第5話
「むう……」
結局、すべての用事が終わる頃には、辺りは真っ暗になってしまった。さすがに疲れきり、重たい足取りのわりに軽い給与袋が虚しい。
(どうも、このごろおかしいぞ。兄弟も大きくなったから、前より余分に働いているくらいなのに……給料はむしろ減っている気がする)
これではいつもの量のパンすら満足に買えるかどうかだ。仕方がないから先に薬だけ買って、あとは家にある貯蓄を切りくずそう。そう判断して、彼は現在自宅へ向かっている。
暦はすっかり冬である。港が近いこの街は、潮風が冷たく厳しいことで有名だ。
向かい風に目を細めながら、リュシアンはふと、自分があまり寒さを感じていないことに気がついた。走った直後の暑さとはまた違う、頭のあたりだけが火照ったような……。なるほど、これはレミの言う通り、今日はさっさと休んだ方がいいかもしれないぞ。なんならパンを買ってくるのも、兄弟たちに任せてしまおうか。
次女のフィーユはもう七つになるし、そろそろおつかいを覚えても良い頃だ。ああでも、もう暗くて危ないから、念のためルチオかシエルについて行ってもらおうか。末っ子のサンセールも行きたがるかもしれないが、はしゃいで迷子になるといけない。家で待たせるあいだ、しばらくぶりにおれが遊んでやろうかな……。賑やかな兄弟たちを思い浮かべ、自然と顔がほころぶ。
リュシアンたち一家は、船着き場から少し離れた場所に住んでいる。家というより小屋のような狭さの住まいだが、母と彼ら――少なくとも今は―—六人兄弟は、なんとかその空間に―—これまた少なくとも、今のところは―—収まっていた。
既にいくらか傾いているこのおんぼろ小屋は、戸を閉めていてもだいたい外の音が聞こえてしまう。だから、普段ならリュシアンの足跡を聞きつけて、兄弟の誰かが出迎えてくれるはずなのだが……?
「兄さん?」
後ろから呼ばれて振り返ると、長女のマルグリットが不安な顔をして立っている。過多な装飾の髪飾り、あまりにも薄手のスカート。まさか、また働きに出ていたのか。
「マルグリット、おまえ、また波止場へ行ったのか!?」
「あたしのことはいいの、兄さん。それより、やばいよ。ルチオ達が……」
「ルチオが?」
ちらちらとドアの奥を伺うマルグリット。
(ひょっとして―—また母さんの昔の客か!?)
反射的に妹の制止を振り払う。 壊さんばかりの勢いで、リュシアンは扉を開け放った。
「あー、にいちゃんだー!」
すぐ足元から間の抜けた声が聞こえ、つい脱力してしまった。よかった、また暴漢に襲われたわけではなさそうだ。
「やあ、ただいま、サンセール。お利口にしていたかい?」
しゃがんだついでにキスをして、胸元へ抱き上げてやると、 きゃっきゃと楽しげな声があがる。 いつにも増してご機嫌な様子だ。そういえば、他の兄弟たちはどこだろう?
「あのねえ、すごかったの、きょうねえ、ルチオにいちゃんがねえ」
「サンセール、こっちに……あっ!」
奥から聞こえたのはフィーユの声だ。床下に空いてしまった穴の中に入っていたらしい。リュシアンに気づくや否や、フィーユは大きく息を呑んで目を泳がせた。
「あ……リュシアン兄ちゃん、えっと、えっと……」
「おい、何やってんだよ! 早く隠せ、ほらシエルも!」
「で、でも……」
床下の空間から、押し殺したような忙しない会話が聞こえる。他は皆、その中にいるのか。
嫌な予感がした。すぐそばで立ち往生しているフィーユの喉が、ごくりと音を立てて上下する。おそろしい想像を抑えきれず、静かにこう尋ねた。
「フィーユ、おまえ……なにを食ってた?」
頑なな沈黙。答えとしては充分だった。転がるように穴へ近づき、中にいる二人の背を無我夢中でかき分ける。
「なにを隠した、なあ? 見せなさい! 全部だ!!」
子供が入るのがやっとの狭い穴だ。二人の決死の妨害をいなし、どうにか覗き込んだ暗がりに、大切そうに納められていたのは―—こぶし大のチーズのかけらがいくつかと、二本の立派なバゲットだった。
「これは……」
どうやって手に入れた、とは聞けなかった。だって家に貯蓄してある分の金は、すべて母の部屋に預けてある。念のため、弟たちには渡さないよう頼んでいるのだ。そうなればもう、答えは一つしかない。
「盗んだ……のか。ゾーイさんたちの店か」
こぼれ出た声は震えていた。いつも世話をかけている、気のいい女店主の顔が目に浮かぶ。なんてことを。取り返しのつかないことを。
「ふざけるなッ!!」
ドアの側で立ち尽くしていたマルグリットが、怯えてびくりと両肩を跳ねさせる。それでも感情を抑えきれなかった。
「おまえたち、一体なにを考えてる!? ひとの売り物を取るなんて、とんでもないことをしたんだぞ! バゲットもチーズも……おれやマルグリットやゾーイさん達が必死で働いて、真っ当に稼いで、それでやっと手に入るものなんだぞ。兄ちゃんは何度も教えたはずだ!!」
溢れて溢れて止まらないのは、怒りでも憎しみでもない。やりきれない虚しさと、疑問だった。
なぜ、なぜだ。どうしてこんな、人の道に外れたようなことを。他人の痛みがちゃんとわかるはずのこの子達が、なぜ、どうして……。
「そんなの―—腹が減ったんだから、しょうがねえじゃんかよお!」
しん、と重たい沈黙を、ルチオの叫び声が切り裂いた。
「真っ当に、真っ当にって、兄貴はいつもそればっかりだ! それでおれたちが飢え死にしてもいいっていうのかよ!?」
「……ッ!」
目を見開いて絶句するリュシアンに、ルチオは堰を切ったようにまくしたてる。
「おれ、見たことあるから知ってるんだぜ。向こうの街の豚みてーな貴族のおっさんども、コックに作らせた料理をほとんど食わずに捨ててやがる。それでもおれたちの晩飯の倍あった! ちくしょう、兄貴も姉貴もこんなに働いてんのに、おれたちはこんなに腹空かしてんのにさあ!
クソがっ、真っ当な仕事がなんだよ!? 人としてどうとか、商売がどうとか、なにもかも知るもんか! こっちは食わなきゃ死にそうなんだ!」
「ルチオ、やめな!」 マルグリットが、やっとのことで悲痛な絶叫をさえぎった。顔を真っ青にして、俯いたままに震えている。「お願いだから、もうやめとくれよ……」
すきま風がびゅうびゅうと、割れた窓辺に歌っている。二度目の静寂が訪れ、六人の頭は否が応にも冷やされてゆく。
「おれは間違ったことはやってねえ」
ルチオはなおもまっすぐにリュシアンを見つめ、きっぱりと言い放つ。けれど兄はとうに気づいているのだ。強がりな瞳が薄く濡れていること、その奥に恐れと苦しみと、それを凌駕する強い意志が存在することを。
リュシアンとマルグリットがいない間、幼い弟妹を守ろうと、ルチオなりにずっと必死で気を張っていたことを。
「なんかが間違ってるとしたら、このくそったれの世の中のほうだ」
(……わかっている。わかっているさ、おれだって)
リュシアンは何も言えず、ぎりりと唇を噛んだ。当然じゃないか。おれだって、本当はおまえたちにもっとうまいものを食わせてやりたいにきまっている。明日の食いものも母の容態も、なにも気にせず自由に過ごさせてやりたいにきまっているじゃないか。そうでなくちゃあ、こんなになりふりかまわず働くものか。娼婦になろうとしている大切な妹を、見て見ぬふりなどするものか。
「あの……ごめんよ。ぼくら、兄ちゃんがそんな辛い顔すると思ってなかったんだ」
「ね、あたしたち、うんと大きいのをとってきて、兄ちゃんにもあげようと思ったの。だってリュシアン兄ちゃん、最近ぜんぜんおうちでごはん食べないでしょ……」
様子をうかがっていたシエルとフィーユが、おずおずとこちらをのぞき込んでくる。嘆息して、彼は少しだけ優しい調子で二人の肩に手を置いた。
「二人とも、今日はもういいから、サンセールを寝かしつけてやりなさい。盗ったものも、もう仕方がないから好きにすればいい。ルチオは、おれと街へ」
「どこ行くの、兄さん?」
「ゾーイさんたちに謝りに行く。マルグリット、母さんの部屋から貯金を持ってきてくれ。弁償代……足りるかわからないけれど」
黙って手を引くと、思ったより素直にルチオは歩き出した。
きっと彼とて、悪いことをした自覚はあったのだ。最後にはこうなるだろうという見通しも。それでもやらねばならぬと思ったから、やったのだ―—。
思えばこうして手を繋ぐのはいつぶりだろう。以前よりずっとたくましくなった掌は、しかし変わらない強さで、リュシアンの左手をぎゅっと不安げに握りしめていた。
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