第6話

 いろいろに悩んでしまって、昨夜はちっとも眠れなかった。

 差し込んでくる光が明るいから、もう朝なのだろう。身体を起こそうとすると、鈍い頭痛がリュシアンを襲った。

「ッ……」

 身体がだるい。半端に上半身だけを起こした状態のまま、しばらく動けなかった。腹にも足にも、てんで力が入らない。思い返せば昨日はおろか、一昨日もその前もろくに食事を取っていないのだった。

 目頭をおさえ、壁を頼りによろめきながら立ち上がる。

「……仕事に行かなくては」

 そう。昨日ああ言った手前、彼には兄弟たちが盗みなどやらずに済むだけ稼いでくる責務がある。すべては金さえあれば―—おれが頑張れば解決する話なのだ。

(兄ちゃんは、おまえたちを乞食にも犯罪者にもさせない……!)

 最低限の身嗜みを整え、兄弟を起こさないよう慎重に家を抜け出す。いつも通りの作業なのに、身体が重くて既に少し息が切れていた。こんなことでは駄目だ、少しでも給料の足しになるよう、また仕事を増やさなくてはならないのに……。もつれそうな足を必死で動かして、彼は仕事場へと向かう。

 灰色の空には、おそらく今年初めての雪がちらつき始めていた。


 *


 郵便局の戸を入ると、中はどこか異様な空気だった。

 体調のせいで準備や通勤にもたついたので、いつもより少し到着が遅くなったのもあるだろう。しかし、それだけではない。なにかが明らかに違うのだ。空気、雰囲気――そうだ、今日はやけに皆静かだ。辺りを見回しても、誰とも目が合わない。誰もいつものように、リュシアンに挨拶をしてくれないのだ。

「お早う、なあ、今日はどうなってるんだ?」

 同期の一人に声をかけてみたが、リュシアンの顔を見るやそそくさと逃げられてしまった。これはいよいよおかしい。

 まあ、いずれわかることだろう。ひとまず制服を取りにいかなくては。首を傾げながらも、彼は管理場所へと急いだ。


「え……?」

 それきり言葉が出なかった。

 のだ。いつもの戸棚に制服が。戸棚の横に、彼の名が彫られた木片プレートが。

 場所は間違っていないはずだ。その証拠に、いつも周りに見えている風景に異常はない。リュシアンが使っていた戸棚、そこにだけが、綺麗に消え去っているのである。

 じわり、じわり、蛆のような悪寒が足元から這い上がる。そんな、まさか。きっと何かの間違いだ。このおれが、よりにもよって、こんなこと。


「悪いね。だ、リュシアン君」


 低い声が、凍りついたリュシアンの背に降ってくる。苦しい、息が苦しい。振り向くこともできないで、彼は自分の身を抱きしめた。

「は、はは……嘘だ。それが冗談のつもりなら、笑えませんよ、局長……」

「私は嘘も冗談も言わない。わかるね、君の仕事は終わった。ここにいても他の者の邪魔だ、去りなさい」

「どうしてですッ!?」

 早鐘と化した心臓の鳴るまま、リュシアンは叫んだ。心ばかりは噛み付かんばかりなのに、震えで身体に力が入らない。戸棚の縁を握りしめ、ようやく正面から見据えた局長の顔は、人でない者のように冷ややかだった。

「おれはずっと真っ当に働いてきました! それなのに、どうしてこんな仕打ちを受けねばならんのです!?」

「どうしても何も」じとり、と濁った眼がこちらを睨む。

「もう決まったことだ。経営難でね、これ以上人員を雇う余裕がなくなったのだよ。ではね、悪く思うな」

「待ってください……!」

 先程までとは打って変わった、縋るような弱々しい声。力の抜けるまま座り込み、リュシアンはきつく局長のズボンの裾を掴んだ。

「お願いです。どうか、それだけは考え直して下さいまし。おれには病気の母と、5人の弟妹があるのです。ここの仕事がなくなればいよいよ暮らしてゆけぬ。慈悲を、どうか……人の心があるのならば、おれを見捨てないで下さいまし!」

 革靴に口付けんばかりに、深く頭を下げたまま繰り返す。爪先にキスをしたって、靴の裏を舐めたっていい。この最悪の事態を避けられるならば。

 耐えるような険しい顔でリュシアンを睨んでいたルチオ。盗んだパンを食わせてもらって、ついぞ見られなかった上機嫌の笑顔を見せたサンセール。彼らの暮らしが、あるいは生命が、リュシアンの失業によって永遠に失われるかもしれないのだ。どんな手を使ってでも、この生命線だけは繋ぎ止めなければならないのに。

「い"ッ、あぁっ!?」

 捕まえた足で蹴飛ばされ、躊躇もなく踏み付けられる。もろに体重を受けた右手首が軋み、リュシアンは思わず悲鳴をあげた。

「しつこいぞ、話は終わりだ!」

「待って……いや、いやだ、待ってくださ……ッ!」

 右手を抑え、立ち上がることもできず、這うようにその背中を追う。素早くドアを潜った局長は、まさにいま出発せんとしている配達員たちの波の向こうに消えてゆく。リュシアンは藁にもすがる思いで、その一人一人に先回りしては慈悲を乞うた。

「なあ、たのむ、おれに仕事をくれよ。ね、きみには話したろう。七人家族なんだ。金がなけりゃ死んじまう。おねがいだ。なんでもするから! ねえ、たのむよ……!」

 ふりはらい、目を逸らしながら、足早に出てゆくかつての同僚達。ぱっくりと分かたれた人の流れの真ん中で、リュシアンは途方もない絶望に侵されていった。無慈悲の荒波を前に、はくはくと浅い息だけをどうにか繰り返す。そこへ、いちばん馴染みの顔が現れた。

 レミだ。

 レミはリュシアンの様子に大きく目を見開いたあと、なにやら逡巡するそぶりを見せた。反射的にその肩に飛びつく。最後の砦は彼だ、と思った。

「ね、レミ。おねがいだ。半分の半分でいい、おれに仕事を分けておくれよ。きみだけが頼りなのだ。なあ、よもやきみまでおれを見捨てたりするまいね?」

「あ……あ…………」

 華奢な肩にぎりぎりと爪が食い込む。この優しい少年に対し、脅迫めいた物言いなのはわかっている。けれど、とっくになりふり構っているいとまはなかった。熱に浮かされ、潤んだ目が食うようにレミの顔を見つめる。少年は泣きそうな顔で、しかしぎゅっと自分の鞄を握りしめた。

「ぼ、くは…………!」

「おい、何をしている。とっととつまみだせ!」

 突然後ろから羽交締めにされ、無理やり引き剥がされる。リュシアンの手を離れたレミは、目を伏せて彼の横を駆け抜けていった。

 最早、手を伸ばすべき相手さえ皆消え失せた。出口へ向かって無遠慮に引きずられながら、彼は誰にともなく、あるいは名も知らぬどこぞの神に向かってわめいては暴れ続けた。

「いやだあっ! だれか、たすけてくれ! 慈悲を! 慈悲を、どうか!」

 バタン、と背後で音が鳴る。北風が身を打ち、身体が勢いよく外に放り出された。

 目の前でふたたび閉ざされた扉にしがみついて、リュシアンは膝が雪に埋まるまで扉を叩き続けた。


 *


 拳に血が滲んでいる。

 気がついた途端、肩が上がらなくなった。じんじんと痛む両手に雪の冷たさが滲みる。もうどれだけこうしているかわからないけれど、これだけやって反応がないなら、諦めた方がよいかもしれない。靄のかかった思考でようやくそれだけ考える。

 重い身体を支えながら、リュシアンはよろよろと立ち上がった。

 しばし壁に額をあずける。熱っぽい息を整えながら、はじめて味わうひどい眩暈をどうにかやりすごそうと目を閉じた。頭や、怪我をした手や腕、どこもかしこも熱い。痛みは分散されてよくわからなくなっていたが、どくんどくんと脈を打つ感覚が気持ち悪い。心の臓がいくつもできたみたいだ、と、彼はぼんやりそんな感想を抱いた。

(行かなくては……家族に、薬とパンを)

 しかし、どこへ。金は無い。困ったとき二、三日過ごせるようにと貯めてあった金は、昨日の弁償代でみんなパン屋にあげてしまった。それに―—どうして帰れよう。人に迷惑をかける真似をしたり、苦しく悲しい身売りをしたりしなくとも、きちんと食えるだけ稼いできてやると約束したばかりなのに。

 どうすれば。どうすればいい。仰いだ空は一面灰色で、大粒の牡丹雪が容赦なく彼の上に降り注ぐ。

(お天道様は、ついにおれを見捨てたのだろうか)

 若くして売られた母は神を信じなかった。その代わりに、「どんな行いもすべて、空の上のお天道様たちがきっと見守ってくださっている」と幼いリュシアン達になんども説いたものだ。今まで、天に誓って恥ずかしくない生き方をしてきたつもりではある。しかしこう飢え死にを待つ身になっては、なにもかも疑わしい。

 リュシアンは、郵便局の門を出てふらふらと歩きだした。あてもなく、白くかすんだ街を彷徨いながら。

 どこへ行けばいい。なにをすればいい。街並の陰で身を縮めている失業者達や乞食達が、今日ばかりはいやに目についた。

 この時期、新しく仕事を探すというのは絶望的なのだ。雇われ農夫や枝切り職人も、冬になっては行く場がない。専門技術も学もなく、養うべき家族ばかりを抱えるリュシアンを、今更温かく迎え入れてくれる職場など何処にあるというのだろう。

(……アデルさまに会いたい)

 ふと、あの青年の顔が脳裏に浮かんだ。ここのところ、金のために他の地域の配達を買って出ていたので、彼にはほとんど会えていない。そうか、おれはもう郵便屋ではないのだから、旦那さまに会う理由もなくなってしまったのか。

(こんなおれのことを、せっかく友と呼んでくれたのに)

 器用で賢く、けれどどこか抜けていて、とても淋しがり屋のアデル。月夜のように儚げな美しさを纏った彼は、顔の広いリュシアンにとっても特別の意味を持つ友人だったのに。せめて最後に一言、面と向かってさようならを言いたかった。

 会いたい。彼に会いたい。

 最早まともに動きやしない頭にそれだけを想いながら、夢遊患者のように只管歩きつづけた。すべてのものがぼんやりとして見えて、人も建物も影のように実体がつかめない。

 どん、と鈍い衝撃を受ける。誰かにぶつかられたらしい。受け身を取ることもできず、リュシアンはあっさりと雪の中へ倒れ込んでしまった。

「チッ、汚ねェ……おい構うな、乞食のガキだ。何にも搾り取れやしねえよ……行くぞ」

 聞こえた舌打ちでさえ、遠いどこかのことのような気がする。もう、今度こそ指一本動かなかった。熱で火照った身体が、周囲の雪を少し溶かしては服を濡らす。ものを言わぬ死のような雪が、彼を何処ともしれぬ街角に沈めてゆく……。

 リュシアンの意識は、ついにそこで途切れた。

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