第11話

 モントルイユへ到着したのは、すっかり陽が落ちた後だった。


 出稼ぎ労働者たちの帰り支度も済んで、人通りもまばらになり始めている。ふたりの新しい住居の隣家――床屋トレゾール氏の実家、つまり彼らの大家にあたる――で掃き掃除をしていた中年の女が、リュシアンを見るや素っ頓狂な声をあげた。

「あれまあ、リュシアン! さっき別れたところだっていうのに、また戻って来たのかい!?」

「あー……あはは」

 リュシアンは困ったように笑い、ちらっと横目でアデルを伺い見た。彼とて、この不可思議なとんぼ返りには不満も疑問もあったのだが、一も二もなくこの隣の友人に従わざるを得なかったのである。

「ちょっと……いろいろとあってなあ。月末からって話になってたところ悪いんだけど、今晩から部屋を使わせてほしいんだよ。大きな荷物なんかは後から運ぶから、寝床だけでも借りられると、ありがたいんだけど」

 アデルが何も言わないので、仕方なくリュシアンがぼんやりした説明を試みる。

「急にそう言われてもねえ……」と渋る彼女に、腰を低くして頼み込むところまで、みんなやってあげた。アデルは屋敷からここへ至るまで、本当に何もあてにならない状態だったのである。

 無言のまま急ぎ足で進んだかと思えば道を間違え、少しリュシアンの姿が見えなくなっただけで半狂乱で彼を探し。急に屋敷を出ると言い出したこともそうだが、どう見ても彼の様子は異常だった。

「ううん、まあ、あんたには世話になったし……減るもんじゃないからねえ。掃除がまだ済んでないけど、それでも良けりゃあ」

 ようやく望み通りの言葉を引き出せると、リュシアンはぱあっと顔を輝かせた。

「もちろん! メルシィ・マダム、やっぱり持つべきものは親切なおかみさんだよ!」

 いつもの調子で頬にキスを贈る。おかみも満更ではなさそうだ。この要領で頼みごとをすれば、大体の要求は――こと、女性に関しては――通ってしまうというのが、彼の一種の処世術だった。


「あらっ、リュスじゃない! 聞いたわよ、こっちへ引っ越すんですって?」

「近ごろ配達に来ないから心配したんだぜ。きれいな格好をして、見違えたなあ!」

 買い物帰りの若い夫婦が、親しく声をかけてくる。リュシアンも笑顔で挨拶を返した。このあたりは長らく配達担当区域だったので、住民のほとんどが彼とは顔見知りなのだ。

「イレーヌさんにシャルロ兄さん! 二人とも達者なようで何よりだ。ところで、どうだね、じいさんは?」

「それが参っちまうよ、もう歳だから店を畳むって話だったのに、やめた途端すっかり元気になりやがってさ……」

「ははは、そりゃあいい!」

 陽気で話し好きな彼らといると、話題は尽きない。ひとしきり盛り上がったところで、イレーヌ夫人がふと尋ねた。

「ところで、そちらの殿方ムッシューは?」

 そう言われてようやく、リュシアンはアデルの存在を思い出した。あっ、と言って、斜め後ろの友人の肩を抱き寄せる。

「いかんいかん、紹介が遅くなったな。こちらはアデル。おれの友だちで、店に誘ってくれた恩人なのだ。ごらん、くらっとするくらい、いい男だろう?」

 女性らからうっとりとした溜息が漏れる。宝石や美人の嫁さんを見せびらかす男は皆こんな気分なのかしらと、リュシアンはふと思った。

「まあ、きれいな人!」

「この頬の紅さ! ほんとう、まるで天使様だわ!」

 自慢の友人の容姿を褒められ、リュシアンは嬉しかった。得意な気持ちでアデルを振り返り、今度はおかみや夫婦のことを紹介してやろうと口を開きかけ、

「さ、アディ。彼女たちはこれから世話になる――」

「いくらだね」

 そして、唖然とした。


「……え?」

「家賃だ。ひと月にいくらあればいいのかと聞いている」

 にこりともしなかった。皆、和やかに彼らを受け入れようとしているというのに……実際、愛想の欠片もない彼の態度に皆呆然としている。

 場が静まり返っていると、アデルは眉をちょっとぴくりとさせ、つかつかとおかみに歩み寄った。

「もし? 貴女に訊いたのだけど、マダム? 貴女が家主なのだろう?」

「あ……ああ、えーと、そりゃあ……月にだいたい7フランってところかねえ……」

 面食らったおかみはもごもごと何か続けようとしたが、アデルはそれすら待とうとしなかった。懐から銀貨をいくらか取り出し、有無も言わさず彼女の掌へ流し込む。

「前払いだ。半端は今日から月末までの分、取っておきたまえ。僕は部屋を見てくる」

「おっ、……おい、アデル!?」

 もう用は済んだとばかり、くるりと踵を返すアデル。あまりのことに思わず声をあげたが、アデルは構わずさっさと部屋へ入ってしまった。


 豆鉄砲を食った鳩のようにぽかんとしていた若旦那が、一拍遅れて烈火の如く怒りだす。

「な、な、な――なんだい、なんだい、あれ! あんな無礼な男が本当におまえの友だちなのか!?」

「ご――ごめんよぅ、あまり怒らないでやってほしいんだ。ちょっとぶっきらぼうなだけの、優しいやつなんだが……妙だなあ、あいつ、普段おれとふたりのときはあんなじゃないのに。今日はなんだか様子が変なんだよ」

 非礼を代わりに謝ってやりながら、リュシアンも頭をひねった。確かに考えてみれば、もともと少しばかり口下手で不調和のきらいがある彼だったが、こんなに露骨に誰かを突き放すような態度は初めてである。

「新しい街に来たので、気を張っているのかしら」

「あんなにいい男なのにねえ……」

「ええいっ、おまえたちもなんだってそんなに奴に甘いんだ! まったく、これだから女ってやつは!」

 幸い女性らは驚きこそしたものの、気分を害したわけではないようだ。若旦那シャルロット――通称「シャルロ兄さん」はまだぷりぷり怒っているが、まあ彼もそう悪い人間ではない。時間をかけて、じっくりアデルの人となりを分かってもらうほかないだろう。

 それにしても、今日のアデルはまったくどうしたというのだろう。今までのように屋敷に籠っているならまだしも、店を開くとなれば、町の人とはとりわけ仲よくやっていかなくてはいけないのに。

 もしも、ずっとこんな調子だったらどうしよう――頭の片隅に浮かんだそんな不安を、リュシアンはいつもの悪癖でぐいと奥のほうへ押し込んだ。

「うん、だれにだって気分や調子の悪い日はあるものな! わかってるよ」

 誰にともなく、リュシアンは自分に言い聞かすようにひとりごちた。

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