第10話
遠い昔の冒険譚に出てきた隻眼の海賊。
アデルから見た山高帽の男――ワルテール氏の印象を簡潔に表すなら、最も近いのはそれだろう。
客間へ上がりこむと、氏はアデルの許可さえとらずに煙管をふかし始めた。かなへびめいた、細く開いた目が、こちらを値踏みするかのようにじろじろと眺め回してくる。濁った瞳の色に絡め取られてしまう気がし、アデルは知れず唇を噛んだ。
きっと表情を作り、背筋を伸ばす。あくまで対等であり続けなくては。もとは父の取引相手だから、文字通り親と子以上に年齢が離れている。
隙を見せ、つけ込まれたら、詰みだ。
「君らの用件はわかっている。僕の父フェリクスの負債の件……でしょう、そうだね?」
ワルテール氏は船貸し業の元締めであった。他国への輸出入品に対する税関の役割も担っており、父は出かけるたびに彼へ書状を書いていたらしい。どうもきな臭い噂が絶えず、怪しい薬や植物の密輸に一枚噛んでいるとかいう話は、かつての使用人から聞いたのだったか。とっさに海賊を連想するのも道理である。
アデルは金庫から取り出した袋をゆっくりと彼に差し出した。土地屋と質屋から先に受け取っておいた、屋敷を含むほぼすべての財産を売って作った大金である。
「約束の金額はこれですっかりだ。今日限りで、僕は父の借りをすべて清算する」
そう宣言すると、アデルは数歩下がって沈黙した。ワルテール氏は袋を部下らしき男に預け、慣れた手つきで中身を改めている。紙幣をめくる音だけが響く客間。ひどく喉の渇きを感じ、アデルは唾を飲み込んだ。
静かだ。最後の一枚を数え終えた氏の、ひび割れた唇が開く音さえ、いやにはっきりと響く。
「お父ちゃんは、せがれに金勘定のやりかたも教えずにおっ死んだらしいな?」
「な――!?」
冷たいものが背筋を伝い落ちる。ぴりぴりと全身にしびれが走り、あの不安が不気味な火花となって目の前で弾ける。
「嘘だっ……契約に間違いはなかったはず、返済はきっかり3000フランでいいって!」
「さんぜんン?」
ワルテール氏の眦がつり上がった。
「そりゃあ奴に貸した船の値段だ!あれから何年経ったと思ってる、え?返済待ちの利息分、手間賃、それと坊がああだこうだ理屈付けてお預けされた分も合わせてみろ、たったの3000フランで済むはずあるかよ!」
おい!と後ろの男を呼びつけると、用意させた紙切れに氏は何やら書き付けた。
父の筆跡でサインされた、古びた契約書。その下に踊る乱暴な計算式と数字――
「そ、んな…………!無理だ、払えない!」
「無理もなにも払うものは払ってもらう。なァに3000フランが作れたブルジョワ様だ、これくらい簡単だろう?」
「とんでもない……屋敷を手放したんだぞ?売れるものは皆売って、それでようやくこれだけ作ったのに……!」
隙を作らず、堂々とあろう。そう心がけて保った平静は、今やあえなく崩れ去った。俯き、青ざめた顔で震えるあわれな青年に、打てる策はもはやなかった。
「こんなことがあるから、ちゃんとママンには教わっとくべきだったなァ。売るものがなァんにも無くなったあと最後に売るもの、の話だ」
知れず口もとを覆っていた手を、不意に掴まれる。はっと顔をあげれば、氏はアデルの眼前まで迫っていた。もう片方の手も既に封じられている!――アデルはおぞましいものを見る目で氏の顔を凝視した。
「なァ、まだわからんかね、
――あんただよ。その器量なら、上手くやれば相当高く売れる。なんなら、今から味も見てやろうか?」
節くれだった指が、花色の唇をつんとはじいた。
*
「ただいま。戻ったぞ!」
リュシアンが屋敷へ戻ると、中はしんと静まり返っていた。
いつもなら、すぐにでもアデルが出迎えてくれるはずなのだが。不思議に思いながら彼を探し歩く。
客間に味を踏み入れたとき、ようやく目当ての姿を視界にとらえた。
「……アデル?」
ぼんやりと虚空を見つめていた彼は、その声でようやく我に返ったらしかった。
「来るなッ!!」
聞いたこともない、鋭い、悲鳴めいた声に、リュシアンの心臓は寸刻鼓動を止めた。
にわかには信じられなかったのだ。あれがあの、聡明で冷静なアデルの声だろうか?しかし、客間の隅でその身を抱きしめるように蹲っているのは、まぎれもなく彼である。
「アディ……アデル、アデルっ!どうしたのだい、きみ――ああ、こんなに真っ青になって!」
「……リュシ…………?」
目と目が合う。
うっすらと濡れたヘーゼルは、リュシアンを映すなり別のおそれの色を浮かべた。きつく抑えた腕の下、らしくもなくシャツが乱れている。
直してやろうとすると、強く手を弾かれ拒絶された。
「ッ!い、いや!触れないでっ!――ああリュシ、すまない、こんなつもりじゃ……僕なら平気だ、どうってことないのさ、こんなこと……」
「でもきみ、ひどく震えて」
「なんでもないったらッ!!」
またあの鋭い声だ。リュシアンは今度こそ息をのむ。「おれのいない間に何があったのだ」と尋ねることは、どうしてかできなかった。
「ごめんよ、」と、彼は何にともなく言った。そしてたっぷりの沈黙と慈悲をたたえて、次にこう問うた。
「触れてもいいかい」
「…………」
それを了解ととらえて、リュシアンはきわめて優しく彼の肩を抱いた。
「だいじょうぶ、きみはもう一人きりじゃあない。はじめの日に誓い合ったろう、おれたちはもう兄弟も同然、なにも遠慮することはないって……きみがそんな顔をしていると、おれも辛い気持ちになるんだ。きみだっておれが行き倒れたとき、助けてくれただろう?おれにも同じようにさせておくれよ。おれは今、きみのために何ができるんだい?」
ゆっくりと、噛んで含めるように話すリュシアン。落ち着かずにいたアデルの瞳がちゃんとこちらを向くまで、辛抱強く彼は待った。
「……ここを出る」
「え?」
「すぐに屋敷を出たい。今日中にでもいい、すぐに支度をしよう」
口を開くなり、アデルはふらりと立ち上がった。それこそすぐにでも身支度を始めそうな彼を、思わずとがめる。
「今日中って……いくらなんでも急だよアディ、さっき挨拶が済んだばかりなのに。きみだって疲れているようだし」
「どうかなにも訊かずに言うとおりにしてくれ、僕のことが大切なら!」
彼は本気らしかった。呆然とするリュシアンに、念を押すようにうなずいたアデルは、そのまま俯いて絞り出すように続ける。
「もう、一秒だってここにいたくないんだ……!」
うずくまって震えていた姿を思い出し、リュシアンははっとした。
「……わかった。きみの望むとおりにするよ。荷馬車の手配はあとでいいね?おれの持ちものはほとんどないから、支度はすぐに済むだろう。必要があれば手伝うから、また声をかけてくれ」
愛しているよ、と告げ、青ざめた頬にキスをする。
寝室に置いてあるものをまとめたら、それだけで彼の荷造りは済むだろう。早く終わらせてアデルの側に居てやろう。そう考えて部屋を出ようとすると、不意に服の裾を掴まれた。
「リュシ、」
それはひどく不安げな、祈るような声色だった。
「……リュシ、ねえ、きみは……たとえ僕になにがあっても、変わらず僕のそばにいるかね」
どうしてそんなことを訊くのだろう、とリュシアンは思った。逡巡する間さえなく、リュシアンは彼の手を強く握りしめていた。
「もちろんだとも!当然だよ、友なのだから!」
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