第12話
(あんなに明るく笑うリュシは初めて見た)
埃っぽいベッドがきしりと音を立てる。アデルの住んでいた屋敷とは比べ物にならないほど、質素な部屋。しかし「見てくる」と言ってあの場を飛び出したくせに、アデルの瞳にはなにも映らない。否、視界には入っていても、頭が処理してくれないのだ。
――あの青年がアデルひとりだけのものだと、どうして勘違いをしていたのだろう。
美しい衣装や財産を持たないかわりに、思えば彼はアデルにないものすべてを持っていた。人好きのする朗らかな笑顔、話術、健康で逞しい体……家族。仲間。そして、アデルの他の多くの友人。
孤独な夜にひとりだったアデルは知らなかったのだ、その光が太陽であったことを。星は海へ帰る。リュシアンも同じように、愛にあふれたあたたかな帰る場所を持っているのだ。たったそれだけのことを、想像すらできずに舞い上がっていた。なんと愚かなのだろう。あんな天使のような青年を、世界が愛さないわけがないのに。彼にはリュシアンだけでも、リュシアンにはいくらでも他の友人がいるというのに。
青ざめていた頬が、今度は赤く燃えあがる。じわりと熱いものがこみあげてきて、アデルは柳眉をきゅうとゆがめた。はずかしい、はずかしい、消えてしまいたい。それでは僕はなんのために、すべてをなげうってここまで来たというのだ。
「……アデル!」
リュシアンの声がして、アデルはとっさに顔を背けた。こんな、フランス紳士として相応しくない表情を彼に見せるわけにはいかない。アデルの心は不安と屈辱と絶望と、なんだかよくわからない醜いものでぐちゃぐちゃにかき乱されていた。
「アデル。あのなあ、さっきみたいな態度は――」
「彼らとの話はっ、……もう、いいのかね」
普段どおりのつもりの声が、ひどく震えて刺々しい。虚を突かれたのか、二の句を継げないリュシアンへ、ぽつりぽつりと懸命に言葉を繋いだ。
「べつに、今からあちらへ戻って、彼らと……話を続けてもらって、かまわない。僕のことは気にしないでいい……」
なぜこんなにも、胸が苦しく、身体じゅうが熱いのだ。喉の奥がつぶされたように痛い。声は潤み、いっそう震えが隠せなくなる。
「いいって――そんな、アディ」
いつもより少し強い調子だったのが、わかりやすく勢いをなくしていく。リュシアンはすっかりおろおろとしながら、彼の顔を覗き込もうと身をかがめた。
「イレーヌさん達は、久々に会ったおれがめずらしいので声をかけただけだよ。そんなことはもういい、きみ、ぜんたいどうしたんだね? アディ、ほら、こっちを向くんだ……」
「よしてくれ、君には関係ないっ!」
一度屋敷でそうしたように、彼はリュシアンの手のひらをはねつけた。幼い子供のように、心の中がいっぱいいっぱいになった自分を見透かされたくなくて、アデルは頑なに唇を噛んだ。さびしいのに、ひとりになりたい。このうつくしい友人に、澱みきった胸の内を知られることより、みじめなことはないと思った。
リュシアンは打ちのめされた表情で――このとき、アデルは彼の表情を見ていなかったけれど――払われた手を見つめた。
沈黙が広がる。ぎいい、と低い音がそれを切り裂いて、ベッドがもうひとりぶん沈んだ。
「……そうか。きみにとってはまだ、おれは……すべてを晒せる友だちとしては、頼りないのだな」
ためらいがちに吐き出されたリュシアンの声は、ひどく弱弱しく、寂しげだった。
はっと振り返ろうとするも、かなわない。こつり、と背中に重みを感じ、続けて暖かさ。首すじ近くの背に額を預けられているのだと、吐息の温度で察する。
「覚えているかい、約束をした日のこと。『旦那さま』でなくて、アデルと呼んでいいと言ってくれて……うれしかったんだよ。生まれ育ちの垣根を越えておれたち、すばらしい友人になれると思った……」
たぶん、彼の言葉に偽りはない。いつでもそうだ、出会ったときからリュシアンには、いっさいの虚飾も不誠実もなかった。
「おれ、がんばるよ。これからたくさん勉強する。仕事も真面目にやるし、むずかしい計算だってなんだって、きみのためならできるようになってみせる。そうして、おれが賢くなって、ほんとうの意味できみと対等になることができたら、そのときは……」
そこでリュシアンは少し言葉を切った。落とした視線の端で、薄いシーツにくしゃりとしわが寄っていく。
「……そのときは、おれと、ほんとうの友だちになってくれるかい? おれを信じて、ふりむいて、きみの素顔を見せてくれるかい」
(――なぜ、)
アデルにはわからなかった。なぜ。君には、愛してくれる家族や仲間がたくさんいるのだろうに。僕のような、取るに足りない、ただのちっぽけな男ひとりのために、どうしてそんなに悲しそうなのだ。どうしてそんなに一所懸命になる。どうして、僕のために、君はそこまで言ってくれるのだ。
薄汚れた青年の魂の奥の、まぶしいほどの純潔をこそアデルは愛したのに、今はただ、その途方もない
それでも、焦がれるほどに彼が愛しい。心が身体を置いていくのだ、理屈や不安、見せたくないもの、全部投げ出して彼が好きだ。持て余すほどの莫大な情動。こんなもの、知らなかった。
「リュシ――――僕、」
半ばうわごとのような呟きは宙ぶらりんのまま、キスに吸い込まれた。
僕も君を愛してる、と咄嗟に言えなかったのは、愛というのはもっと尊くて、疑う余地もなく美しいものだと思っていたからだ。
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