第4話

 あの雨の日の後も、リュシアンはたびたびアデルの屋敷を訪れていた。


 それというのも仕事のうちで、借金取りから届くという催促状は、結構な頻度でリュシアンの配達鞄に紛れ込んでいたのである。青年はいつでも嬉しそうにリュシアンを出迎えたが、配達物を受け取るたび「困ったものだ」と苦笑した。

 彼と親しくなってからは、彼の屋敷が最後になるように手紙を配ることにしている。共に過ごす時間が少し増やせるからだ。

 多く、アデルは書きものをしていて、リュシアンはそれを横から眺めているのが常だった。その日のうちに完成した書類は、明日の配達物としてリュシアンが持って帰ることもある。

「父が少しだけ手をつけて、肝心のところを残していった取引がいくつかあってね。僕がうまくつなげば、両親の借金もある程度片付けることができる」

 取り扱い商品のリストに契約書。難しい単語が並んでいてリュシアンにはちっとも理解できないが、真剣な眼差しで書類を仕上げていくアデルの横顔を見ているのが好きだった。けれどももっと好きなのは、ふと目があったときの柔らかな微笑だ。

「君、字は書けるのだった?」

「いいえ……仕事で住所や名前を読むくらいはやりますが、書く方はちっともだめです。旦那さまがむずかしいことをされている、というの以外はさっぱり」

 眉を下げるリュシアン。アデルはそれを聞いて少し笑みを深くすると、リュシアンのすぐ近くへと移動した。

「よし。教えてあげる、ペンを持ってごらん」

「ええっ、いいのですか!」

「構わない。ちょうど仕事をするのも疲れてしまったところだ」

 真っ白くふわふわとした羽根ペンを充分インクに浸したら、反故であるらしい雑紙とともに差し出される。ひとまず片手で受け取り、力を込めやすいようにと握りこんでみた。さっきまで彼がこれをどう持っていたのか、改めて再現しようとするとてんで思い出せない。

 それを見たアデルが慌てて、

「違う、そう強く握ってはペンが折れてしまうよ。 ほら、こうして……」 背中側へ回り込むと、自らの右手でリュシアンの持ち方を正した。「添えるように持つだけでも、文字は書ける」

 柔らかい黒髪と吐息がうなじをくすぐる。思わずきゅっと強張った身体が、高鳴る心臓をすんでのことで閉じ込めた。香水か石鹸かわからないけれど、微かにいい匂いがする……。リュシアンはそわそわと身じろぎした。こう近くに寄られてしまって、おれは嫌な匂いがしたりしないだろうか?

「そうだな、まずは名前を」 などと言いかけたところで、アデルは自ら「ああっ!」と言葉を遮った。

「名前……僕は、君の名前を知らないぞ」

「へ……? あっ、そういえば!」

「なんてことだ。君、君と呼ぶばかりで、きちんと名を訪ねたことさえなかったのか……」

 決まりが悪いときや恥ずかしいとき、口元に手をやるのは彼の癖らしい。ほんのり染まった耳が隠しきれないのが可愛らしくて、知らず頬を緩めると、じとりと睨まれた。顔が赤いのでとくに恐ろしくもない。それに、これくらいで怒られないほどに自分たちが親しいことは、リュシアンも感覚で理解できていた。

 少しばかり大袈裟に咳ばらいをして、向かい合う。気を抜けばまた吹き出しそうなほどに芝居めいた堅苦しさで、アデルは今更こう問うたのだった。


「そのう……ムッシュー。君の名を知りたいのだけれど」

「おれの名は……リュシアン。リュシアン、です」


 *


 アデルの屋敷に通い始めて、数か月経った頃。その日の仕事をひととおり終えたリュシアンは、給与受け取りのため郵便局に帰ってきていた。

 ふうっと一つ白い息を吐いて、空になった肩掛け鞄を外す。と、建物の前でまごついている見慣れた人影に気が付いた。


「レミ? どうした、こんなところで。入らないのか」

「リュシアンさん……」

 レミは、リュシアンの後にここへ入所した配達員である。どうもものの要領がよくないらしい彼は、上司に雷を落とされることもしょっちゅうだ。気が弱く、いつも所在なさげな彼を放っておけなくて、リュシアンが弟分のように面倒を見てやっている後輩の一人だった。

「あのう、これ……」

「うわ、こりゃあひどい!」

 レミが手にしていたのは、ふやけてインクの滲んだ封筒だった。随分派手に濡らしたようで、とても宛名など読めそうにない。さしものリュシアンでさえ引きつった苦笑を浮かべるので、レミはますます委縮してしまう。

「途中で水路に落としてしまったんです。配達しようにも住所が読めなくて、持って帰ってきてしまったんですけれど……その」

 レミの言わんとすることはわかる。二日前だったか、彼は手紙を紛失したとかでこっぴどく局長に叱られているのだ。また失敗したとわかれば、今度は何を言われるかわかったものではない。なんとかして助けてやりたいが……。


「ん……? この封蝋、見たことがあるぞ。

 思い出した、ベルナーさんだ! 駐屯兵のベルナーさんが、嫁さんと手紙のやりとりをしているのさ。そうそう、このあたりの区域は、きみが来たから引き継いだのだったね」

 そう一人合点すると、リュシアンは皺の寄った封筒をひょいと取り上げた。眼鏡の奥の目を丸くするレミに、軽くウインクをしてやる。

「よし、これはおれが届けてこよう。おおらかな人だし、おれなら付き合いも長い。きちんと話せば、怒鳴りつけられたりはするまいよ。きみはこのまま帰りたまえ」

「ええっ、そんなこと!」

「いいのさ。次から気をつければよいのだから」

「リュシアンさん、でも……」 レミはいつもの困った顔で、なおもぼそぼそと続ける。

「最近、働きづめではないですか。なんだか顔も赤いし、疲れているんじゃあ」

 今度はリュシアンはきょとんとする番だった。

 額に手を当ててみるが、案の定大したことはわからない。なにせ今まで風邪ひとつ引いたことがない健康体である。確かに疲れもあるにはあるが、かわいい後輩を見捨てて休むほどではなかった。

「なに、平気さ。あとはおれにまかせておけ。きみもたまには早めに帰って、じいさんとゆっくりするのもいいだろう」

 この内気で心優しい少年は、目の悪い祖父とふたりで暮らしているのだと聞いた。大変な思いをしてでも、家族のために働く。そんな共通点が、リュシアンがレミを気に掛ける理由のひとつでもあった。

「すみません、本当にありがとうございます。じゃあ……お気をつけて」

「ああ。それでは、また明日」

 心持ち安堵の表情になったレミを見送り、リュシアンは「さて」と鞄を掛け直した。受け取った封筒を、今度は濡らさないよう大事に鞄に入れる。かつての担当区域だ、迷うことはないだろうが、もうじき日が暮れてしまう。早めに片付けてしまおうと、彼は夕日に背を向け小走りに駆け出した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る