終章③

 一瞬意識が飛んで、それが回復して目を開いた先は、『スタジアム』内に用意されたベッドの上だった。真っ先に天井が目に入る――と思いきや、目に付いたのは覗き込むようにしていた綴町京子の端正な顔であった。必然的に目が合う。

 おとと、と仰け反るように後ずさる綴町。「口臭キツイッス」的な反応とも取れるので、できれば控えていただきたいと思う陽目だったが、そんなことをまったく見せずに上体を起こした。

「……今何時?」

「はいっ!? え、えぇーっとぉ……あ、今は午後四時前ですね。それがどうかしましたか?」

 何故かオドオドしている綴町の様子を、さして追求することなく陽目は「なんでもない」と答えた。寝起き特有のルーティンみたいなものなので、特に深い意味は本当になかったりする。

 瞼が重かったりはしないものの、頭の働き具合は寝起きそのものだ。一試合こなすのに、これほどまでに消耗するのか、と内心驚愕する。

 彼は立ち上がると共に大きく伸びをして、

「とりあえず一度ここから出よう。何か無性に太陽の光が恋しくなった」

「試合中は雨でしたもんねー」

 『スタジアム』から出る道中、「妙にカード選びの時間長くなかったですか?」と突っ込まれたが、何とかお茶を濁した。『ぶっちゃけ敵に塩送ってました☆』などと報告すれば、自分だけ今日の祝勝会は塩水のみなんてことになりかねないからである。誤魔化し切れたかはことさら怪しいが。

 ゲートを潜って外へ出ると、眩いばかりの太陽光と試合中とは別の熱気が渦巻いていた。焼くような暑さも、今はどこか心地良ささえ感じられた。

「――葵くん」

 ――――陽炎の中から、一人の女性が現れた。

 陽目の良く知る、聞き慣れた声音だった。ちょうどいい、と彼は思った。

「……大名寺さん。自分は、勝ちました」

「うん。……そうだね。ちゃんと観ていたから知ってるよ」

 揺らいでいた彼女の全身が、ようやく元の形を取り戻して見える。多少痩せたように感じられたが、目に生気はちゃんと宿っているようで一安心する。

 改めて姿を確認することができて良かった、と一息ついた陽目は、三メートルほど距離を開けたその状態のまま、言いたいことを告げる。

「勝って、近衛一本を手中に収めました。……もし良かったらですが、近衛を貴方に売ってもいいと考えています」

 それを聞いた綴町は「何それ聞いてない!?」と言いたげだったが、むぅと黙る。そんなことを言い出せる空気ではないと悟ったのか。珍しい。

 大名寺蓮華は尊敬する先輩監督である前に、明確な敵でもある。いくら近衛一本を取り戻したとはいえ、それを無償で譲り渡してはマスター同士としても友人同士としても、その選択は下策だろう。

 だから彼は、一五〇〇万で売ろうと申し出た。相場を鑑みても安過ぎるが、今までの授業料込みだと言いくるめようとした。事実、彼女には与えられてばかりだったので、借りを返せる良い機会だとも考えていたのだ。

 大名寺は何やら考え込んでいるようで、俯き加減で少年の話に耳を傾けている。

「――一括払いは無理でも、分割払いで大丈夫です。返せない可能性もあるなんて、微塵も考えてませんし。それに、」

「――――葵くん」

 錦守にも甘いと断じられたそれを、大名寺はピシャリと打ち切った。

 陽目の言葉が詰まる。

「葵くん。私には、その選手を買い取ることはできないよ。負けた私が何を強がってるんだって、笑われるかもだけどさ」

「そんなことは…………」

「私はもう、君に充分甘やかされた。私に足りないものを教えてくれて、あまつさえ再起の鍵となる選手まで格安でくれようとして…………。けど、もう、いいの。これ以上の甘さは――――私にとっては、毒になるから」

 見上げた顔は、どこか泣きそうになっていた。涙を懸命に食いしばるように見えた。

 その中でも、彼女は唇を不敵に歪めて――歪めようとして、人差し指を陽目へと向けた。

「近衛は君が使うべきだ。いずれ……私が陽目葵と勝負して、勝って、必ず奪いに行くから」

「…………、」

 ああ、と少年の口から嘆息が漏れる。自分は何て愚かなんだろうと。過剰な甘さは毒になると、また彼女から教わってしまった。大名寺蓮華は、陽目葵と友人関係である前に、ライバルでありたいと、そう言ったのだ。

 彼は握り拳を作ってコツン、と戒めの意味を込めて自身のデコを叩いた。その拳を外すと、大名寺は踵を返し背を向けていた。

「君とはもっと大きな舞台で――大観衆の前で白黒を付ける。だから、ひとまずここでお別れだね」

 大きな舞台、ということは、少なくとも同じ地区内で『昇格戦』には挑まないということである。数度の『昇格戦』を経てランクを上げ、いつになるのかも本当に対戦できるかも確かではない。それでも、彼女はそう告げた。

 大名寺は足早にこの場から、あるいはこの地区から立ち去ろうと動く。

 その彼女の足を――――

「大名寺さんっ!」

 ――少年は大声を出して引き留めた。

 彼女は彼の方を振り向くことはせず、ただただ友人の言葉に耳を傾ける。

「自分はこれから、『チーム戦』の世界で生きていくことになります。だから、貴方とは今までのように気軽には会えなくなります。……だから、最後に一つ、言わせてください」

 口下手な少年は、大声を出したことはほとんどない。熱いものを秘めているのは確かだが、それを外へ出そうとは思わなかったからだ。

 慣れていないのか、普段よりもたどたどしい口調でなおも続ける。

「自分は、貴方のことを――――」

 紡がれる言葉は、過去を振り返るように儚く、熱を帯びていた。

「――――本気で、憧れていたんです」

 大名寺は頑として振り向こうとしない。だから、少年のそれは必然的に一方的なものとなる。

「その技量の高さに惹かれた。そのマスターとしての在り方に憧れた。届かないはずの背中に手を伸ばしてしまうほど――――自分は、貴方に憧れたんだ」

 ともすれば口説き文句かと勘繰られてしまうセリフは、しかしそれとは別の空気を内包していた。憧憬、鼓舞、敬意――多くのものを秘めていた。

「今日、錦守さんと戦っていても、思いました。……あの人も技量はあったけど、貴方には及んでいないって。特に、近衛一本の扱いが段違いでした。…………貴方は選手の力を引き出そうとして、そして選手たちは貴方の期待に応えようとして。……ただのカード好きにはできない芸当だと、改めて実感しました」

 当の本人の肩は震えていた。表情までは窺い知れないものの、彼女は堪えるように震えていた。

「……自分にはまだ、あの高みには到達できません。でも、いつか――貴方と対戦する時には、絶対に届いてみせます! だから、自分は――――もっと強くなってみせますっ!」

「………………………………、」

 彼女は最後まで言葉を返そうとはしなかった。

 ――『負け犬だ』。錦守アキラ敗れた彼女のことを、周りの人間はそう言って嘲笑うかもしれない。だけれど、陽目は知っている。自分だけは、知っている。

 ――――遠ざかる大名寺の背中に、彼の憧れた、黄金の誇りが宿っていたことを。

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