第7話
あの日。兄弟たちが盗みを働いた晩の帰り道、久方ぶりにゆっくりルチオと話をした。
「兄貴」
「ん」
「ありがと。……ごめん」
きまり悪そうにだが、確かにそう言われた。
腐っても謝罪と感謝だけは忘れるな、人として筋は通せ。繰り返し言い聞かせてきたリュシアンなりの教えを、やはり彼も、分かっていないわけではなかったのだ。
「うん……おれも悪かったな。あいつらのこと、任せてばかりで」
よくやっているよ、とくしゃくしゃに頭を撫でれば、ぷいとそっぽを向かれてしまう。弟妹の前で大きな顔をしている手前、子ども扱いは照れ臭いらしい。
「兄貴はさあ」 ルチオは顔をそむけたまま、つっけんどんに言う。「お節介だし、お人好しだし、……そこはまあ、いいとこだと思うんだよ。あいつらも兄貴のこと大好きだし、尊敬してる」
思わず目を丸くした。ルチオが素直にリュシアンを褒めるなど、そうそうあることではない。からかってやろうかと思ったが、神妙な表情に思いとどまる。
「でもさあ、やさしさだけじゃあ、パンは買えねえんだよ」
*
あたたかい。
小さく身じろぎをすると、全身がなにか柔らかいものに包まれているのがわかった。周りの雪は、濡れた服はどうしたのだろう? ぼんやり不思議に思いつつ薄目を開けると、視界の端に蝋燭の明かりがちらついた。
「ああ、気がついた! 良かった……ねえリュシアン、僕だよ。わかるかい」
懐かしい声だ。近くで、自分のことを呼んでいる。
リュシアンは霞む目を瞬いて、その持ち主を捜した。やがて柔らかな手が頬に触れ、瞳を覗き込まれる。
(だんな、さま……?)
はたして視線を結んだ相手は、愛しき友人アデルだった。
「ここは僕の屋敷だ。君が門の手前で倒れているものだから、あわてて運び入れたのだよ。よもやこのまま二度と目を覚まさないんじゃないか、と心配したのだけれど……医者に診せたら、ただの過労と風邪、栄養失調だと。本当によかった、顔色も少し戻ってきたね」
眉を下げ、心から安堵した様子で話すアデル。気を失う前のことはほぼ記憶にないが、あてもなく歩いたつもりで、無意識に彼の屋敷へ向かっていたのだろうか。
「ぁ……?」
ありがとう。あいたかった。そんな内容のことを言おうとしたが、どうやら叫びすぎて喉がつぶれたらしい。
「可哀想に、声が嗄れているようだ。起きあがれるかい、さあ、いま水を持ってこよう……スープも用意したんだ。君の口に合うと良いのだけれど」
アデルに半身を助け起こされ、しばらく待っていると、奥から立派な盆が運ばれてきた。
「…………!!」
陶器のスープ皿になみなみと入った、具沢山のスープ。隣には、貧乏の身には一生縁がないはずのふかふかの白パンが添えられている。湯気とともにスパイスの良い匂いが立ちのぼり、灼けつく飢えが襲いくる。 リュシアンはアデルの手から盆をひったくると、獣のように貪り食らった。
ああ、飯だ、まともな食い物だ!
なんという旨さだろう。きちんと調理された野菜など、もう何年口にしていないのか。それに、ああ、肉もこんなにある。ひと匙すくうたびに転がり出てくるそれらに、半ば困惑さえ覚えた。
思い出す。暮らしぶりがもう少し楽だったころ、リュシアン達の食卓にもスープらしきものが出ていたことはあった。
隣人らの好意で肉の切れ端をもらい、骨と一緒に煮込んだものに、なけなしの具材を入れて。味は薄く、とびきり旨いわけでもなかったけれど、食べれば体は温まった。あの頃、まだシエルは生まれていなかったっけ。
最近ではもう、火の通ったものなど食わせてやれていない。ふっくらした頬がかわいらしかったフィーユも、すっかりやせてしまった。ますます寒さが厳しくなるというのに、そうだ――おれはついに職をなくしてしまったのだ。
がつがつとかきこみ続け、忙しなかった手が次第に遅くなる。ほとんど空になった皿に、カラン、とスプーンが跳ねた。ぱたり、ぱたり、盆の淵に雫が落ちる。
呆然と様子をうかがっていたアデルが、ぎょっと硬直した。拭えど拭えど、ぼろぼろと溢れる涙は止まらない。
「ど、どうした!? なにか中に嫌いなものでも……いや、それとも、どこか苦しいのかね」
せっかくの食事を吐き出さないよう、無理矢理に飲みくだす。情けない、おれとしたことが、泣いているのか――認識した途端にたまらなくなり、とうとう嗚咽が漏れだした。
「ッ、う……すみませ、旦那さま……ごめんなさっ……!」
守るべきものを両手いっぱい抱えこんだ彼は、ある責務を自身に課していた。いつも陽気に能天気でいること、笑顔でいること。きっと大丈夫、万事うまくいくさと、貧乏暮らしのなかで気持ちを励ますために。両手で顔を覆い、せり上がる感情を噛み殺しながら、リュシアンはしきりに謝り続けた。
「あ、謝らないで……」
アデルの目がわかりやすく泳いでいる。美しくも不器用な青年は、食事の済んだ器をひとまず脇にやり、そうっと距離を寄せた。
「決して君を責めたりなどしない。力になりたいんだ……どうか君のために、僕に出来ることを教えてくれたまえよ、ね?」
かつて苦しむアデルに、リュシアン自身がそうしたように。ぎこちなくも手を握り、頭を撫でられて、押さえこんでいた何かか爆発した。
促されるまま温かい胸元に顔をうずめ、リュシアンは幼子のように声をあげて泣いた。すみません、ごめんなさいと何度も繰り返しながら――落ち着かないアデルの手は、それでもあやすようにきちんとリュシアンを受け入れて、「いいんだ、いいんだ」と応じてくれたのだった。
「弟が……盗みをやりました」
落ち着くにつれ、リュシアンはぽつりぽつりと語り始めた。ここ最近の仕事の変化、昨日兄弟たちが起こした事件。それから、ついに今朝首を切られてしまったこと。街に溢れる失業者たちの現状。このままでは、妹たちが売春を余儀なくされてしまうことも。
「どうすればよいのだ、おれは……」
ため息とともに零れ落ちた本音。何度も頭をかすめたが、見ないふりをしてきたものだった。母にさえ話せなかった胸のつかえをすっかり吐き出して、リュシアンは奇妙な身軽を味わう。話してどうなるわけでなくとも、問題や苦しみが我が身のものだけでなくなり、少し荷がおりる感じがした。
ふと顔をあげると、アデルの洋服を涙や何やでぐちゃぐちゃに濡らしてしまっている。いけない、どうもおれは彼のものを汚してばかりいる気がするぞ――。あわてて離れ、目元や頬に残った雫を乱暴に拭き取った。
その拍子に気づいてみれば、怪我をしていた場所にガーゼや包帯が巻かれている。これもアデルが施してくれたのだろうか?
「あ……う、すみません、旦那さま。こんな、みっともないところばかり……」
「とんでもない。だれかのために苦しむことの、なにがみっともないものか」
傷だらけの腕を、ミルク色の細い指が優しく撫でる。
「こんなにぼろぼろになって……つらかったろう。よく生きていてくれた」
慈愛に満ちた声が噛みしめるように呟き、アデルはもう一度リュシアンを抱きしめた。それだけでまた目頭が熱くなりそうだったのだが、アデルは何を思ってか、肩ごしにすぅ、はあ、と小さく呼吸を整えはじめる。
改めて向かい合った彼は、力の入った真剣な顔をしていた。
「ところでだが、友よ。聞いてくれるか。
僕にはひとつ計画がある。今まで僕は、手紙を通じて両親の借金を管理してきた。しかしあまりに数字が膨大で、埒があかなくなってきたので……いっそこの屋敷を売ってまとまった金をつくり、一気に片をつけてしまおうと考えている。それで――店をはじめようと思っているんだ」
「店?」
「うん。父が残したものは屋敷と借金だけじゃない。君にも見せたろう、旅先で買い集めた布やドレス……型としては古いものでも、仕立て直せば十分商売になる。空き店舗を借りて、僕だけの店を開くんだ。
そこに……その、君もどうかと」
突然のことにリュシアンは目をぱちくりさせた。全く関係のない世間話だと思っていたのに、突然話が自分を向いたのだ。なにやらわけがわからない様子に、アデルは口早に補足する。
「店をつくるとなれば人手が要るだろう。売上の計算はともかく、品を並べたり、案内をしたり……僕ひとりでは無理だ。となれば、共に働くなら君がいいんだ。
憂鬱なはずの手紙を持った君が、僕に温もりと幸せを運んでくれたように……君が居れば、きっと皆に愛されるすてきな店になる。今度君が来たら言おうかどうか考えていたのだけど……どうだね、他にあてがないのなら。君さえよければ、の話だが」
「ああ、ムッシュー!」
思わずリュシアンは叫び、彼に飛びついた。
「おれは……何と礼を言えばよいのか!」
「承知してくれるかね!」
もちろんですと答えるかわりに、感極まって何度もキスを降らせる。きゃあっと悲鳴をあげて、アデルはリュシアン共々ベッドへ倒れこんだ。薔薇色に染まった頬が、リュシアンのそれと横ならびに並ぶ。
キスに慣れないのか、恥ずかしそうに咳払いをしながらも、まっすぐに見つめられる。いつより彼を近くに感じ、胸がいっぱいになった。
「さあ、そうと決まれば、僕らはもう同志だ。身分違いの友人ではなく、同じ看板の下で働くのだから。ちょうど元来得意ではないようだし、堅くるしい話し方も今日限りでおしまいだ。僕のことも、かんたんにアデルと呼んでくれ」
リュシアンは夢心地のまま微笑みだけを浮かべ、ぼうっとアデルの話を聞いていた。ああおれは救われたのだ、彼に雇ってもらえて、家族にもまたパンを買ってやれるようになるのだ――。目まぐるしい情報の中、どうにかそれだけ拾い上げる。うん、うんと懸命に頷きながら、安心からかふぅっと意識が遠のいていく。
「すまない。疲れているだろうに、話し過ぎてしまった」
彼が眠たがっているのに気づいたのか、アデルはいそいそと起きあがった。リュシアンが眠りやすいよう体勢を整え、布団をかけ直してくれる。
「これから僕たちの新しい暮らしがはじまるんだ。今夜は何も心配せず、ゆっくり眠って休むといい。君も、その家族も、きっと僕が守ってあげるから……」
伸ばした手はきゅっと握られ、約束のように確かな声が、リュシアンの耳をそっと撫でる。ためらいながらもゆっくり下ろした瞼に、はじめて優しい口づけが返された。
「おやすみ、リュシアン」
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