでいるのに、寄り添うことさえできないなんて……そんなの……そんなの、おれ……」

 脳裏には、ブローニュを出た日の友人の姿がこびりついていた。壊れそうなほど強くその身を抱き、青ざめ震えていたアデル。リュシアンは彼の怯えのわけを、今でもまったく知らされていないのだ。そしてその理由を、自分の人間的信用が薄いせいだと、すっかり信じ込んでいた。

「リュシ……」

 透明な眼差しが、真っ直ぐにリュシアンを見上げる。とうとう言葉に詰まってしまった彼の頬を、アデルはなだめるように優しく撫でた。

「……わかった。店を、すこしだけ君に託そう。

 思えば僕も焦っていた。夢が叶ったのと充実感とで、ひとりで何でもやろうと躍起になっていたのだね。

 リュシ、僕のために…………ありがとう」

 頬に、ほんの少し赤みが戻っていた。アデルは古紙を抱いたまま、照れくさそうに微笑んだ。「けれど、何かあったらすぐに僕を呼びたまえよ、僕のからだはまったく平気なのだからね」と、口早に付け足して。

 リュシアンの顔にも、ぱあっと喜びが花開いた。

「うん、うん! 万事、うまくやるよ。任せておけ!」

 思いが通じたのだ、と思うなり、ずっと背負っていた荷物がほどける思いがする。

 そうして彼は足取りも軽く、店への階段を降りてゆくのだった。

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