第3話
仕事用の革の鞄を掛け直す。再び一礼して、青年の背に踵を返す。そこまではよかった。
(……はて、おれはどの扉から入ったのだったか)
情けない話である。この客間へ入ってきたときは青年と話しながらだったし、色々に気を取られていたせいですっかり道順を忘れていた。同じような特徴の扉がいくつもあって見分けはつきそうもない。青年に尋ねようにも、こうなってはなかなか声をかけづらくなってしまった。
(……ええい、こうなれば仕方あるまい。おそらくこっちで合っていよう)
生来、深く考えないたちの彼である。適当に目についたそれらしい扉に手をかけ、開けようとした、瞬間。
「その扉はだめだっ!」
別れたはずの青年が駆け戻ってきた。けたたましい音を立て、二人の目鼻の先で扉が閉まる。その衝撃よりも何よりも、リュシアンの脳裏には先程ちらりと見た――見てしまった部屋の中の光景が焼きついて離れない。
「ッ……はあ、はあっ、はあっ…………!」
青年は自ら閉ざした扉に頭を預け、そのままずるずるとへたり込んだ。息は荒く、顔は血の気が引いて真っ青になっている。彼は震える手で口もとを覆った。
リュシアンには娼婦を生業にする友人がいた。彼女らの職場は専ら波止場で、つまり若い女が「波止場に行く」というのはそういうことだった。人生のどん底の分かり易い代名詞。そこに流れ着いた哀れな女の最期は聞いたことがあったし、実際リュシアンも不本意ながら、その末路への踏み台を目の当たりにした経験がある。
天井の梁から垂れ下がる、先の部分が輪になったロープ。
扉の向こうには、確かにそれがふたつ並んでいた。
「……旦那さま?」
はっと気がついて、リュシアンは隣の青年に目をやった。うずくまったままの背中はまだ小さく震えている。力が抜け、地面に投げ出された片手にそっと触れる――冷たい。形のよい眉が苦しげにゆがみ、抑えた口もとからはあえぐようなきれぎれの息が漏れていた。
「ひ、あ…………あ」
「旦那さまっ!? 旦那さま、しっかり!」
リュシアンは泡を食って青年に駆け寄った。
身につけたばかりの外套を脱ぎ、青年の身体ごとくるむように被せる。それでも青年の震えは治りそうにない。リュシアンは外套の上からきつく青年を抱きしめた。泣き止まない幼い兄弟にそうするように、優しく肩をさすってやる。どうにか腕の内に留めておかなくては、このまま彼が消えてなくなってしまう気がした。
「大丈夫、旦那さま、おれがここにおります。おれが旦那さまの側におりますから」
おれが戻ったからもう平気だぞ。みんな兄ちゃんがなんとかしてやる。大丈夫、万事うまくいくさ。
一家を支える男として、数えきれぬほど口にしてきたはったり。いつだってリュシアンは無力だった。かつての男らの母への暴力もそう、終わりの見えない飢えだってそう。それでもただ笑って、体温を与えて、「大丈夫だから」とそばにいること。貧しい彼はそれしか持っていなかった。それだけあれば十分だった。
青年の潤んだ瞳が、ちらりとリュシアンの表情を伺う。かすかに微笑んでみせると、青年は次第に落ち着きを取り戻していった。不規則だった呼吸が、深く、静かになってゆく。二人は暫くの間、何も言わず
指先が感覚を取り戻しはじめる。そこでようやく、ああ、おれは自分で思うよりおびえていたのだな、と思った。青年の身体を閉じ込める腕が縋るようだった。
「もう少しだけ、こうしていても?」
「…………」
青年は返事の代わりにふっと力を抜き、リュシアンに身体を預けた。その表情があまりにあどけなくて、思わずリュシアンは彼の黒髪を撫でた。
子供にするみたいで失礼か、と我に帰ったのも束の間。青年はほんの少し驚いたあと、やがてとろりと目を閉じた。そしてそのまま、彼の胸にほおずりしたのだ。
身体じゅうに電撃が走った気がした。甘く、むずがゆいような、妙な感覚。リュシアンはひどく混乱したが、いま自分の心で何が起こっているのかてんで見当がつかなかった。ただその、どこかうっとりとした青年の表情をずっと見ていたくて、彼は青年の髪を梳き弄ぶのをやめなかった。そして、指に絡んだ黒髪にそっと顔を寄せる――。
16才のリュシアンがだれかの身体に、こんな気持でくちづけをしたのは、人生で初めてのことだった。
「おそろしいほど、月の綺麗な晩だった」
少し経って、二人は客間のソファに掛け直していた。
おおむね元の冷静を取り戻した青年は、自らリュシアンに珈琲を淹れてくれる。しかしその手つきは終始どこかぎこちない。よく見ると、ちらりと覗く耳はほんのりと赤くなっていた。
「真夜中、目が覚めたんだ。なぜだかその晩は嫌な予感がしてね。耳をすますと廊下で使用人達のざわめきが聞こえて、出て行ったら止められた。いよいよ怪しくなって、制止をふりきって行くと……あの部屋で両親が首を吊っていた」
先程見た光景が蘇る。彼にとって何より大切だったであろう人が、目の前で物言わぬ骸となったのだ。もしも自分が青年の立場ならどうだろう。愛しい母や兄弟たちが、自分を置いて命を絶ってしまったら? 世界から見放されたような孤独感、想像するだけで目眩がするほどだった。
「さっきも話したが、父は商売人だった。世界中旅して買い集めた品物や、流行りのドレスを仕入れては、母と一緒に貴族向けの店を営んでいた。
こだわりの強い人で……母がうまくバランスをとっていたのだろうな、経営は上々だった。
だがあるとき、どうも大きく売れすじを見誤ったらしい。その時から、売り上げががたっと落ち込んだ」
青年は珈琲を一口飲んだ。伏した瞳に、睫毛の影が落ちている。
「あぶないとは、思っていた。どんなに売れなくても、父は自分の審美眼を信じて、方針を変えようとはしなかったから……。僕も何度も自分なりの忠告をしたが、はなから聞き入れてはくれなかった。
母との口論が増え、使用人の数が減り。代わりに見知らぬ男達が屋敷に出入りするようになって……とうとう口論どころか、両親は僕の前で話をする事さえなくなった。
そんな矢先の自殺だった。最早、にっちもさっちもいかなくなっていたらしい」
リュシアンはこのとき、ようやく彼の纏うある種のかなしみのようなものの正体に気付いた。そして、出会ってすぐ彼に抱いた親近、親愛の情についても。
無力、であったのだ、この青年も。時代と運命の前で立ちすくむことしかできない、リュシアンと同じだ。
「君が持ってきた手紙があったろう」
「ええ」
「催促状だよ。父は多額の借金を遺して死んだから、いまでもたまにそういう話が来る」
自嘲っぽく歪む口元に疲れが滲んでいる。それはひどく弱々しい微笑みだった。泥水の跡が残った封筒に、ちくりと胸が痛む。おれの手紙が、このひとの悩みの種を増やした。
「その……何といえばいいのか」
しゅんと頭を垂れる。謝る支度をするかのようなリュシアンの様子に、青年は「しまった」という顔をした。「違う、やめてくれ、謝るなど」とおろおろ呟き、言い訳のように言葉を探す。
「その、僕には同年代の友というものがないのだ。使用人に暇をやって、そのあとはずっとこの屋敷にひとりだったので……今日、こうして君が来てくれて、僕も柄にもなく…………あー、だから」
青年はまた、耳まで真っ赤になっていた。
「また、会えるだろうか……?」
消え入りそうな、伺いを立てるような言い草。失礼を弁える間もなく、思わずリュシアンは吹き出してしまった。もしも彼の伝えんとする感情がリュシアンの予想通りならば、彼はなんと不器用な男だろう!
「はい、もちろん! きっと来ます、旦那さま!」
別れ際、青年ははじめて自分の名をアデルと名のった。
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