第13話

「ええと……『服飾の店。紳士服・婦人服、ともにあります。古着の仕立て直しも……』う……うけ、た、まわり……ます?」

 たどたどしく文言を読み上げたリュシアンに、アデルはにっこりと微笑みかけた。

「そう、合っているよ。すごいじゃないか、かなり正確に読めるようになっている」

 日向色の髪を撫でてやると、年下の友人が照れ臭そうに笑って身をよじる。看板屋にすこし多めの金を握らせ、アデルは満足げに呟いた。

「ありがとう、ムッシュー。まったく想像通りの、すばらしい出来だ」

 彼らふたりの店、《ル・ブラン》。洒落た金属製看板を店先に戴き、もう開店は目前だ。


 *


「作業台は奥へ移動させてくれ。そうだね、タイやブローチを並べる飾り棚を中央へ置こうか。分類はおおまかに左手に婦人服、右手に紳士服を……ああ、ショウケースからはどちらも見えた方がいいだろう。陳列はこのように……」

 大工と家具屋にてきぱきと指示を出しながら、アデルは部屋の中を忙しく歩き回っている。今持っている全体の見取り図は、ずっと考えていた案を自分で絵に描いたのだと、屋敷から移る前に聞いていた。ここのところ急に脅えたりへそを曲げたり、様子が妙だった彼だが、今日は生き生きとしている。仕事が楽しいのだろうか。とにかくアデルが元気になったのならなによりだ、とリュシアンは思った。

 ところでそのリュシアンがどうしているのかというと、大わらわの様子を端からぼうっと眺めている。

「力仕事なら任せてくれ」と張り切っていたのだが、針金製のトルソーを二台続けてだめにしてしまってから、やんわり手伝いを拒否されたのである。手持ち無沙汰で、しばらく勝手に掃除をしたり整理をやってみたりしたのだが、どうも邪魔になっているようだったので諦めた。貧乏暇なしで常に走り回っていたから、働く人を指をくわえて見ているだけというのは、少々居心地が悪い。

(アディ、かっこいいなあ……)

 ヘーゼルの瞳をきらきらさせて、アデルは見事に現場を取り仕切っていた。街へ越してきたあの日はどうなることかと思っていたが、堂々と指揮を執る姿はやはり、あこがれ、尊敬する「旦那さま」だ。

(頭はいいし、絵も描けて、それから服の設計も縫製もするんだったっけ。すごいなあ、アディはなんでもできるんだ)

 そんな彼が「はじめて」の友人に自分を選び、今こうして一緒に商売をおこそうとしている。そう考えると、どうにも不思議な気持ちになった。


 そんなことを考えているうちに、おおかた中の設営が終わったようである。

 手伝いの人員への謝礼を済ませ、ようやく合流してひと息つく。店内は床も壁もきれいに塗装され、丁寧にやすりがけされた木のコートかけや陳列棚が行儀よく納まっていた。

「ずいぶん店らしくなったなあ。あとは、屋敷にあったドレスやなんかを詰め替えるだけかい?」

「いや。ほとんどのものをその筋の仕立て屋に頼んで、廉価で買えるよう作り直させている」

 アデルは作業台の奥から木箱を持ち出し、蓋をあけてみせた。仕上がりの確認用として先に受け取ったものらしい――確かに、木綿などでできたシンプルなシャツ類が多い。屋敷にあった色鮮やかなシルク地のドレスは、買い求めやすい小物に加工したのだという。

「物好きな貴族が喜ぶコレクションと、工場街で売る普段着ではわけが違うからね……市民にとって、できれば、そう……を。デザインも質も、あと一歩踏み込めば手がとどくくらいのものを置きたいんだ。ボン・シック・ボン・ジャンル――フランス人なら、そのわずかな一歩を惜しむはずはないだろう」

「へえ……」

 乱雑に詰め込まれていた服を、手早く畳んでは仕分けていくアデル。感心しながらながめていると、「そうだ、それから君」とふいに声がかかった。

「仮にも服飾を扱う店で働くのだから、それに相応しいきちんとした身なりをしなくてはだめだ。どれ、僕が適当なものを見立ててあげるから、そこにじっとしていたまえ」

 言われて顧みれば、現在彼は丈の合っていないズボンに、お下がりでもらったシャツをただ着ただけの格好である。リュシアンが返事をするのも待たず、アデルは木箱の中身を探り始めた。

「ふむ……そうだな、せめて上着にベストくらいは合わせなくちゃ。君は髪が金だから、暗い色を持ってくると締まる。……これだけだと少しそっけないかしら……襟の形を違うものに取り替えて……あと、さし色にスカーフかなにか、あったほうがいい。クラヴァットよりこちらの方が身軽で君らしいか、君、よく動き回るだろうし……」

 ああでもない、こうでもないとぶつぶつ呟きながら、次々にいろんなものが持ってこられる。リュシアンから見ればなにが違うかさっぱりわからないのだが、アデルは迷うことなく、代わる代わるに新しい服を選びとっていく。

 ふと、リュシアンは途方も無いような感覚に襲われた。先日自分が言った言葉を思い出していたのだ。「たくさん勉強して賢くなって、きみとほんとうに対等な友人になりたい」――。もちろん、そのつもりだ。この美しくて気高い友人のためなら、どんな大変なことでもがんばるつもりである。しかし、いつまで? おれがアディの考えを全部わかるようになるまで、一体どれくらいの時間がかかるのだろう……。

「……リュシ?」

 タイの色を合わせようと首に手を回していたアデルが、心配そうにこちらを覗き込んでいる。どうやら、何度も呼ばれていたのに気がつかなかったようだ。

「……ああ、ごめんよアディ。なんだい?」

「いや……なんだか君、いつもの元気がないようだから。どこか悪いのかと思ったのだけど……平気かね? 少し、疲れてしまった?」

 しゅんと眉を下げ、本気で身を案じてくれている様子がいじらしい。リュシアンは思わず吹き出してしまった。

「あはは! 違うよ、なんでもないんだ。今日のアディはえらくご機嫌だなあと思って、ちょっとぼうっとしていただけさ」

 そう答えると、アデルの頬がぽっと薔薇色に染まった。視線をうろうろとさせながら、彼は恥ずかしそうに口もとを覆う。

「僕……そんな風に見えていた?」

「照れることはないじゃないか。店を開くの、夢だったって言っていたもんな。てきぱきしてて、かっこよくて、今日のきみはすごくすてきだよ」

 いつものように絶えずほほえみ、きちんとそこまで言い切ったはずだった。

 だから、続いて漏れ出た「ただなあ」という低い声に自分で驚いてしまったのだ。

「……ただ……おれ、ようやく仕事できみの役に立てると思ったのに……。結局、なんにもできなかったや。それが、ちょっぴりとだけ――悔しいかも、なあ」

 悔しい――。

 そうか、おれは悔しかったのか。言葉にすればたちどころに、ずっとくすぶっていた微妙なわだかまりが腑に落ちた。

 きちんと役に立って、自分が信用に足る男だと、早くアデルに認めてもらいたい。このむずむずするような感じは、焦りやもどかしさから来ていたのだ。

 アデルが目をぱちくりさせているので、リュシアンはあわてていつもの調子を取り戻した。

「いや、その、ごめんな。こんなこと、きみに話しても仕方がないんだけど……」

「ああ、リュシ、あいくるしい僕の小鳥!」

 言い訳を最後まで終える前に、リュシアンの喉が勢いよく遮られる。珍しいことに、アデルの方からぎゅっと抱きついてきたのだ。

 愛おしくてたまらない、というように髪を頬を撫ぜ、慈悲の色にうるんだ瞳で微笑みかけられる。

「僕はそんなことちっとも気にしないのに!

 大丈夫。読み書きだって、少しずつ出来るようになっただろう? 仕事のことも洋服のことも、ひとつひとつゆっくり覚えていけばいい。これからはずっと僕がついているのだから……それに僕は、君が隣にいるだけでしあわせなんだ。無理をしてなにかする必要はない、きもちだけで充分だよ」

 玉のような頬を首筋にすりよせ、アデルはとびきり甘やかに囁きかけた。

「ふたりでこの店を、すばらしいものにしようね?」

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