或る無情への墜落
降木要
失業者リュシアン
第1話
モントルイユの街は今日も変わらない。
貴族たちの馬車が気まぐれに行き交う石畳の道。朝夕は貧しい労働者たちがあくせくとその上を行き交い、その職さえ失った者は途方にくれながら、裏路地で飢えと寒さを凌ぐ。疑問を抱く人間などない。富めるものにとっても、貧しきものにとっても、それがこの町の「あたりまえ」だった。
この街角にもひとり、路頭に迷う若い男があった。
冬の太陽がつくる、うっすらとした陽と陰の境界線。「まともな世界」と「そうでない世界」は、日ごと曖昧に、しかし歴然と区画されている。若い男――リュシアンはぼろのシャツの裾を握り締めながら、日の当たる大通りを呆然と眺めていた。
彼とて、少し前まであちら側の人間だったのである。
―――
「お手紙を届けに参りました」
そう遠くない昔。リュシアンはブローニュ
「おお、ありがとう」
郵便局と、たまに届け先の相手から貰えるわずかな駄賃。2フランあれば幸先よし、そうでなければその日は運が悪かったものとして、稼いだ小銭を使い果たしてパンと薬を買う。それが彼の日常であった。
何年その暮らしが続いているかわからない。彼のうちは貧乏で、兄弟の中でいちばん年長のリュシアンは、物心ついた時から働かねばならなかった。慎ましやかな生活は、娼婦だった母が病に倒れてからさらに厳しいものになった。暮らしに不満を持つ間さえ持てない日々。若者の唯一の心配は、ただ明日も今日と同じような稼ぎが貰えるかどうか、ただそれだけだった。
その日は雨が降っていた。手紙はあと一通。記載された住所はここから幾分距離があるようだが、届け終われば今日の仕事は上がりとなる。こうなれば早く終わらせてしまいたいが、生憎館を出た時にはずいぶん雨脚が強くなっていた。当然、貧乏人の彼は傘など持ち合わせていない。
ためらったが、観念してごくりと唾を飲み込む。コートがわりのぼろ布を頭まで被り、彼は路地へと駆け出した。
支給された革の鞄を膝で蹴飛ばしながら、薄眼を開けて番地を辿る。白く烟った街並みはどこも同じに見えて、土地勘のない彼は結局立ち止まる羽目になった。自分の体を雨除けにしながら、用心して手紙を取り出す。聞いたこともない通りの名である。道のりはまだ遠いらしい。
往来の真ん中、雨音はあらゆる生活音を掻き消す。あわてて飛び退いた彼に気づいているのかいないのか、後ろから来た馬車が盛大に泥水をはねあげて走り去った。硝子窓からは暖かな灯りと、貴族達の笑い声が漏れてくる。
「うわ……最悪だ」
もろに泥水をひっ被り、リュシアンは苦々しげに顔を拭った。手紙が無事かどうか確認することすら、この雨では難しい。胸元にまで入りこんだ雨水の感触に、いっそ笑いたくなった。途方に暮れそうだ。
それから、どれほど時間が経ったろうか。
随分迷ってしまった。すでに雨は小降りになっている。リュシアンのほうはといえば反対にすっかり濡れ鼠となり、ようやく見えた目的地に思わず安堵のため息をこぼした。
なかなかに立派な屋敷である。窓のつくりといい玄関口といい、華美でなくともどこか品がある。曇り空の下ではよく見えないが、庭の花々も普段ならさぞ美しく色づいていることだろう。呼び鈴を鳴らし、家主の反応を待ちながら、彼は呑気にもそんなことを考えていた。
と、その時男の声がした。
「誰だ」
屋敷の扉がぎい、と音を立て、つづいて黒い傘が開く。
傘の下から、上等そうな革靴がちらりと覗いた。舗装された庭の中道を静かに歩いてくる青年は、リュシアンとそう変わらない歳に見えた。傘の持ち主と視線がかち合う。
「君、こんな雨の中、僕に何の用だね?」
相手もリュシアンと同じことを考えたのだろう。刺々しく不審そうだった声に軽い驚きが混じり、声色が少し柔らかくなる。
美しい男だった。この品のいい庭の主にまったく相応しい身なりの、紳士然とした青年。タイ留めの金具には小さな宝石――正確には硝子細工なのだが――が埋め込まれている。硝子と揃いの色をした髪結い、落ち着いたベスト。リュシアンでなくとも、彼の育ちの良さがうかがえる。
若々しく鮮やかな黒髪に縁取られた顔立ちは、やや中性的ながらも凛としている。少女のような花色の唇が、彼を見て不思議そうにほころんだ。理知的なヘーゼルの双眸に、いま自分が映しだされている。リュシアンは急に粗末な恰好が恥ずかしくなり、どぎまぎしながら要件を告げた。
「郵便でございます。ムッシュー、貴方宛にお手紙が」
おそるおそる懐から手紙を取り出す。案の定、封筒の端にかなり泥水が染みていた。さっと全身から血の気が引いていく。しまった、いくら番地が分からなかったとはいえ、逐一鞄にしまうべきだったか。
「も、申し訳ありませんっ!」
反射的に頭を下げるリュシアン。青年は何も言わず、門戸の隙間から差し出された手紙を受け取った。剥がれかけた封を裏返し、差出人の欄をつまらなそうに一瞥する。
「ふむ……ド・テナール男爵。どうせまた両親の……。気にするな、大したものじゃない」
こんなものいつでもよかったのに、と呟く青年に、リュシアンは曖昧に笑ってみせた。雨が降ろうが槍が降ろうが、最低限この仕事をこなさなければ彼は晩飯にありつけないのだ。
「それより君、ずぶ濡れじゃあないか。もう秋も暮れだ、そのまま帰れば身体を壊すぞ……あがっていきたまえ。暖炉がある」
青年はそう言って、門の鍵に手をかけた。呑気者のリュシアンも流石にこれには驚いて、
「そんなっ、おれなどが旦那さまに迷惑をかけるわけには……はっぷしゅ!?」
ははは、と、青年が心底可笑しそうに笑った。綺麗な顔の割に子供っぽい笑い方をするひとだ、と思った。
「面白い男だなあ、君は! なに、ちょうど一人きりで退屈していたのだ。駄賃に色をつける代わりに、すこしばかり僕に時間を割いてはくれまいか」
こちらに手を差し出して青年はまた、悪戯のように笑った。
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