新しい生活
第8話
景気も上々、活気あふれるモントルイユの街角に、その店はこぢんまりと佇んでいる。
シンプルに
金髪にオリーブの瞳の彼はリュシアン。いつも店先に立っており、人懐こい笑顔でどんな客とも仲良くなってしまう。
ブローニュで貧しい暮らしをしていたが、もう一人の店主アデルが見出してくれたのだと彼は幸せそうに語る。
店の奥で事務作業をしているのが、そのもう一人。艶やかな黒髪に瞳はヘーゼル、色白で線の細い、薫るような美青年だ。
物静かで客との会話も少ないが、稀に見せる微笑みがたまらない……そう言って、終業後の楽しみに店へ通いつめる女工も少なくないとか。
二人はとても仲睦まじく、店は連日多くの客で賑わっていた。
何もかも完璧、順風満帆に見えた「ル・ブラン」は、しかし――
――たったの一年でその看板を下ろすことになる。
*
あの約束を交わした次の日から、ふたりの「店」の支度は着々と進められていった。
経営規模や方針の決定、屋敷からの荷運びの準備、商品の確保、そのほか……。店を構える場所については、決まるまでに少し難儀した。
自分のブティックを持つなら是非パリへ、とアデルは考えていたのだが、家族と連絡を取りづらくなるとリュシアンが良い顔をしなかったのだ。「せめて二、三日に一度はブローニュ・シュル・メールへ帰れる場所がいい」……。あれこれ伝手を探った結果、隣町のモントルイユに目処が立った。
「配達先で知り合った床屋のじいさんが、いよいよ歳を取ったんで店を閉めたいらしいのだ。貸してもらえるよう、おれから頼んでみようか」
聞けば手狭だが立地もよく、二階は住居スペースとして使えるらしい。先方が随分リュシアンを気に入っており、交渉がすぐに済んだこともあって、そこから先の話は簡単にまとまった。
「ふむ、悪くないんじゃあないか。モントルイユといえば、ここのところ市長が変わったとかでなかなか景気も良いと聞く。工場の労働者たちで客には困らないだろうし……ああ、それに、場所によっては女を雇う工場もあるそうだ。どうだね、君の妹君にとっても、波止場で働くよりは安全だろうけれど」
アデルがそう話すと、リュシアンは涙を浮かべて何度も頷いた。
*
「では、おれは出かけてくるよ」
それから少し経ち、屋敷から出る準備も整いはじめた頃。その日のリュシアンは朝早くから支度をし、身辺整理のため一度自宅へ帰ることにしていた。
「家族へのことづけと、それからついでに、店を借りるトレゾールじいさん達にも改めて挨拶をしてこよう。きみのこともよろしく伝えておくよ」
「ここから港とモントルイユへ行くのかね。かなり距離があるだろう、馬車を手配させようか」
「いや、悪いが遠慮しておくよ。どうもおれはあれが苦手とみえる」
思い出したのか、リュシアンは疲れたような苦笑を浮かべる。そうだった。数日前、商品の下見で彼を馬車に乗せたのだが、ひどく車酔いをしてすっかり目を回してしまったのだ。生まれて初めて乗ったらしいが、「こんなに気持ち悪いなら、何日かかっても歩いた方がましだ」とぐったりしていた。
「では……随分時間がかかってしまうね」
「ほんとうは、兄弟達にもきみのことをちゃんと紹介したかったのだが。その……まだ幼いから、貴族とかブルジョワとか、きみのようにきれいな格好をした人間を目の敵にしているふしがあってなあ。地域としても、いいところなんだが、治安が良いとはとても言えない場所なのだ。おれが少し目を離した隙に、きみに無礼を働く連中もいるかもしれない。だから……すまんね」
慎重に言葉を選びながら、リュシアンは悲しげにオリーブの瞳を伏せた。歳に似合わぬ節くれだった手が、アデルの手をそっと包み込む。わかっている。僕を大切に思えばこそ、だ――。そこまで理解できてしまうから、アデルはもう何も言えなかった。
「……早く、きっと、ここへ戻ってきたまえね」
「ああ、必ず。おれのかわいいひと」
包まれていた手をほどき、代わりに互いの指を絡める。交わしたくちづけは、どこか名残を惜しむようだった。
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