第9話
リュシアンを見送って、アデルは玄関先に佇んだまま溜息をついた。
ひとりきり、の時間が、いつからこれほど息苦しいのだろう。勿論リュシアンが配達員としてここへ通っていた頃にも、彼が待ち遠しくてたまらない気持ちはあった。けれど、それとは比べ物にならないほどの焦がれるような胸の感覚が、ここのところの彼をずっと蝕んでいる。
そう、答は明白だ。
父が集め、母が美しく仕立てた衣裳たちを並べて、自分の店を開く。ずっと長い間、それこそほんの子供の時分から、静かに密かに夢想してきたことだった。奥室のワードローブと共に埃を被っていた夢。そこへあの青年が灯をともしたのだ。
行くあてがないのなら、君もどうかと。
あの言葉は、生まれるべくして生まれたものだ。そこに迷いはない。だが――あまりにも急速に現実へ近づいてゆく夢想は、孤独だったアデルに臆病風を吹きつける。
(本当に、これで良かったのかしらん)
些か性急すぎやしなかったか。何か、重大な見落としはないのか。リュシアンが側に居れば忘れられる不安や疑念が、こうしてひとりになるたび押し寄せる。
「……いけない」
弱気な思いを、かぶりを振って無理矢理に追い出す。やらなくてはならないことは、まだ山とあるのだ。モントルイユに新しく住所を移すのだから、取引先へ手紙を出しておかなくては。店の支度が済む頃に合わせて、商品の発注も必要だ。まとわりつく不安から逃げるように、アデルは作業に没頭した。
それからどのくらい経ったのか。手紙の宛名を半分書き終わったころ、呼び鈴が鳴った。
「リュシ……!」
すばやくペンを置き、飛ぶように玄関へ駆けた。勢いに任せて扉を開ける。しかしそこで照れてしまって、ちっとも待ってなどいなかったというように、済ました顔を取り繕った。
「やあ、随分早かったじゃあないか。用事はすっかり済んだかね?」
「いいや、まだだね」
はるか上から降ってきた低い声に、刹那アデルの思考は停止した。ばかに裾の長いロングコートに趣味の悪い山高帽。――誰だ、この男は!
(しまっ……!)
動いたが、もう遅い。扉を再び閉めなおすことはかなわず、素早く割り入ってきた屈強な男らに、アデルはあえなく跳ね飛ばされた。強かに背と頭を打ち、混乱したままの脳がくわんくわんと揺れる。
「がッ…………けほ、げほっ……!」
「契約金がまだなんでなあ、ええ、
前髪を掴まれ、ぐいと無理矢理に正面を向く。気付けば鼻先ほどの距離で、男は黄ばんだ歯を剥き出した。
*
「兄貴、やっぱ騙されてンじゃねえの」
やはりアデルを連れてこなくてよかった。耳慣れた喧騒に、リュシアンは苦笑交じりの溜息をついた。
「こら、ルチオ。一家の恩人にそんな口をきくやつがあるか!」
「だって、そいつブルジョワなんだろ。しかも借金持ちときた、借金持ちのブルジョワなんざ! 友だちだか何だかしらねえけど、散々使い古しておいて、いらなくなったら捨てるつもりに決まってら。あーあ、兄貴のお人好しについに金持ちが目をつけやがった! きっと余程の悪党か、へんくつ野郎に違いねえや」
大ぶりのバゲットをもふもふと頬張りながら、ルチオはしきりに悪態をついた。これでも腹が満たされて、少しは大人しくなったのである――こうなることを見越して、先に「土産」を用意しておいたのは、リュシアンにしては知恵を使ったと思う。
「そう言うな。彼は慎重で頭のいい、優しい男なんだ。お天道様に誓って、アデルが悪党なもんか。それに、服屋はうまくいけば郵便屋よりずっと儲けられるらしいぞ。お前たちにも、もっとうまいものを食わせてやれるかも」
「ほんとぉ!?」
「ああ、ほんとうだとも!」
サンセールとフィーユが目を輝かせる。うん、末の妹たちのこういう顔が見られるなら、帰ってきた甲斐もあるというものだ。
「でも……兄ちゃん、よその町へ行くんでしょう。うちへは帰れなくなるの?」
「や。数日ごとに家へ帰れるように、話はつけてあるよ。でも確かに、今までのように毎日は厳しいかもなあ……シエル、おれのいない間はよろしく頼んだぞ?」
ひかえめにパンをかじっているシエルも、大人しいが優しくしっかりした子だ。わしわしと頭を撫でてやると、隣のルチオがいっそう不機嫌な顔になった。
「そういえば、マルグリットが見当たらんな」
「姉貴なら、さっきジジが連れてったけど。港の方にいるんじゃねえの」
またか、と吐き出したくなるのを、ぐっとこらえる。そう、こんなことも今日限りでおしまいなのだ。アデルから聞いた工場の話を伝えるべく、リュシアンも港へ向かうことにした。
まだ陽の高い波止場は静かだ。女たちは思い思いに、化粧やお喋りに興じているようだった。
「マルグリット!」
はたして彼女はそこにいた。岬のそばの窪みに腰かけ、年上の娼婦たちと何やら話をしている。
「おや、リュスがいる!」
古い付き合いの者は、彼の名をちぢめてリュスとかリュシとかいう風に呼ぶ。一人が声をあげると、皆ものめずらしげに近寄ったり声をかけたりしてきた。同い年で兄弟同然に育った幼馴染、ジジの姿もある。――彼女にも何とかという本名があったが、皆忘れてしまったので、ただジジと呼んでいた。
「久しいねえ、こんな昼間に何の用さ。郵便屋はどうした? 今日は上がったのかい?」
「いいや、あれは首を切られた。……ああ、それはもう別のが見つかったから平気なのだ。そうそう、そのことでマルグリットに話があってな」
連れられてきた妹は、いつも通りどこか不安げな面持ちだ。今日はお説教じゃあないぞ、と、柔らかい微笑みをつくって声をかける。
「いい知らせだ。マルグリット、おれと一緒にモントルイユへ行こう。おれの友だちが、女だけを雇っている工場を紹介してくれたんだ。もうこんなところへ来なくていいんだぞ!」
途中ではっとして、「こんなところ」と言う声をわずかにひそめる。マルグリットも喜んだものの、すぐにわずか表情を曇らせた。
「うれしいけど、なんだか悪いわ。みんなすごく良くしてくれたんだもの。お客のことは怖いけど、あたしここの姉さんたちを尊敬してるのよ。だから、そうね、みんなにお礼とお別れを言うくらいの時間は頂戴な。ねえ兄さん、いいでしょう?」
もちろん、とリュシアンは了解した。
思い返せば、彼女たちには随分良くしてもらった。あとから聞いた話では、皆マルグリットの身の上に同情してか、波止場へ来るたびにあれこれと世話を焼いてくれていたらしい。面倒な客から守ったり、小遣い稼ぎの仕事を少しだけ譲ったり……。
中でもジジは特に親身になってくれたようで、マルグリットも実の姉のように慕っていた。
「お前にも随分面倒をかけたな。そうだ、なんだったらお前も来てはどうだい? きっと、ここよりいい仕事が見つかるだろう」
「は、止しておくよ」
なかなか素敵な提案だと思われたのだが、ジジは一笑に付した。懐にしまった煙管を取り出し、つまらなそうに火をつける。
「アタシ達はあの子とは違う。身を売って金を稼ぐよりほかに、生き方を知らないんだ。ここで生まれて、お客を取って、そのうち病気にでもなって、どぶねずみみたいにここでくたばるんだろうさ。とりわけアタシはおふくろも、そのまたおふくろもそのくちだ。こんな女を雇いたがるお偉方が、どこの工場にいるもんかい」
「……そうか。残念だ」
諦めたような乾いた口調が悲しくて、目を伏せる。しかし次の瞬間、くすくすという笑い声と共に、ふうっと煙を吹き付けられた。
「なァにしょぼくれた顔してんのさ。いいから何処へでも行って、うまくやってきなよ」
体に悪そうな煙をもろに受け、咳き込みながらも、つられてリュシアンも笑顔をみせた。
「うん、お前も。身体に気をつけて、元気でやれよ。それと、たまにでいいから、できれば弟たちのことも気にかけてやってくれ」
「まあ、たまにはそれもいいさね。アタシはあんたが金持ちになって、ここから攫いに来てくれるってのをのんびり待つことにするよ」
「えっ?」
その反問をジジは許さなかった。くるりと踵を返し、どこぞへ去っていく。リュシアンもリュシアンで、ほかの娼婦や商売人たちへの挨拶に追われることとなった。
その晩、岬に誰かあったなら、彼女の呟くのをわずかに聞き取れたかもしれない。
「ばかだね。昔の話さ」
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