lamp
桜人
第1話
ランプが灯っていた。
夜も深いメンロパークの街、ある研究所の一室を、ランプの光が静かに包んでいる。
「……クソッ」
その研究所の長である男が、悔しげに呻く。その声音にはどうしようもない焦りが含まれていた。
「何で出来ないんだ、あと少しなのに……」
男の顔には、とても三十代とは思えないほど幾つもの皺があり、目の下には、真っ黒な隈が浮かび上がっている。それが言外に、この男の真摯さと、積み重ねている努力とを単純かつ明快に表していた。
男は今、とある研究に打ち込んでいる。
きっかけは奇妙な論文との出会いだった。
『この発明はいずれ未来の世界において、極めて重要な役割を果たすことだろう』
序論の冒頭には、堂々とこう記されている。自らの研究をこうも尊大に語る者がいるのかと、まだ若く経験も浅い彼にとっては信じがたいことであった。
だが、その感情は論文を読み進めていくと共に、あっさりと別のものへ移り変わっていった。
その論文は夢に満ちていた。
この時代に生きる者ならば、誰もが一度は心に描く理想。論文に書き綴られた成果は胸が躍る希望に溢れ、幼き日に夢見た最果てへの可能性を、確信へと導いてくれるに充分なものだった。
訪れた転機を逃すまいと、男はすぐさま行動に出た。
論文を書いた男の名前は、ジョゼフ・スワン。イングランドに住む科学者である。
男は単身スワンの元へと行き、彼の発明を商品化したいという旨を、真っ直ぐな熱意と共に伝えた。幸いなことにスワンも快く了承してくれ、そうして男の新しい研究が始まった。
男は当時取り組んでいた研究を一旦全て凍結させ、スワンのそれの改良、実用化に向けての研究を始めた。
生まれ持った才能や、今までに積み重ねてきた実験の技術故か、当初、研究は順調に進んでいった。
だが、このまま研究は成功するのではないかと、ここに勤める誰もが思い始めたその時、順風満帆であったはずの研究に、ある問題が生じた。
図面は完璧、理論も明快。ただの一つも不備はなく、今まさにスイッチを入れれば、それだけで世界を変えられるというところまで来て、研究は壁にぶつかった。
この装置の根幹を成す部分に適する、構成物質が見つからないのだ。
従来用いられてきたそれでは、あまりの高エネルギーにその物質は耐えきれずに、焼き切れてしまう。かといってその高エネルギーに耐えうる物質を選択するとなると、その装置の仕事率は、ほとんど機能不全といっても良いほどに低下してしまう。
この装置を実用化へと繋げるには、この一種の矛盾ともとれる条件に、上手く折り合いをつける都合の良い物質が必要なのだ。
だがそれが見つからない。
男は約六千種もの物質で実験を行った。しかし、たとえその数限りない実験の中で最高の水準を叩き出した物質を用いたとしても、その装置の根幹を成す物質の寿命は成体の蝉にさえ及ばない。
“理論や法則、概念を極限まで突き詰め、その分野における境地へと至った実験や証明といったものの美しさは、巨匠の描く一枚の絵画と比べても何ら遜色はない”とは、一体誰が遺した言葉か。
その高さまでは届かずとも、男の研究は、成功すれば紛れもなしに後世へと名を轟かすほどのものだ。
男の苦労を具体的に想像できないという者は、解釈を変えてこう考えてくれれば良い。この男の苦労とはすなわち、毎日欠かさずに同じような絵を、金になるレベルで六千枚も描くことと同程度のものであると。
男の実験は、平均にして一日に二十以上もの数を誇る。
この数字は、かの天才バブロ・ピカソの九十二年に及ぶ生涯作品数をピカソの生きた日数で割った結果の平均作品完成数の、四・五作品を優に超えるものである。
男にとって、努力とは常に正しく彼に味方するものであり、またその力の根幹とは、常に自らの背を力強く押してくれる、その意志であった。
己を律する力の根源は決して折れぬその意志であり、男の努力はその場所を起点として、いつだって彼を支え続けている。
しかし。
「……」
その強靱な意志もついには、度重なる失敗により、悲しくも折れようとしていた。
この研究に、必ずしも正解というものがあるとは限らない。もしかしたら、男の考えはどこか根本から違えていて、この研究はただ、無駄に金を食い潰すだけのものなのかもしれないのだ。
幸いにして資金は山ほどある。男は以前にも幾つか有名な功績を残しており、その成果がもたらした大金はまさに富豪のそれといっても過言ではない。
だが、かといって安心も出来ないのが現状だ。今彼の心を蝕んでいるのは、周囲からの期待によるものがほとんどであった。偉大な功績は次への期待を呼び、そのプレッシャーは名声が高まるほどに、心の中を真っ黒に染めていく。
そして周囲の無責任な期待というものは、『裏切り』という事実に対して恐ろしいほど敏感になる。たった一つの過ちによってたちまちその評価は正反対のものとなってしまうのだから、まったく大衆心理とはおかしなものだ。落胆、恨み、憎悪、怒り……期待が大きければ大きいほどに、その反発はより恐ろしいものとなる。
男が不安と苛立ちに苛まれていると、はきはきとしたノックの音と共に、木製のドアの軋む音がした。
「お夜食をお持ちしましたわ、お父様!」
小さくカットされたサンドイッチをお盆にのせた、今年で六歳になる彼の娘が、晴れやかな笑顔と共に駆けてくる。
「サンドイッチです! 私と……ほら、トーマス」
彼の娘、マリアンが弟の名前を呼んで振り返る。するとトーマスと呼ばれた小さな男の子は、おどおどと研究室の中の様子を窺いながらも、ゆっくりとドアの端から半身を見せる。
ドアから矮躯を覗かせるその姿には、幼い故の照れや恥じらい、加えて怯えなどの感情がはっきりと見て取れる。普段、男が研究所に籠もりきりであることも理由の一つだろう。齢僅か三歳のトーマスにとって、父であるこの男は、祝い事でしか顔を見ない、遠い親戚も同然であった。
「二人でお作りしました。休憩の間にお召し上がり下さい」
対して、マリアンはいかにも明るく上品といった体で、男に純朴で輝きに満ちあふれた目を向ける。保護欲を十全に掻き立てる娘をとても愛おしく思いながら、男は二人に感謝の意を伝える。
「あぁ、ありがたくいただくよ。マリアン、トーマス」
男が礼を言うと、二人はとても嬉しそうにはにかんだ。
そうすると、マリアンが後ろで控えるように隠れているトーマスの方へと駆け寄っていく。
「ほら、あなたが言ったのでしょう? 勇気を出しなさいトーマス」
マリアンがトーマスの目線の高さに合わせて屈み込み、何やら激励のようなものを送る。トーマスもそれで奮起したのか、興奮に頬を染めながらも、マリアンの一言一言に力強く頷いていた。
男がそんな二人の様子を訝ること十数秒。マリアンに背中を押される形で、トーマスがゆっくりと男に向かって歩いてきた。
「あ、あの……!」
緊張故か、はたまた生来か。トーマスの紡ぐ言葉は、三歳児であるということを差し引いても少し拙い。
だがその誰にも負けない真摯な思いは、きっと父であるこの男にも伝わったことだろう。
「あげます! ……プレゼント……パパに!」
トーマスはほとんど叫ぶようにそう言うと、包装紙にくるまれたプレゼントと思しきものを男に押し付けるように渡して、一人とっとと走り去ってしまった。
「あっ! ちょっと、トーマス!」
ドタドタと、マリアンもトーマスを追いかける形で勢いよく部屋から出ていく。研究室には、プレゼントを当惑しながらも受け取った、彼らの父だけが残された。
「……?」
騒がしい二人が消えたことで、より強調された孤独。
『今日は何か特別な日だっただろうか』などと、男がプレゼントの意図に頭を回転させていると、今度は開け放たれたドアの向こうから、ゆったりとした足音が近づいてきた。
「あら、二人とももう帰ってしまったの? 折角お茶を用意したのに」
男の妻、メアリーだった。四人分のカップとポットを盆にのせ、柔和な笑みと共に研究室へと入る。
「開けてごらんなさいな。今日、二人が買ってきたものです」
メアリーは男の持つプレゼントを見て、開封を促す。彼女は既に中身を知っているようで、とても楽しそうだ。
男は訝りながらも包装紙を剥がし、現れた小さな箱を開ける。すると。
「……何だい、これは」
男は更に困惑の色を強くし、メアリーに尋ねる。
メアリーは夫のそんな姿を微笑ましく思いながらも、研究以外は何も出来ない夫に正解を教える。
「『扇子』という、風をおくる道具です。名前は忘れましたが……東洋のある国に伝わる、伝統的な工芸品だったと思います。二人は見つけるのに苦労したと言っていましたわ」
メアリーは男からそれを受け取り、使い方を説明する。
「このように横に開いて仰げば……ほら」
男に向けられた風は気化熱により男の熱を奪い、体を冷やしていく。
メアリーはそのまま続ける。
「研究室は暑いでしょう? 貴方だっていつも辛そうにしているし。だからトーマスが何とかしてあげたいって、マリアンと二人で私に相談しに来たのよ」
衝撃が男の胸を貫く。
トーマスにとって、男は邪魔な存在でしかないのだろうと、男は今までそう認識していた。事実、男が居間に現れると、トーマスは一目散に逃げていってしまうなんてことはよくあったからだ。
だが、今その認識が間違いであったことを男は知った。
男の心のほとんどを支配していた負の部分が、送られる風によって体が弛緩するのと同じように、溶け消えていく。
折れかかっていた意志は再び硬さを取り戻し、明日への奮起は男の心を明るいものへと変えてくれる。
応えなければ。
期待に押し潰されようとしていた男は、子供たちの期待に応えようと、今再び動き出す。
「ありがとう、メアリー。おかげでまた、頑張れそうだ」
「ふふ、それは私ではなく、二人に言ってあげて下さい」
メアリーは扇子を仰ぐ手を止め、微笑む。
と、男は眼前の扇子を興味深そうに見つめ、目を輝かせながら尋ねた。
「ところで、その扇子というものは、一体何で出来ているんだい?」
二ヶ月後、男の研究室に大きな歓声があがった。
「成功だ……」
男は力強く光り輝いているそれを見つめながら、静かに呟いた。周りでは、他の研究員たちの叫び声が止まない。
「おめでとう。私もこれに携わった者として、喜ばしい限りだ」
わざわざアメリカまで来てくれて実験に立ち会ったスワンが、男に握手を求める。
「ありがとうございます、ありがとうございます!」
男は歓喜に涙をこぼしながらも、スワンのそれに応じた。
「まさかここまで寿命を延ばすことが出来るとは……一体フィラメントには何を使ったのだ?」
「『竹』という植物です。子供たちから貰ったプレゼントがそれで出来ていまして……」
男がはみかみながら答えると、スワンは興味深そうに頷いた。
「とにかく、本当におめでとう。君は間違いなく歴史に名を残すことになるだろう。発明王ミスター・エジソン」
一八七九年、トーマス・アルバ・エジソンによる白熱電球の改良・実用化は、人類史に残るであろう劇的な変化を世界にもたらすこととなった。
夜という概念は段々と薄れていき、生活はより便利なものへと形を変えていく。
「……今までありがとう。ゆっくりとお休み」
そしてエジソンは笑顔のまま部屋の端まで歩いていき、赤子を撫でるようにそっと、ランプの火を消した。
lamp 桜人 @sakurairakusa
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