第3話


 いつからだろう? 何の感動も覚えることのない、退屈で無機質な時間が流れるようになったのは。そして、何の疑問を持つこともなく、そんな時間に身を委ねるようになったのは。


 朝起きていたずらに時間が流れ、気がつくとあたりが闇に包まれている。いつの間にか眠りにつき、目が覚めるとまた同じ朝が訪れる。毎日が同じことの繰り返し。

 自分の意思で「生きている」のではなく、何かに「生かされている」ような感覚。それは、走っている電車の窓からぼんやりと外を眺めているのとどこか似ている。

 窓の外は手の届かない世界。通り過ぎた景色をもう一度見たいと思っても巻き戻すことはできない。四人掛けのコンパートメントに一人で腰掛け、ありきたりな景色を眺めているだけの行為に何の意味があるのだろう?


 一つ言えるのは、時間は確実に経過しているということ――言い換えれば、私は着実に死に向かっている。

 生まれた瞬間から死に向かっているというのは紛れも無い事実。ただ、普段から目的を持って生きていれば、そんな発想は浮かんでこない。目的を持っている者にとって、生きることは「目的」ではなく「過程」であり「手段」なのだから。


 その日もいつものようにいたずらに時間が流れていくはずだった。

 しかし、私が気まぐれで始めた、納戸の大掃除が日常を非日常に変えた。


 段ボール箱の中身を確認しようと蓋を開けると、そこには私が書いた作品がひっそりと眠っていた。同時に、作品といっしょに「彼女」が私の目の前に姿を現した。


 あの日、目の前にぶら下がっていたニンジンに飛びついた私は、言いようのない孤独感にさいなまれている。そんな孤独を払拭するため、刹那的な快楽に身を委ねている。

 彼女は思ったに違いない――そんな私が作品に目を通す資格などないと。そんな私に見られることは屈辱だと。そんな私がノスタルジーに浸る行為は作品を冒涜ぼうとくするものだと。


★★


「――あなたのこと馬鹿になんかしていない! それに冒涜するつもりもない! 昔書いた小説が出てきたから少し懐かしくなっただけ! もともとこれは私が書いたものだから!」


 語気を荒らげる私に、彼女は首を横に振りながら小さくため息をつく。


「わかってないわね。今のあんたは『わたし』じゃない。別人なの――あんたさ、自分が一番嫌いなもの、何だったか憶えてる?」


 唐突な質問に目をぱちぱちして面食らう私。

 彼女は「やっぱり」と言わんばかりに再びため息をつく。うれいを帯びた眼差しが私に向けられる。


「嘘をつくこと。嘘をつかれること――そんなことも忘れたの?」


 彼女の一言に思わずハッとなった。

 当時口癖のように言っていた言葉を思い出したから。「一つ嘘をつけばその嘘を隠すためにもう一つ嘘をつかなければならない。さらに、その嘘を隠すためにまた別の嘘をつかなければならない。結果として、一生嘘をつき続けることになる。嘘に覆い尽くされて本当の自分がわからなくなる」


「夢を捨てたときから、あんたは他人だけじゃなく自分のこともだましている。『昼のメロドラマの中で起きていることは珍しいことじゃない。みんながやっているどこにでもあること』。自分に言い聞かせて自分の行為を正当化している。嘘に覆い尽くされた中でのうのうと生きている。

 そんな生き方をしているあんたが『わたし』であるはずがない。あんたにわたしの大切なものに触れる資格なんてない。だってそれを望んではいない」


 彼女は、愛おしそうにボロボロのノートにほおずりをする。

 そのときの彼女は、鋭い眼差しで私をにらみつけていた彼女とは別人だった。深いいつくしみに満ちた、柔和な表情は、命さえも差し出す覚悟が漂う、聖母のに見えた。


 作品に対し、死ぬほどの思いをして産み落とした我が子のように愛情を注ぐ彼女。作品とそんな風に接する彼女がとてもまぶしく、そして、とても羨ましかった。


 私は、彼女の放つ輝きに最も似つかわしくない人間。作品に触れてはならない理由がわかったような気がした。


★★★


 やりきれない思いが胸に込み上げた私は窓の外へ視線を移す。

 空一面に夕焼け雲が広がっていた。悲しいほど美しかった。珍しいものではないのに、大切な何かに久しぶりに出合ったような気がした。


 多感な十代の頃は日常の小さな変化を目敏めざとく発見し、何でもないようなことによく涙した。

 二十代になっても私には「第二次多感期」なるものが訪れたようで、ちょっとしたものに感動を覚えることができた。

 しかし、結婚してからは「第三次多感期」が訪れることはなかった。


 オレンジ色の空を眺めていたら涙があふれてきた。

 シンデレラ・ストーリーなどと持てはやされ、たくさんの人から祝福を受けた結婚だった。しかし、私が輝いていたのは結婚式のときだけ。

 毎日夜中まで推敲を重ね、自分が納得できる作品を書こうとがんばっていたときの方が何倍も輝いていたのではないか? また、日常の小さな変化を捉えて「美しい」と感じる感性は何ものにも代えがたいものだったのではないか?


 大切なものというのは、いつも失われて初めてその存在に気づく。


 意地悪な継母と姉にいじめられていたシンデレラは、魔法使いの力を借りて美しい出で立ちで舞踏会に出席し、見事王子のハートを射止めた。

 二人はその場で結ばれることはなかったが、シンデレラが落としていったガラスの靴が決め手となって再会を果たす。


 シンデレラは王子のを把握してはいなかった。にもかかわらず、二つ返事でプロポーズを受け入れた。それはなぜだろう? 地位や財産に目が眩んだから?

 いや、そうではない。「自分が置かれている環境より悪い環境などあり得ない」。そんな確信を抱いていたからに他ならない。

 もしかしたら、片一方だけガラスの靴を忘れたのは作為的だったのかもしれない。

 十二時を過ぎても魔法で作り出したガラスの靴が消えて無くならなかったのは、魔法使いがこうなることを想定して特別な細工をしたからではないか? 全て計画通りに運んだ結果ではないか? 


 私はシンデレラとは明らかに違う。

 今ならわかる。偽りの輝きに目がくらみ、大切なものを失うことの重大さに気付かなかったことに。


 せきが切れたように大粒の涙が頬を伝う。


「あんた、後悔してるの?」


 人目もはばからず涙する私の顔を彼女が覗き込む。


「……どこかでずっと後悔していたんだと思う。自分を偽ることでやり過ごしてきたんだと思う。『あのときの選択は正しかった』って。ただ、あなたに言われて偽ることができなくなった……でも、もう遅い。今さら気づいたって遅いよ」


 小さな子供のように鼻をすすり上げる私に、彼女は「ヤレヤレ」といった表情を見せる。

 オレンジ色の光が降り注ぐ窓辺に歩を進めると、深呼吸をするように両手を左右に広げる。それは、まるでオレンジ色の光を身体全体で吸収しているかのようだった。


 こちらを振り返ると、彼女は穏やかな口調で私をさとすように言った。


「遅くないかもしれないよ――あんた次第では」



 つづく

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