第2話
屋敷の中は見かけ通りに広々としていた。
この時勢、郵便局を通して手紙をやりとりするような者はたいてい金持ちである。そういうわけで、リュシアンも何度か客の気まぐれに、邸宅の中へ招かれた経験があった。
フェリクス・メフシー氏。貴族の姓ではないようだが、その筋の邸に負けず劣らずの立派な内装だ。ただ、リュシアンが今まで見てきたそれと違い、使用人らしき人影がほとんどないのが気になった。
玄関先で外套を脱いだが、すっかり雨水を吸って重くなってしまっている。ふと歩いてきた廊下を振り返ってみると、手に持つそれから落ちた雫が点々と跡を作っていた。
「う……すみません」
「いい、このくらい。それよりも」
そのコート、と、青年はリュシアンが持っている外套を指差した。求められるままに手渡すと、彼はすっかり濡れそぼった布地を観察しはじめる。
「ふむ。これは、生地がよくない。雨をはじくつくりの布じゃあないな。おかげですっかり裏側まで水が染みている。非道いな……何処の店だ、こんなものを外套として売っているのは」
拾いものである。
流石に情けなくて口には出さないが、リュシアン自身も果たしてこれは外套なのか、ただの布なのかよくわからないまま数年間愛用していた。
「どうにも、家族に食わすのだけで手一杯で。自分が着るものにまで気が回らんのです」
体裁よくきちんと整えられた青年の身なりと、一枚も替えを持っていない自分のシャツ。みじめな気持が少しもないといえば嘘になるが、それでもリュシアンは素直にそう答えた。
青年は少しの間考え込み、やがて何か思い出したように顔を上げた。客間らしき部屋の扉を開けて、中に入るよう促される。まだ水の滴っている外套を暖炉の前に広げ、当然のような顔をして彼は振り返った。
「ついてきたまえ。丁度いいものがある」
「うわぁ……!」
両開き扉の中を覗き込むや、リュシアンは思わず感嘆の声をあげた。
窓のないこの部屋は屋敷の一番奥に位置するのだろう。元は書斎だったのだろうか。否、そんなことはどうでもよい。ここは王国だ、とリュシアンは思った。
「両親が変わり種のブティックをやっていたんだ」
古びたシャンデリアの心もとない明かりの中で、しかし部屋は無数の色にあふれていた。
羽根飾りと大きなリボンのついた空色の帽子。襟ぐりの大きく開いた薔薇色のドレス。こちらの艶のある緑の上着には、繊細な刺繍で金の小花が散っていた。女性のものとも男性のものともつかないこういう衣装は、革命前の貴族たちが好んで着ていたと聞いたことがある。
青年は王のように歩みを進め、机の上にある、小さな引き出しをひとつひとつ開けていった。
木や貝で丁寧に作られた
「特に父は珍しいもの好きで、あちこち旅をしてはいろんなものを仕入れてきてね。やれイギリス式の釦だの、スペインの伝統工芸だの、よくわからないものをしょっちゅう持ち帰っては自慢していたよ」
呆れたような言い方ながら、くすくすと笑う声は弾んでいた。青年の白く細い指先が愛おしそうに釦を撫でる。なぜだか、リュシアンは胸の奥の方がきゅっと小さくなる感じがした。彼には父がなかった。
青年は引き出しを片付け、部屋の隅のワードローブへと向かう。そこには紳士服だけがまとめられているらしく、おとなしい色合いのシャツやベスト、フロックコートなどが並んでいた。その並びに手を突っ込み、彼は手際よく中身を改めていく。しばらくすると、リズムよく動いていた手が止まった。
「そら、このあたり。少し古い型のものだな、流行りが終わっていて売り物にはならんし」 そう言って、青年は手にとった一枚をぽいとこちらへ放り投げた。「君にやろう」
一瞬、何が起こったのか理解できなかった。突如飛んできたものをひとまず受けとめ、リュシアンは目をぱちくりさせた。
いま、なんと言ったのだ、彼は? このシャツを自分にやると? そこまで理解して、ようやく大慌てで手を振った。
「いっ、いいえ旦那さま! いただけません!」
「駄賃には色をつけると言ったろう。気にすることはない、ここにはこんなものが腐るほどあるんだ」
受け取ったシャツを広げてみる。他のものと比べると装飾は控えめだが、釦はすべてきらきらした貝でできていた。襟の折り返し部分はぴんと尖っており、新品なのだから当たり前だが真っ白だ。
青年はそれに深草色のクラヴァットを巻き、姿見の前へリュシアンを連れてゆく。胸の前にいま整えたばかりのシャツを合わせてみせると、青年は一仕事終えた様子で得意げに微笑んだ。
「やっぱり。君に似合うと思ったんだ。どうだね、なかなかの色男じゃあないか」
――溜息が漏れた。
鏡の中の緊張した顔が、しだいに喜色で染まっていく。こんな、金持ちの学生さんみたいなのを、おれが。今のリュシアンなら、こうして青年と並んでも遜色ない家柄の者にも見える。彼の分かりやすい反応に、青年もなかなか満更ではなさそうだ。
二人でひとしきり鏡を眺めたあと、リュシアンは青年に礼を言ってシャツを受け取った。顔を上げた拍子にもう一度鏡の中の自分と目が合う。
(…………汚い)
今度は、ふだん通りの自分と。
考えてみれば当たり前だ。貰いものの綺麗な衣装の一枚下には、いつものくたびれた仕事着がある。リュシアンは本来、こちらの人間なのだ。洒落た服を借りたところで、青年と同じになれるはずもない。
ああ危ない、うっかりなにか間抜けな勘違いをするところだった。ふっと自嘲混じりの笑みが漏れた。青年が不思議そうに振り返る。リュシアンは床に置いていた鞄を持ち直し、青年に向かって一礼した。
「旦那さま。今日は色々と世話を焼いてくだすって、ありがとうございました。おれはそろそろ、おいとましようと思います」
「君、もう帰るのかね」
青年は面食らったようだった。まだ何か言いたげな彼に、リュシアンは慎重に言葉を選ぶ。
「身に余ることばかりで……旦那さまといると、おれはなんだか夢をみているようで、くらくらするのです。戻れなくなってしまいそうで」
おれはこのとおり貧民で、あなたは高貴な方だ。そんな含意が、いやでも言葉の裏に滲んだ。誰にともなくかぶりを振って、言い訳のように笑顔で付け加える。
「家族も待っていますから」
家族、という単語に、青年の表情が変わった気がした。そうか、そうだな、と彼は二度呟いた。
「ならば、僕が言うこともない、か」
青年は自分に言い聞かせるように頷いた。懐から躊躇いなく40スー取り出して、リュシアンの手にそっと握らせる。
「旦那さま、」
駄賃にしては結構な金額に面食らい、思わず青年の顔を見る。品のいい微笑が、なぜだかそのときリュシアンにはたまらなく寂しそうに映った。
「気をつけて。引き留めてしまって、すまないことをした」
それだけ言うと、青年は客間の向こうへと引っ込んでしまった。
旦那さま違うのだ、と、何というわけではないなにかを否定したい気持がリュシアンの胸に湧き上がった。
違うのだ。あなたのそんな顔を見たいわけじゃあ、なかったのだ。あなたが隣にいる時間があまりにすてきで、おれはそれがこわかっただけだ。
開きかけた口からうまい弁明が出てこない。リュシアンはしばらく苦心したが諦めて、書斎らしき部屋から客間へ戻った。暖炉のそばに置いたままの外套を回収し、もう一度青年の背を振り返る。
(いやな気持にさせたろうか)
いつもの彼なら、そしていつも彼が付き合っている類の相手になら、すぐにでも飛んで戻り失礼を詫びただろう。しかし去り際の青年の目が、いま見えている背中が、これ以上の対話を拒んでいるように思えた。同じ部屋にいるのに、途方もない距離を感じる。
ああ、いやだ。こんなのはおれの性分ではない。気分を打ち消したくて、ばさりと音を鳴らして外套を羽織り直す。濡れていた布地は、もうすっかり乾いていた。
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