不連続存在

桜人

第1話

 刑務所内は薄暗くて、静かだ。何も聞こえない。ここだけ時が止まってしまったのかと錯覚してしまいそうになる。

 かの前衛作曲家ジョン・ケージは、奇曲にして異色曲と名高い『四分三十三秒』について、無響室に入った際、

「二つの音を聴いた。一つは高く、一つは低かった。エンジニアにそのことを話すと彼は、高いほうは神経系がはたらいている音で、低いほうは血液の流れている音だと語った」

と遺している。だが、今の俺には神経のスパークも血液の脈動も感じられない。そうすると俺は今、無響室の中でさえ不可能な本物の無音を体感している、ということになるのかもしれない。

 音を感じないことで初めて感じることの出来た無音。

 しかし、そんな小さな感動を分かち合える相手も、時間も、もう俺に残されてはいなかった。



 鐘の音が正午を告げた。静寂は消え去り、遠方から冷たい足音と鍵のぶつかる音がやって来る。それに合わせるかのように、周囲からも大小の息遣いが起こった。

 やって来た看守が順番に牢の錠を開ける。しかし看守は俺の牢は開けずに飛ばし、次の牢へと行ってしまった。俺を除いた囚人が続々と出てきて、整列。各々に与えられた番号を叫んでいく。それを確認し終えた看守は、囚人を引き連れて食堂へと向かった。

「……おい、六六六番」

 一人残される形となった俺に声がかかる。振り向けば、そこにはかなりの年を重ねた、一人の看守が立っていた。

「昨日も話したが、今日、お前の分の食事は無い。腹が減っても文句はこれ以上聞かんぞ」

「……分かってるよ」

 そんなことはとうに伝え聞かされていた。胃に食べ物が残っていると困るそうだ。その代わりなのか昨夜の晩は好きなものを好きなだけ食べさせてくれたのは、成程、最後の晩餐というやつか。

 老いた看守は数秒の間俺を哀しそうな目で見つめると、「ふん」と言い残して立ち去っていった。コツコツと、響き消えゆく靴音。俺は一人になった。

 途端、言い知れぬ衝撃を乗せて心臓が暴れ出した。その衝撃はたちまち平衡感覚を狂わせ、俺と床とを激突させた。そして俺は、痛みという体外的な理由か、はたまた、突如俺を襲った衝撃を宥めるという対内的な理由か、羞恥も無くそのまま床に丸まった。体がブルブルと震えている。

 その震える体で、俺は衝撃の正体を悟った。

 それは恐怖。

 死刑というものを宣告された時にはそれほど湧かなかった実感が、今この時をもって牙を向く。怖い、怖い、怖い、怖い。俺はまだ死にたくない。今の今まで実体もなくふわふわと浮かんでいたそれは急速に収束し、無情にも俺を侵し始めた。



 恐怖の大部分を宥めることに成功し、俺が再び立ち上がることに成功したのは、約五分後のことだった。かといって全快というわけでもなく、脚は震えており意識の混濁もまだ残っている。今にも倒れそうな状態だった。

 そのため俺は当然にも倒れまいと壁に手を付いたのだが―いや、これが果たして手を付いたという表現に合致するのだろうか、正解は分からなかったが―結局、俺は壁から受け取るはずの反作用の力を受け取ることに失敗した。壁がそこに無かったわけではない。壁はあった、確かに存在していた。

 それなのに、まるで俺の手が壁を擦り抜けてしまったかのように、俺は壁から何も受け取ることが出来なかったのだ。

 混乱と共に、俺はバランスを崩して倒れた。それはまるで椅子の不在に気付かずに体重を後ろに預けて転んでしまったようなもので、その様はいたく滑稽だったことだろう。むしろ不意打ちであったぶん、痛みは先ほどよりも大きかった。

 異常はそれだけに留まらなかった。起き上がると俺は、強烈な違和感を覚えた。

 俺は利き手である右手を使って壁に補助を求めた。というのだから、当然壁は右手側になければおかしいはずなのに、今、壁は俺の左側にあるのだ。倒れた拍子に前後の向きが変わったとかそういうわけではない。

 つまり、俺は牢屋の反対側に移動していたということになる。

 違和感はそれだけではない。この牢が、いや、この牢の空気が、どこかおかしい。それこそ、何も変わらない日常に紛れ込んだ些細な、例えば愛用の歯ブラシの色が変わっているとか、そんな些細な違和感が、この牢を包んでいる。そしてそれは強烈な気持ち悪さを伴って俺を襲ってくるのだ。

 違和感の正体を探ろうと辺りを見回す。拍子抜けとまではいかなかったが、一つ一つを注視すれば案外あっさりと、しかも色々とおかしな点は見つかった。床の汚れ具合、壁の傷、寝具の乱れ具合……全てが俺の記憶とは異なっており、全てが俺に割り当てられた牢とは違っていた。そして、俺は決定的なものを見てしまった。

 六六五番。この牢の番号だ。俺の牢は囚人番号と同じく六六六番。

 つまり、何とも不思議なことに、俺は超能力者よろしく、壁を擦り抜けて隣の牢までやって来てしまったらしい。



 人類が憧れる透過能力、その論理性を求めた説明の一つに、次のようなものがある。

 ほとんどの場合、固体と固体との衝突は、その衝突の力の分だけ反作用を受ける。何故かというと衝突は反発を生むからであり、何故反発を生むかというと物体を構成する分子の結びつきが固体の場合はとても強く、分子がそれぞれ流動してバラけることがないからである。

 そういうわけで超能力、それも透過能力を信じる人たちはこう考えるわけだ。

 どんなに分子の結びつきが強かろうが、分子一つ一つの形が直方体でもない限りそこに隙間は必ず存在する。ならばちょうどその隙間を縫えるように他方の物体の分子が配置されていれば、きっと固体が固体を擦り抜けることだって可能だ、と。そしてそういった現象が中々見られないのはもちろん、確率が極めて、我々の想像を超えるほどの、これ以上ないほどに小さいから、というわけである。

 別に俺はそのような、いわば超能力が存在すると信じていたわけではないが、それ以外にこの現象を論理的に説明しろと言われても、これが俺の幻覚でない以外にはやはりこの考えくらいしか俺の頭には浮かばなかった。

 となったとしても、やはり俺は「はいそうですか」と、簡単にそれを受け入れ、認めてしまうわけにはいかなかった。いや、正確には、俺がそれを理解するのを本能的に拒否しているのだ。

古来より壁というものは、この世界にある様々なものを遮るために存在していた。あらゆるものを阻む象徴とされてきた。だというのに、囚人の行き場を、自由を遮るために存在しているこれを意にも介さずに通り抜けてしまったことが生んだこの場違いな事態が、不快感となってやって来て、俺に理解を拒ませるのだ。

 今俺は、混乱よりも恐怖よりも、せり上がる猛烈な不快感に苛まれていた。



 奇妙な体験は終わらなかった。

 頭が痛い。風邪を引いた時のようにどくんどくんと血管が破裂しそうになり、血液が頭の中を暴れ回る。人間―いや、これは大概の生物に当てはまりそうなことだが―は普段、自らを守るために脳や身体の機能を半分以下に抑制、制御するそうだが、そういったブレーキが突如何らかの理由で壊れてしまったかのようで、実際に俺の体にも様々な変化が起きていた。

 頭痛に耐えかねて頭を押さえようと伸ばした手の動きはひどくゆっくりで、指紋の一つ一つまでをも細やかに見ることができた。異常は目だけではない。足が床を踏みつけている音、衣服と肌が擦れ合う音、血液が血管を突き破ろうとする音、空気の分子がぶつかり合う音。そう、それらが全て『音』として鼓膜を震わせているのだ。

 訂正しよう。完全なる静寂、完全なる無音などというものは端から存在していなかった。俺が先ほど体験していたのは、俺がただ気つかなかっただけの、偽物に過ぎなかったのだ。

 頭の痛みはなおも増す。まるでオーバーヒートした機械のようだ。意識が遠のいていく。ゆっくりと地面がやって来て、俺は自分が倒れようとしていることに気付く。

 俺は死ぬのだろうか。

 だとしたらこれはあまりにも惨めな終わりだと、倒れゆく中で思った。



 意識が戻った。ただしそれは俺の脳の中で思考が再興したというだけで、視覚も聴覚も嗅覚も味覚も触覚も、何も無い。闇の中を脳みそが泳いでいるようなイメージで、しかし哲学者デカルトの「我思う、ゆえに我あり」の言にならえば、やはり俺は明確に存在しているということになる。

 そして俺は闇の中で、あるものを認識した。意識した。

 それを一言で表そうとするならば、可能性や広がりといった言葉が一番近いだろう。ひどく抽象的だが、今俺が体験しているこれは、おそらく人類の誰もが体験したことのない、未開のものだ。言葉というものは体験や経験から生じる。考えれば、俺がこの状況に適した言葉を探し当てることは初めから不可能だったということだ。これは誰にでも分かることだろう。

 人は、経験からしか物事を語れない。

 体の中に棒が刺さって、体がその軸に絡みつくように形を変え、それを軸として体がまるで風船のように膨らんでいく。そんな奇妙な感覚が末梢神経、つまりは体の末端からではなく、脳に直接迫ってくる。

 瞬間に俺は悟った。これは俺なんかが入り込んではならない領域だ。俺は今、人類のもつ最高峰の核兵器や化学兵器、生物兵器などの三大兵器ですら全く太刀打ちできないほどの、人類史上最も凶悪な禁忌へと足を踏み入れている。いや、人類に限らない、この宇宙の定義を根本から変えてしまうほどの何かに、俺は近づいているのだ、と。

 かといってそれに抗えるわけもなく、俺はただ思考の海にたゆたうことしか出来なかった。



「――太、奏太」

 久しく呼ばれることのなかった俺の名前を呼ぶ声が聞こえた。今度こそ本当の無響を堪能していたはずの俺に、だ。やはり本当の無音というものは存在しないのかと再度落胆する傍らで、俺はその声に覚えがあることに気付いた。

「こら、粟野さん、粟野奏太さん。気付いているのなら返事をして下さい、もう」

 今や脳だけのような存在である俺に無茶を言うこの声は誰であったか。忘れるはずがない。

 この声は――

「そーうーたー!」

 俺の元恋人、故人、窪塚夏希のものだった。



 彼女の叫び声によってなのか、気がつけば、そこは既に闇ではなくなっていた。視覚も聴覚も嗅覚も味覚も触覚も、いつの間にか戻っている。

 そして、

「目、覚めた?」

 俺の目の前にはかつての恋人であった彼女、つまりは夏希がいて、そしてその背景はかつて彼女と仲睦まじく過ごした、とある田舎の学校だった。

「何でここにいるんだ、夏希」

「ううん、私は実際にここにいるわけじゃないんだ。魂だけの存在、まあ幽霊だね。だから今日は幽霊らしく、奏太を恨み殺すためにやって来たってわけ」

「……」

「ああ、ゴメン、怒っちゃった? もちろん冗談だって、全くの嘘。ね、許して?」

 怒ってなどいなかった。むしろもし彼女が幽霊であるという嘘が本当であるのならば、俺は何の躊躇いも無く、先ほどの死への恐怖なぞただの幻覚だなどと言わんばかりに、潔くそれを受け入れただろう。いや、勿論俺は夏希に殺されたいとは思っておらず、ましてや死にたがりだというわけでもない。牢での醜態を思い出せば明らかだ。だが、それは誰とも知らぬ輩に罪悪も同情も無しにこの身を吊されることへの屈辱も、多分に入り混じっていた。つまり、俺は今目の前で溌剌と笑う想い人、窪塚夏希になら殺されてもいい、殺されたいと思っていたのだ。

「で、この状況、奏太分かる? 私、実はここに説明役として配置されてるから、奏太の疑問に色々答えなきゃいけないの」

「……一体誰から」

「私たちより高次な存在から、かな? 仕事を受ける対価として、奏太に会えるように取りはからってもらったの。『好きな人に会うためならば死をも乗り越える』って、私ってばスゴイ健気」

 彼女の、光を透いて見える瞳は生気に溢れていて、それは死に際の病院で見た瞳の何倍も輝いていた。髪にも艶があり、やせ細った体は健康的な肉付きを取り戻し、薄紙を捲いたような白肌は日に当たり、東洋の柔らかい黄色に染められていた。そして一番の変化といえば、

「夏希って、そんなに明るい娘だったっけ?」

「む、それは奏太が入院中の私しか覚えてないからじゃないの? もしかして『奏太に会えて嬉しいからだよ』とか言って欲しかった?」

 彼女は笑う。つられて俺も笑う。

「少し、話そっか。これは本来、私が介在するはずのないある事態についてのお話。奏太がもう会えるはずのない私に感極まって、今すぐ私に抱きつきたいのも分かるけど、なるべく私という存在は無視して聞いてね」

 彼女は歩き出す。ここは学校の、それも俺と彼女が共に在籍していた教室だった。二人以外には誰もいない。無音を切り裂くのは、足音と、彼女の声だけ。

「始まり始まり」

 それは同時に、説明が終わったら彼女とはもう二度と会えなくなるのではないかという、終わりの不安も孕んでいた。



「分かりやすく言うとね、この状況を作ったそもそもの存在は『四次元人』なの。私たちは『三次元人』ね。

 『零次元』は面積で表すことの出来ない極小の点。『一次元』はそれを伸ばした太さの無い線。『二次元』はそれを横に延ばした厚さの無い面。『三次元』はそれを上下に延ばした、私たちのいる世界。で、『四次元』はそれに新たな軸を加えた、もう一つ上の世界なんだっていうのは分かるよね。まぁ実感は出来ないかもだけど。

 この箱を見て。

 ロックがかかっていて、鍵を持っていない私たちは中身を覗くことも、ましてや箱を開けることだって出来ません。私たちが、『三次元人』のままだったら。

 さぁご刮目、タネも仕掛けもございません。この箱に手をかざすと……何と、中に入っていたものが出てきたではありませんか。

 ねぇ奏太、思い出して。これと同じような体験をどこかで、奏太はしてこなかった? ……そう、牢の壁。あれは分子の位置、配置の妙がどうのとかいう話じゃない、奏太が『四次元人』になりつつあるっていうことなんだ。

 私たち『三次元人』は『二次元』より高次の『三次元』の世界に住んでいる。同じように箱で考えてみようか。

 『二次元』の世界に箱があります。『二次元人』はもちろん中身が何なのか分かりません。箱はただの線にしか見えません。さて、それじゃあ『三次元人』は中身をどうやって知りましょう。正解は、紙をペラッとめくるように、『二次元』の世界の表と裏をひっくり返せば良いの。『三次元人』の私たちにはそれが出来る。

 それを『三次元』と『四次元』で考えてみて。『四次元人』は『三次元』の世界の表と裏をひっくり返すことが出来るの。

 うーん、難しいな。

 要するに、『四次元人』はサッカーボールの白と黒の面と裏地とをひっくり返せるってこと。それはもちろん箱にだって可能で、箱の外側と内側をひっくり返したら、必然的に中身は出てくるでしょ?

 とにかく、奏太はそんな風にして『四次元人』に近づいていってるってこと。それが分かってくれたらいいや。

 それで、何で奏太がそんなことになっているかというと、それはひとえに『四次元人』の所為。奏太は今、『四次元』の世界へ招かれているの。

 創作されたキャラクターたちのいる世界を『二次元』ってよく総称しない? じゃあ『二・五次元』なんて言葉は聞いたことあるかな。うん、コスプレとかフィギュアのこと。それらは平面の、平坦なものを限りなく立体的で人間的なものまで「持ってくる」作業。

自分たちよりも下位の次元で作られた、願望という泉から栄養を吸い上げて練り固められた泥は絶対にその人の理想を裏切らない。

だから、そのイエスマンにも似た全肯定的存在をこっちの世界にまで持ってきたいんだよね、私たち『三次元人』は。

 それと同じだよ、『四次元人』も。自分たちで作ったキャラクターを、『三次元』で作った、自分たちと同じ姿形の『三次元人』を、元の『四次元』の世界へ「持ってきたい」んだ。

 うん、そうだよ。

 今まで私たちが生きてきた世界は、『三次元』は、ある一人の、それこそ『四次元人』の世界の中では本当にどこにでもいる普通の人間が想像して創造した、作り物の世界なんだ」



 夏希は教室の窓から体を乗り出して、広がる外を眺めた。耐震工事によって窓際に新しく取り付けられたバッテンのような骨組みの先には、遮るもののない、本当にどこまでも続いて終わることのない空がある。

「随分冷静だね。私の話したことは、それこそ言語や発火のメカニズム、中華の三大発明に蒸気機関、電気にコンピュータ等々の発見、使用、普及なんて目じゃないくらいの超ド級的新事実だっていうのに」

 夏希は教室から見える四角く切り取られた、といっても充分に広く深く巨大な空から、ただただ自分を見つめて動かない俺に向き直って話す。

「度をこした事態については騒がずに何故か落ち着いてしまうって、奏太ってもしかしてそういうクチ? それとも、もしかして私の話を信じてないの?」

「いや、別にそういうことじゃない。確かに夏希の話は興味深かったし、それなりに衝撃も受けた。けど、今の俺は純粋に、そんなこの世界の成り立ちとかどうでも良いほどに、夏希に会えたことが嬉しくってさ」

 気持ちに嘘は無かった。さすがに当初はこの状況に対する混乱や不安が先行したけれども、徐々にそういった感情の波長は短くなり、そして振幅はそれ以上に大きくなって、純粋なる歓喜というものを今、俺は全身で感じていた。

「……ふーん」

 結果、自制が働かずに何とも大胆な発言をしてしまったものだが、それにより生まれた羞恥も溢れる歓喜にたちまち飲み込まれてしまい、後悔といったものはなかった。逆に羞恥は俺の分まで彼女に移ってしまったかのようで、薄暗い教室からでも彼女の耳が朱に染まるのは容易に見て取れた。

「話、続けるね」



「基本的に『四次元人』が私たち『三次元人』を見る目は、私たち『三次元人』が『二次元人』を見る目と同じような感じだと思っていいよ。私たち『三次元人』が月へロケットを飛ばしたり、ドンパチやって滅びという名のレールの上を仲良く走ったり、絶えずに襲い襲われ、犯し犯され万年発情期の猿か何かのように孕み孕ませ合ったりしているのを、彼ら『四次元人』は小説を読むかのように、あるいは映画を見るかのように、あるいはゲームをするかのように、観照して、観賞して、鑑賞している。

 でも、やっぱり『四次元人』だって私たちと同じ人間なんだ。『二次元』のキャラクターがどこかしら欠点を抱えているように、私たち『三次元人』だって何かしらの不備がある。そして『三次元人』に不備があるのは、私たちの創造者である彼らもまた完璧な存在ではないから。

 あっちの世界もあっちなりに問題を抱えているっていうことだよ。

 奏太は「仮想的人権」っていう言葉を聞いたことある? 強姦はもちろん犯罪だけれども、それならばエッチなゲームでの強姦は犯罪にならないのかって話。創作された人間にも人権はあるってことだね。じゃあ人を殴ったり殺したりするアクションゲームやミステリー小説といった作品も当然規制されるべきだ、みたいな意見はひとまず我慢してね。話が逸れちゃうから。

 呆れちゃうけどね、そういった話が『四次元』の世界にもあるんだって。多くの夢想家が恋い焦がれ、数多のSF作品が追い求めた高次元という世界も、束縛の中で生きているんだ。

 『四次元人』はまるで拉致をするかのように『三次元人』を「持っていく」ことを禁じられてしまったの。

 そして、そんな中是非とも『三次元人』をこちらへと連れてきたい『四次元人』は、強制でなければ、同意があれば『三次元人』を連れてこられるのではないか、「仮想的人権」を守ったことになるのではないか、と考えた。

 そしてその結果、私は奏太を『四次元』へと導く案内人としてここにいて、奏太は『四次元』への旅立ちに同意を示すためにここにいるんだ。

 私たちがこうして自由に話すことが出来て、自由に触れ合うことが出来るのも、『四次元人』による厳格な規制のおかげ。そう考えてみると、案外規制ってありがたいものなのかもね。校則なんてクソクラエって生前の私は思っていたはずなのに、いつの間にか、私はそういった縛りに縋っている」



 皮肉だね、なんてこぼす夏希は、まるで白百合のようだった。清潔さの中に閉じ込められた、か細く脆い芯の部分。守られて守られて守られて、汚れを知らなかった純白がついに日の目を見ることもなく、哀しげに朽ちるのを待つかのように、夏希はそんな儚さを身に纏っていた。

「一つ、質問して良いか」

「何でもどうぞ」

「『四次元人』が『三次元人』を自分たちの世界へ連れて行きたいっていうのは分かった。でも何で俺なんだ? 他に候補はいくらでもいるだろう。手当たり次第に声をかけているっていうのなら分かるけど、それだっていちいちこんな世界を作ったり親しい人を呼び出したりだなんて、面倒すぎる」

「それは簡単だよ。つまり、奏太はプロトタイプなの。試作品、試作モデルってことだね。普通で平凡で何の取り柄も無い一般人で、それにもうすぐ罪人として死ぬ。『三次元』の世界から誰かを抜き取るっていう話なら、奏太ほど適した人は他にいないってだけ。少年漫画よろしく元々は才能が無くても実は両親が凄い人でしたとか、実は彼は努力の天才でしたとかの大逆転もなく、奏太は奏太のまま、ただみずぼらしく死んでいくから選ばれたの」

「全否定じゃないか」

「違うよ。それを補って余りある魅力が奏太にはあったから、私はこうしてここにいる」

 話すうちに、俺たちは教室を出て階段を上っていた。俺たちの教室のあった三階から四階へ、十二段を二セット、計二十四段を踏み越える。

「あれ?」

 と思っていたのだが、階段を上った俺の前にあったのは四階ではなく、在学中ついぞ開けることもなかった屋上への扉だった。驚く俺に対して夏希は平然と服のポケットから鍵を取り出して、南京錠を開ける。

「いやいや、だからここは『四次元人』の創造の世界なんだって。ここでなら自分の想像の範囲内で何だって出来る。屋上まで二階分も階段を上るのが面倒で大変だというか弱い美少女もここにはいるんですよ」

 ギギギと、重い音を立てて夏希が屋上への扉を開ける。同時に橙の光が差し込み、輝かしさに虹彩とまぶたとがそれぞれ俺の瞳孔と目を細める。俺たちは屋上へと上り出た。



 しかしながら初めて立った屋上というものは、想像していたものとは大分違っていた。無味乾燥で何も無く、ただ白く無機なコンクリートが直線的に加工され、敷き詰められているだけ。ひどく冷たかった。

「おおー」

 夏希は喚声を上げると、胸中にある興奮を表すかのように、柵も無い屋上の縁へと跳ねていった。追いかけて、教室とは違って遮るものの無いこの景色を、余すところなく全身で受け止めている夏希の横に立つ。

 屋上の景色には些かがっかりしたものの、屋上から見た景色は想像以上で圧倒された。何よりもまず柵が無いということ、これが大きかった。足下を見なければ、まるで空を飛んでいるかのようだ。手を伸ばし、広げ、体を前に倒して一歩踏み込んだならば、そのまま体は重力に捕まることなく、どこまでも浮遊できるし、どこまでも飛翔できる。得られる快感は一体どれほどのものだろう。高みへの欲求はきっと、太陽によって翼が焼き切れるまで止まるまい。

 視線を下に移す。

 そこには見慣れた故郷が、夕日と共に哀愁を醸し出して存在していた。

「小さいね。小さくて古くて、オンボロだ」

 夏希が漏らす。

「知ってる? 一年ぐらい前の話なんだけどさ、とうとうこの町、限界集落に仲間入りしたんだって。織物産業の隆盛はどこに行ったんだろう。昔は県内で一番の人口だったって、奏太のお祖父ちゃん、いつも自慢してたのにね」

 知らなかった。夏希が死んで以来、俺は新聞はもちろん、TVニュースすら見た記憶が無い。元々世事に疎かった俺が知っているはずもなかった。

「ねぇ、奏太」

 夏希が訊く。

「私が死んで、どう思った。私を殺して、どう思った?」

「……どうだろう。思い出すには、あまりに多くの時間が経った。あの頃の感情を思い出そうとしても、果たしてそれが本当に自分のものなのか、分からない」

「嘘。あなたはちゃんと覚えている。ねぇ奏太、逃げないで。私はあなたをもっと知りたい」

「……」

「お願い」

 俺は横の、一人の女性を見る。彼女は思い詰めた表情で、じっと、一人静かに俺の言葉を待っていた。

「……ゴメンね、ちょっと酷いこと訊いた。忘れて」

 だが、先に折れたのは夏希の方だった。夏希はこの場の緊張をほぐすように手を叩き、笑う。生前の夏希はこんなに物わかりも良くなく、ましてや一歩引いて相手を気遣うなんて考えられないことだったが、一体天国、もしくは地獄で何があったのだろう。でも、これが成長だというのなら、俺は素直に嬉しかった。

「夏希、もし俺が『四次元人』になるのを断ったら、どうなるんだ」

「どうもならない。ここでの記憶を消されてまた牢に戻って、奏太は『三次元人』として死ぬだけ。私は輪廻にでも行くのかな?」

「……もし俺が『四次元人』になることを受け入れたら、夏希はどうなるんだ」

「うん、その時はまた、奏太を『四次元』の世界で一人ぼっちにさせないためにも、私も一緒に『四次元人』としてあっちに行くのかな。もちろん生き返った状態で」

 俺が夏希の方へ向くと、夏希もまたこちらへと体全体を向けていた。俺の目が夏希の目を捉え、夏希の目が俺の目を見つめる。一瞬の沈黙。夏希が右手を俺へ差し伸べる。

「行こう奏太、高次元へ。私たちは羽ばたく権利を得たんだよ。より大きく、広く、高い場所へと。この際プロトタイプとかはどうでもいい。これは私たちが十年以上も待ち続けた、千載一遇のチャンスなんだよ」

 夏希は手を俺の前に伸ばしたままで話す。吹き付ける風によってなびいた彼女の真っ黒な髪は、沈もうとする太陽の光を透いてまるで黄金のように輝いていた。

窪塚夏希。享年一八歳。

 幼なじみの女の子。病院に縛られた女の子。無意味な生に絶望し、死を望んだ女の子。その望みを叶えようと、俺が殺した女の子。今蘇り、俺の前に現れた女の子。

 俺の大好きな、女の子。

「ゴメンな、夏希。俺は『四次元人』にならない」

 俺はそんな彼女の願いを、断った。手をそのままに、彼女の表情が固まる。

「怖じ気づいたわけじゃない。きちんと夏希への罪を償いたいからってわけでもない。正直、とても魅力的な話だ。夏希と一緒にどこまでも飛んでいきたい、飛び立ちたいって気持ちもある。でも何でかな、ここから見るこの町の景色が、今俺はとても愛おしいんだ。今まで暗くて狭くて冷たい牢で、誰とも話さずにいたから余計にそうなのかもしれない。でも、この小さくてボロいこの町を、この世界を、俺は『悪かねぇな』って思い始めてるんだ。だから、言いようだけど、この世界を見捨てるようなことはしたくない。極端な話さ、俺は精神的に老いたのかもしれない。心の中で燃え盛っていた炎はもう、夏希が死んでから陰りを見せ始めていた。今はもう向こう見ずに突っ走るよりも、この『三次元』の世界で、俺はきちんと全てを清算して死にたいんだ。

 だからさ、夏希。俺は君と一緒には行けない。『四次元』になんて飛び立たなくて良いからさ、一緒にあの世で仲良く暮らそう」

「……そっか」

 ようやく彼女は手を下ろした。そのまま後ろに組んで、気負いも無く、まるで未練が消えたというように、夏希は満面の笑みを見せた。

「あーあ、フラれちゃった。『私より、世界を選ぶのね』」

「『違うさ。選んだ世界に君の残滓があったから、俺はこの世界を愛することが出来ているだけだ』」

 格好をつけた台詞に、二人揃って笑い合う。

「じゃあね、奏太。あなたが死んだら、また会いましょう」

「じゃあね、夏希。……そうか、これでもうお別れなのか」

「うん。あ、言っておくけど『三次元』の世界に戻ったらここでの記憶は全部消えちゃうから気を付けて。最後に何か言っておくこと、ある?」

「いいや。これが今生の別れだとしても、もうすぐあの世で会えるから別にいいさ」

「ふふっ。そういうとこ、ちっとも変わってな――



 目が覚める。おかしな夢を見た気がするが、ちっとも思い出せない。しかし夢がどうであれ、今俺の目に映るのはただの無機な壁や天井で、見慣れた、だがひどく懐かしく愛おしい現実の檻に変わりはないのだから、別に支障は無かった。

 どうやら夢の世界にいたのはほんの数秒にも満たない間だったらしい。というのも、格子の隙間から漏れる太陽光の角度がほとんど変わっていなかったからだ。何故だか分からないが、今の俺にはそういったことが手に取るように分かってしまうのだ。

 そして俺は、ここが普段、俺の閉じ込められている牢ではないことに気付いた。曖昧な記憶を引っ張って繋げていくうちに、俺は転げた拍子に隣の牢まで来てしまったことを思い出した。

 戻らなくてはと、俺はただ道路を横切るのが危険だから歩道橋を渡るといった風に、平然と、何の躊躇いも無く壁を擦り抜けて俺の牢へと戻った。



 しばらくして、冷たく硬い足音と共に看守がやって来た。

「六六六番、時間だ。行くぞ」

 感情の無い声に俺は頷いて、拘束されながら牢を出る。一歩一歩を大事に踏みしめ、俺は自分の足で絞首台へと向かっていく。

 不思議と、恐怖は無かった。

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